第12話 吉川家養子入り
北家へと養子に出された元春。
北就勝は元就の弟、とは称したが実際は元就の異母弟である。
「毛利弘元の四男だったっけ……、弘元の侍女で有田某の子供として生まれたって何かで読んだし……」
そこで、少し北就勝の話をしよう。
足が不自由であったため、初めは仏門に入り常楽寺の僧侶となっていたが後に還俗したという。
還俗した正確な時期は不明のままではあるが、1530年ごろと言われている。
と言うのも、「北式部少輔就勝」と署名している起請文の年次と毛利家文書に残る大内氏側との北の所有権を巡るやりとりが残っている。
毛利家臣として北氏の遺領を継ぎ、次兄である毛利元就から「就」の字を与えられ、「北式部少輔就勝」と名乗ったとされている。
なお、就勝には子が無かったため、元就の次男で就勝の甥にあたる元春を養子に迎えて、自らの死後に所領を譲る契約を1544年に行ったのである。
だが、それから3年後の1547年。
元春が新庄局と結婚したころ、母方の従兄の吉川興経の養子となる。
これは興経と仲の悪かった叔父・経世を初めとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。
条件は興経の生命を保証すること、興経の子・千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。
「確かに、うちを継がせたいと言うならまずは、命あっての事だもんな……」
同年吉川経世、市川経好、今田経高が連署の血判起請文によって、元就、隆元、元春への忠誠を誓い、元就、隆元、元春は返答の連署起請文を送っている。
1550年、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。
そして熊谷信直らに命じて興経と千法師を殺害しており、これが毛利元就の調略であったといえる。
「確かにそれなら血に塗れた、って言われても不思議はないな……」
以後、安芸国大朝の小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。
日野山城は、元春は城を整備拡張し、元春から元長、広家の3代に渡って拡張整備工事が続けられ、全山が要塞化された。
「要塞化しているから、確かに攻め込まれにくくはなっているな……。一人で行くのは迷子になりそうで勇気がいりそうだけど、いつか行きたいものだ……」
1582年になると、吉川元春は隠居し山麓に吉川元春館を築き、そこに住むようになったという。
そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当したのである。
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