第8話 つながる歴史

気が付くと、見慣れた景色に包まれていた。

「あれ?ここは……、吉田郡山城!?」

周りを見渡すと、くるみの姿はない。


「……本当、何だったんだろう?」

「大丈夫ですか? お顔の色が優れないようですよ?」

恐らく他の登山客だと思われる男女が声をかける。

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」

悠月は会釈して少し歩いた。


歩いて、ひたすら歩いて、改めて思う。

「本当、山の中一体が城だったんだな……」

三ノ丸を抜け、次は二の丸へと登っていく。


その途中で、姫の丸という場所に差し掛かった。

「ここが、百万一心の碑が見つかったって場所か」

幕末、長州藩士である武田泰信がここで百万一心の石を見つけた、とされているので別名が『百万一心伝承の地』である。

「そういや、毛利家って長州藩の藩主でもあったよな……」


ちなみに、話は毛利元就の時代からは大分飛ぶ。

隆元急逝後、毛利家当主となった隆元の嫡男、輝元は、関ヶ原の戦いでは西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入った。

だが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により、徳川家康に対して敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。


ところが、西軍の敗北後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問いだした。

これにより、所領安堵の約束を反故にして、毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となり、嫡男の毛利秀就に周防・長門2か国29万8480石2斗3合を与えることとした。

以来、250年以上にわたって藩庁を長門国阿武郡萩の萩城に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれていた。

これが、毛利家と長州藩の繋がりである。


「そもそも、関ヶ原合戦に参加してなかったらどうなってたことやら……」

ちなみに、関ヶ原合戦では毛利家は美濃国関ケ原の隣町である垂井町と言う場所にある南宮山に布陣した。

秀元は南宮山を降りて徳川軍の背後から攻撃するつもりであったが、先陣を務める広家が出撃に反対して道を空けないため動けずにいた。


西軍勢から長束正家の急使が南宮山の毛利の本営に駆けつけ、秀元に戦闘参加を要請してきた。

秀元はこれに応じようとしたが、先鋒として前面に布陣している吉川広家の兵にさえぎられているため動くことができなかった。

そこで秀元は長束の使者に対して、「兵卒に兵糧を食させている最中なり!今は行けぬ」といって時間を稼ぐこととなった。

「宰相殿の空弁当」という逸話はここから出ている。


同日、吉川家と同じく毛利家に連なる小早川秀秋が戦闘中に寝返り、東軍として戦闘を開始。結果、関ヶ原の戦いはたった1日で西軍が敗北して終了した。


その後、大坂城にいた毛利輝元も戦闘せずに本国へ引き上げたため、毛利・吉川・小早川は家康と戦うことなく関ヶ原の戦いを終えることとなるのである。


「臆病だとか言われたりしたろうな……。それにしても、関ケ原の戦いの歴史がこんなところにも繋がるのか。本当、歴史って面白いな!」

悠月はまた機嫌よく本丸を目指して登山を続ける。


『血に……血に塗れた両川』

「え?」

両川……、それは……。

吉川元春及び、小早川隆景のことである。


「あれ? またふらふらしてきた……」

無理な登山はやめて下山すればよかったかもしれない……。

ぐいぐい引き込まれる感触を覚えながら、悠月は少し後悔をした。

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