第一章 シャネリアと黒竜

第一話 黒竜との出逢い

 私はシャネリア・リリス・コートワール。コートワール公国の公女です。


 今から十年前、私がまだ五歳の時でした。領内の森をいつものように一人で散歩していると、突然ドンッという大きな音と共に大地を揺るがすような地響きが起こったのです。


 いいえ、今になってみれば地響き、というのは少々大袈裟だったかも知れません。ですが幼い私にはそれが世界の終わりにさえ感じられました。


 雲行きは怪しく、遠くの方で稲光が瞬き、遅れて低い轟音も聞こえます。雨が降り始める前にお城に帰ろうと思っていた矢先の出来事でした。


 ところが子供の好奇心からか、その時の私は恐る恐るながら音のした方へと向かって歩き出したのです。そしてすぐに、地響きの原因を突きとめました。


 空から落ちてきたであろう全長二十メートルほどの黒い物体。周囲には焦げ臭い匂いが漂っています。


「こく……りゅう……?」


 ぐったりと横たわったそれは、息はありますがとても苦しそうでした。一部の鱗は剥がれ落ち、何かに焼かれたのか翼が黒く炭化しているように見えます。


 黒竜こくりゅうと言えば、この世に生きとし生けるもの全ての頂点に君臨する絶対的強者です。成竜なら体長は優に百メートルを超える巨体となります。


 白竜や青竜、赤竜などの竜族もおりますが、黒竜の強さは同じ竜族とも一線を画すほど。人が唯一従えることが可能なワイバーンなどは、成体で体長が五メートル程度なので足許にも及びません。


 そんな黒竜がなぜこのような姿に……


 いえ、それよりも今は苦しんでいる状況を何とかしなければいけませんわね。黒竜がこの地で死んだとなれば、公国が彼らに滅ぼされるかも知れないからです。


 そして私は幼くしてすでに、病気や怪我を治癒する聖魔法が使えました。さすがに死者の蘇生は叶いませんが、瀕死でも生きてさえいれば完全治癒する最上位の魔法です。


 たとえ欠損した部位でも元通り、視力が失われていても見えるように出来ます。ただし先天的な障害はどうにもなりませんが。


 ただ、この力は無闇矢鱈やたらと人前で使ってはならないと、日頃から父上さまにキツく言いつけられておりました。私が聖魔法の使い手だと知られれば、悪い大人たちがさらいにくるとおっしゃるのです。


 当然、子供だった私は恐怖を感じました。ですけどその時は森の中。しかも辺りに人影はなく、魔法を使おうとしている相手は黒竜です。


「竜は人じゃないから大丈夫ですわよね」


 そして私は小さな両手のひらを、黒竜の焦げて傷ついた翼に向けて祈りを捧げます。


「そ、そくびゃ束 縛ゆえ、つ、つよくびゃたき……」


 これは一種の祝詞のりとです。魔法を使うのに呪文などは特に必要ありませんが、唱えるとより効果が高まると教わり、当時の私は練習の真っ只中でした。


 五歳の口ではなかなか発音が難しく、噛み噛みだったのを思い出します。そして――


「えくすきゅあ!」


 一心に黒竜の翼が癒えることだけを考えて、私は制御の覚束ないままありったけの魔力を注ぎ込みました。すると淡い緑色の光が黒竜を包み込み、それまで苦しみに悶えていた表情が次第に穏やかになっていきます。


 どれくらいの時間が経ったかは分かりません。ただ、気づくと黒竜の翼は美しい原型を取り戻し、傷もすっかり癒えたように見えました。


 よかった……でもなんだかフラフラします。


「ホウ、人間ノ小娘カ。驚イタゾ」

「!!!!」


 黒竜が半目を開けたのを見てホッとしたところで、背後からいきなり声をかけられて私は飛び上がって漏らしそうになりました。もちろん、決して漏らしませんでしたけど。


 そうして後ろを振り返ると、黒く長い髪にほんの少し面長に見える麗人が私を見下ろしておりました。麗人……そう、眉目秀麗とはこの方のためにある言葉なのではないかと思えるほど、整ったお顔立ちをされています。


 背丈は一般的な男性と比べて大柄な父上さまよりも、さらに頭一つ分ほど高いでしょうか。体つきは無駄のない筋肉質で、まだ五歳だったというのにドキドキとときめいてしまったほどです。


 ただ、なんと言いましょうか……


「ど、どど、どちらさまでしゅの?」

「我ハ黒竜ノおさ、ヴァスキーダロワ」


「ゔぁしゅきー……? ゔぁしゅきーどの殿はどうしてはだかですの?」

「ウン?」


 そう、彼はその身に何も着けていなかったのです。あの時は幼かったのでそれほど羞恥心は感じませんでしたが、父上さまのそれより大層ご立派だったように記憶しております。


 お、朧気おぼろげにですわよ。朧気に!


「アア、ナルホド。コレデヨイカ?」


 そう言うと彼の体は粗末なボロ布に包まれました。ですが不思議と嫌な臭いはありませんし、不潔な感じもしません。


「ゔぁしゅきーどのはひとにみえますがりゅうなのですか?」

「我ラ竜族ガ人間ノ姿ヲトルナド容易たやすキコト」


「あっ! わかりました! ひとにばけているということですわね」


「化ケ…………幼竜ヴィンスキーグノワヲ助ケテクレタコト、礼ヲセネバナルマイ」

「えっと、ゔぃん……きーぐの……?」


「…………マアヨイ。小娘、名ハ?」

「しゃねりあですわ」


「デハシャネリアヨ、オ前ノ望ミヲ何デモひとツ叶エテヤロウ。何ナリト申スガヨイ」

「えっと……でしたら……あ、あれ?」


 その時、急に体から力が抜けていくのを感じました。とても立っていられません。


 すでに自分ではどうしようもなく、視界は閉ざされ、私は気を失ってしまったのでした。

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