第10話 隆景の真相

血に塗れた、とはなぜなのか?

隆景の顔を見ても、理由は分からない。


竹原小早川家は、穏便に隆景を迎え入れた。

むしろ、竹原小早川家から養子に欲しいと言っている状態であった。

だが、竹原小早川家は分家である。

本家は、沼田小早川家であった。


一方、小早川氏の本家・沼田小早川家の当主であった小早川繁平は若年で病弱なうえ、眼病により盲目となっていた。

確かに、病弱な当主よりかは丈夫な当主の方が良いという者も多かったのだろう。


家中は繁平派と隆景擁立派で対立し、大内義隆は尼子氏の侵攻に堪えられないのではと懸念した。

1550年、義隆は元就と共謀し、乃美隆興・景興父子を中心とした隆景擁立派を支持。

尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。


そして隆景を繁平の妹であり、後の問田大方と結婚させ、沼田小早川家を乗っ取る形で家督を継がせ、沼田・竹原の両小早川家を統合した。

その時、繁平派の田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。

「……! 確かに、その筋道なら小早川隆景も血に塗れたと言われても仕方がない。実際に手を下していたのは、大内義隆、毛利元就が主だったとはいえ、な」


なお、隆景と問田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。


隆景は沼田小早川家の本拠高山城に入城するが、翌年の1552年には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し、新たな本拠とする。

新高山城には、父元就、兄隆元が訪問し、数日滞在していたという。


面白いのは、高山城、新高山城、そして後に本拠地となる三原城の共通点である。

三つの城はいずれも、天守が存在しない。

新高山城は詰の丸という部分が近代天守に相当するのであるが……。

なお、新高山城は頂上部に本丸を置き、山容を巧みに利用して階段状に削平地を設け、郭を営み、また挺出する屋根にも階段状に郭を配しているが、その随所を固めている石垣は中世末期の城構なることを示している。

その地形を利用する手法は一般の山城の通例を抜きんでるものではないが、その石垣や特に本丸等の主要部に入らんとする虎口に設けられた枡形がよく遺存していることは、この種遺構の古い例の乏しい現在、石垣や枡形の変遷を知る上に特に貴重な城であるという。


「隆景の方は何となく事情も分かったけど、元春の方はどうして血に塗れたなんて言われていたんだ?」

悠月は戸惑っていた。

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