けっこう……楽しかった……

 ――水滴の音が聞こえた。


 ポタリ、と。一滴の水が地面に落ちる音。

 本来なら耳をすませないと聞こえてこないような、凄く静かな空間でしか聞こえてこないような音。

 それが鮮明に、けれど五月蠅くは無く。あたしの耳に聞こえてきた。


 ヴァイオリンの説明を読もうとしていた手が止まる。見回してみると、あたしと同じように皆も辺りをキョロキョロと気にしていた。という事は、さっきの音が聞こえたのはあたしだけじゃないってことになる。


 そして気のせいじゃ片付けられないぐらいに……部屋の空気が変わった。


 この状況で起こった変化。そして最初に聞こえてきた水の音。


 これらから考えられる最も高い可能性は、ここに皆が集まっている理由。全員が待ち望み、ある意味来て欲しくなかったがここにやって来る予兆。そう考えるのが妥当なところでしょうね。


「スキルの紹介は後回しね……」


 そう思ってガチャガチャを仕舞ったのと同時だった。


 あたし達の目の前に掌ほどの大きさの水球が現れた。

 それはまるで鼓動を打つかのようにドクンドクンと表面を揺らしながら、その大きさを徐々に増していった。そしてあっという間に人1人が中に入れそうなぐらいのサイズとなった。


 そして言葉が聞こえた。言葉というよりも言霊と言った方が適切かもしれない。

 耳にだけじゃなくて、心にも揺さぶりをかけてくるような力の籠った声だった。


『水は存在する。どこにでも。故に私は存在する。遍く場所に』


 ここまでくれば、もはや間違いないだろう。


 水球は形を変えて人の姿を形作る。その姿は人の形をとった水、とでも表現すればいいのだろうか。記憶では魔物の中にも液体状の身体を持ち人型をとる種もいたはず。

 でも、見たことは無くてもそれと見間違う事は無いと思う。それぐらい、目の前の存在が放つ気配がだったから。


 自然、と表現したのはその場に馴染んでいるという意味じゃない。こう言っても伝わらないかもしれないけれど、近い感覚としては大森林や海を前にした時の感覚だ。人間が手を出す事を躊躇うような超自然的な気配。


 ……ダメね。自分で言っていて胡散臭過ぎる表現になっちゃったわ。


 とにかく人やそこらの魔物からは感じる事は無いだろう高位の存在感みたいなものを放っていた。

 こんな芸当が出来て、さらにこの場に用のある存在。これだけヒントがあれば、どんなに鈍い人間でも目の目の存在の正体に気が付くだろう。

 そしてあたしを含めたこの場の全員がその答えに至っていた。


 全員がその場に膝を折る。そして陛下が口を開いた。


「本日はよくお越しくださいましたーー水の精霊様」


『ん。来た』


 身体の造形からして想像はついたけど、やっぱり女性の声だった。

 精霊に性別があるのかは知らないけど、水の身体には女性らしい凹凸が現れている。いや、精霊なんて高位の存在なんだから性別ぐらい好きに変えられる可能性だってある。今は女性だけどその気になれば男性体に、なんてことも出来るかもしれない。


 そんな見当違いのことを考えていると、精霊様がさらに言葉を続ける。


『まずは今回の件について、詳細な説明を求める』


「……かしこまりました」


 精霊様はあまり感情を出さなタイプのようで、動かない表情からは感情を読み取る事は出来ない。声音の方もかなり平坦なので、怒っているのかすら分からない。別にあたしはその手の感情の読み合いが得意という訳じゃないのだけれど。

 見れば陛下もその辺りで苦戦しているのか、凄く緊張している様子が伝わってくる。


 そういえば知恵の神様や海の神様と話した事はあるけど、ここまでの存在感を感じたのは初めてだ。この国のトップである陛下や王族のミラでさえ当然のように膝をついた事も、この存在感が理由だろう。


 何というか……生物として精霊が上位にいる、ということ。より神に近いところにいるという事を、あたし達は本能的に悟っているのかもしれない。

 『精霊信仰』なんて言葉が生まれるぐらいには、精霊は神に準ずるかそれと同じぐらいの存在として崇められている。そう考えればそんな気持ちを抱くことも当然なのかもしれない。


 ――精霊


 改めて、そう呼ばれる存在を目の前にしている事実に鳥肌が立った。


 陛下がティアラを巡る一件を丁寧に説明する。王宮の宝物庫からティアラが盗まれて、そして今回発見に至るまでの流れを順を追って話した。その間、誰も口を挟む事は無く改めて陛下の口から語られる経緯を黙って聞いていた。


 暫くして陛下の説明が終わる。

 語られたのは既に聞いていた内容と同じもので、特に新しい話は無かった。むしろこの緊張感の中で1回も噛まずに全部喋り切った、陛下の胆力の方に驚いているぐらい。


 そうして話を聞いた精霊様は、何かを考えるように目を瞑って沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


『……経緯は分かった。それで、犯人捜しはどうなってる?』


「はい……現状、目星すらついておりません。もちろん、現在も捜索は続けていますが!手掛かりも掴めずに難航しております。申し訳ございません……」


『そう。それなら少しだけ情報をあげる。ティアラに干渉を受けた時、呪いに混じって悪魔デーモン種の気配があった。少なくともティアラに呪いをかけたのは悪魔種に間違いない』


「っ!?……値千金の情報でございます」


『ん。ティアラが盗まれたのはあくまで人間の問題。精霊が過度に干渉することは出来ない。だから犯人のことはそっちに任せる』


「必ずやこの情報を役立て、犯人を捕まえてみせましょう!」


『よろしく。それと、ちょっとティアラ見せて』


 精霊様はティアラを受け取ると、いろんな角度からそれを眺めると、掌に作り出した水球に沈めた。 

 その水球は身体から分離したわけじゃじゃなく、精霊様が現れた時と同じように前兆も無く空中に現れていた。


『……呪いによる干渉は跡形もなく消えてる。ああでも、保護の魔法が弱くなってるから掛け直しておく――はい、返す』


「あ、ありがとうございます。お手間をかけてしまい申し訳ありません」


『保護の魔法に関しては経年劣化だから気にしなくてもいい。でも――』


 その瞬間、精霊様からこれまで以上の存在感が放たれた。

 それは物理的な圧力すら伴い、あたし達が身動ぎ1つでもすることを封じる。


 これによって、少しだけ弛緩しつつあった空気が一気に引き締まったのを肌で感じた。


『精霊は自分の信頼に対する裏切りを1番嫌う』


「……っ」


『精霊との契約において、契約の証たるモノを守ることが信頼に応えることに繋がる。それが出来なかった以上、本来であればお前たちとの契約を継続する理由は無い』


「そ、それはっ……!」


『だから……次は無い』


「……っ!」


『今回は海の神様からのとりなしがあったから、これ以上何かを言うつもりは無い。でも人間と精霊の話に神々が出張ってくる事の方が特殊なの。本来だったら、契約を破棄した上でそれ相応の対処をする予定だった。それだけは覚えておいて』


「……しかと胸に留めおきますっ!!」 


 精霊様は陛下の返事から、それが本当に信頼に値する言葉か見極めようとしているように感じた。

 自分の足元で膝をつき、まっすぐに精霊様の視線を受け止める陛下に何を感じ取ったのか。圧力が最初と同じぐらいまで小さくなった。


『分かった。その言葉、絶対に違えることの無いように』


「2度とこのような事が起こらぬよう、万全の対策でもって守護いたします!」


 どうやら精霊様の怒りに触れる事だけは回避出来たようだ。

 『精霊の怒り』とは、この世界の歴史上で幾度か登場する言葉だ。それは猛威を振るう自然そのものとして恐れられていた。


 ある地域では山が更地になるほどの地震として。またある地域では7日7晩の間延々と降り続ける豪雨として。いずれにしても、精霊の怒りが降りかかった地域は壊滅的な被害を受けている。現に遥かに過去の話であるのに、今でも人間が住むことが出来ない場所もあるぐらいだ。


 あたしは領地にあった歴史書でこのことを知ったけど、恐らく多くの人がこの事実を知っているはず。

 だからこそ、大丈夫だとは思っても、言葉としての許しを聞くことが出来て本当に安心した。何時の間にか呼吸が浅くなっていたのか、心臓がバクバクと早鐘を鳴らしている。自分でも気付かぬ内にかなり緊張していたらしい。


『こっちの用は終わったから、今度はそっちの番。神水ちょうだい』


 その言葉に視線が一斉にあたしへと集まる。

 それを見た精霊様もあたしに視線を向ける。


 何というか、非常に居心地が悪い……早く出してしまおう。

 無限ポシェットの中から昨日準備した神水入りの樽を取り出す。蓋を開ければ、中には並々に注がれた透明な液体、神水が入っていた。


 神水――そう言ってしまえば大仰だけれど、見た目は普通の水と何も変わらない。味は分からないけど、色も無ければ匂いもしない無色無臭の液体だ。むしろそれが特徴と言ってもいいかもしれない。

 だから、もし他の樽と混ざったりなんかしらたら大変な事になる。飲んでみれば効果の違いは一目瞭然なんだけど、その場合、謎の進化を遂げた人間が高確率で誕生する。

 よって誰かに預けるよりも自分で持ち歩くのが一番安心出来るのだ。


「これが神水です……確認されますか?」


『必要ない。水であればそれをワタシが見間違う事は無い。それに、中身から神の力を強く感じる』


 神水から神の力を感じる?……確かに神水なんて名前が付いているんだから、それ自体は不思議な事ではない。でもそれは、上手くすれば神の力を解析出来るんじゃないか?ちょっと加工してやれば取り出す事も出来ちゃったりするのでは?


 ……ただの人間が手を出していい領域じゃない気がするから、優先度は低く設定しておきましょう。もし宗教関係者にバレたら不敬だ何だって、厄介事になるのは間違いないだろうし。


『それじゃあ早速――』


 樽の中の神水が蛇のように伸びていき、精霊様の身体を形成している水の中に取り込まれていく。


『想像以上のエネルギー量、さすが神水……』


 みるみる内に樽の中の神水は減っていき、一滴残らず精霊様に吸い込まれてしまった。神水を取り込み終えると、透明だったはずの身体は青が濃く深くなり、表面に薄っすらと輝きを纏っているように見える。

 そして、感覚的に精霊様の変わった様に感じた。それは精霊としての存在感がより極大化したのか、それとも生き物としてより高位の存在になったのか定かではない。けれど、神水を取り込んだことにより、さっきまでとは一線を画す存在になったと考えられる。


『ちょっとエネルギー多すぎ。もうお腹いっぱい』

 

 そう呟くと、口から何かを吐き出した。そして、あたしに視線を向けると『あなたがクレハ?』と問いかけてくる。突然のことと目の前で起こった変化に動揺したあたしは、噛みそうになるのを何とか堪えて「はい」と答える。


『貴女のことは海の神様から聞いてる。この量の神水はワタシでも手に入れるのは難しい。だからこれはちょっとしたお礼』


 そう言って手渡されたのは、さっき精霊様が口から吐き出していたもの。中に青い光を灯した親指大の石だった。その中の光は刻一刻とその輝き方を変化させて、流動するかのように揺れ動いている。口から出したものだけど、それを見れば汚いと思う事は無かった。


 石を見て、どこかで見たことがあるような、そんな感覚を覚えた。

 少し考えながら眺めていると――思い出した。

 

 ――水面


 昨日、庭でやアリシアとサーラと泳ぎの練習をした時、水の中から見上げた水面に似ていた。空には太陽を遮るものはなく、水面でゆらゆらと揺らぐ光が凄く綺麗で幻想的だったのを覚えてる。


「せ、精霊様――これは……?」


『さっきの取り込んだ神水の余分なエネルギーで作った。純度の高い水の魔力を作り出すことが出来る。せいぜい初級の魔法が使える程度だけど、あなたなら何かに使えるでしょう?』


「そ、それって――」


 ――魔力を生み出す石ってこと……?


 世の中には魔力の籠った素材というのは様々に存在する。それは魔物の持つ魔石もそうだし、ポーションに使われる薬草の類もそうだ。もちろんあたしも世界中のそういった素材を知っている訳じゃないけど、なんて聞いた事が無い。

 もしそれが本当なら――いや、本当なんだろうけど。これ1つで半永久的に魔力を供給し続けることが出来るということになる。


「今まで思い付いても動力の問題で実現出来なかったあれやこれやに使えるかもしれない。初級魔法程度の魔力しか生み出さないって言っていたけど、それが毎秒なのか毎分単位なのかで話は変わってくる。まずはそこを調べない事にはどれに使うかも計画が立てられないわね。でも生産する魔力量が少なかったとしても、そこは術式を効率化させればある程度はどうにかなるし、構想だけはあった魔力増幅機構をこの際作ってみて組み込んでみるのもありかもしれない。とすると必要な素材が――」


「クレハ!クレハ!!戻ってきなさい!!」


「……はっ!?」


 セレナお母様の声でふと我にかえる。

 陛下とミラは呆れたような視線を向け、精霊様は面白そうなものを見つけた、みたいな視線を向けていた。


 ……あまりにもな代物を渡されてちょっと我を忘れてしまったみたいね。


「も、申し訳ございません。少し興奮してしましました……」


『今度それで作ったものを見せてくれたらいい。期待してる』


「……畏まりました。全力を尽くします!」


『ん。それじゃあ私は帰る。じゃ』


 そう言うと精霊様は、身体を水球の形に戻すとんどん体積が小さくなっていく。

 そして最後には、現れた時と同じ一滴の雫となり消えてしまった。


 あっという間の出来事、そして用事が終わるとそそくさと帰ってしまった精霊様に唖然とする。

 少し経って、陛下たち王族組が再起動する。


「とりあえず、話し合いは以上ってことかしらね、お父様?」


「どうやらそのようだな。皆も楽にしてくれていいぞ。我も疲れたからな……」


 ミラの確認の言葉に陛下が同意して体から力を抜く。それを見て、あたし達の身体からも力が抜けた。

 陛下の言葉じゃないけど、本当に疲れた。時間にしてみれば、ほんの数十分程度の出来事だったんだろう。しかし、精霊と対話することがこれほどまでに神経をすり減らすとは思わなかった。


 さすがに世界各地で、神に準じる存在として崇められる存在だ。ただそこにいるだけで、その圧倒的な存在感に身体が緊張してしまう。

 でも、一生を賭けても会えない存在と会話する経験が出来たのは喜ぶべきことかもしれない。自分の肌で精霊の存在を感じる事が出来たのは、貴重過ぎる経験だ。


「さて、カートゥーン家の皆はこの後どうする?色々あって疲れているであろうし、すぐに部屋は用意させるから、王城に泊まって行っても構わんぞ。むしろ今回の一件では非常に世話になっているから、是非とも持て成しを受けて欲しいところなのだが」


 あたしは目を瞑って、疲れていて何も聞いていませんでしたという体をとる。こういうことに関する判断は家の当主であるバルドお父様がすべきところなので、返事を押し付けてしまおう。そして出来れば断ってくれと心の中で念じる。王城に止まるなんて、精神的に休まる気がしない……

 薄目でセレナお母様の方を見ると、お父様に「分かってるだろうな?」みたいな意味を込めた視線を送っているのが見えた。


 そんなわけで重大な判断をあたし達から押し付けられたお父様が出した結論は――


「で、ではお言葉に甘えさせていただきます」


「「……」」


「うむ。では部屋を準備させるから暫し待っていてくれ」


 王族からの誘いに負けた。断るに断れず葛藤した上で、誘いに乗ってしまった。

 判断を押し付けた立場だから言葉には出さないけど、何してんだよ的な思いを込めた視線をお母様と一緒に送っておく。


 陛下は部屋の外で待機していた使用人を呼び出し、あたし達の部屋を準備するように伝える。

 そして、それから5分と経たずに準備が完了したと使用人が戻ってきた。あまりの速さに王宮勤めのレベルの高さを少し垣間見た気分だった。


 という訳で、王城でのお泊りが決定して本日最大のイベントが色々と問題を残しつつも終わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る