青春毒牙《中》
※
いまとなっては苦い思い出だが、高校一年生のある夏の日、俺は同級生の女の子に告白された。
名前は前原悠乃。クラスでもずっと静かにしている女の子で友達はあまり多くはなかった。でも勉強は誰よりもできたようで、定期考査ではいつも10番以内に入るくらいの秀才だった。
頭がいいだけではなく、悠乃は顔も性格も良かった。活発でスポーティな奈々とはまた違った、いわゆる「小動物系」の可愛さがクラスの男子にウケたらしく、男どもが悠乃の可愛さに気づき始めると、連日、告白やラブレターの嵐になったことを覚えている。
そんな彼女がなぜ俺なんかに……と、当時は不思議に思ってしょうがなかったが、あとあと聞いてみると単に「敦也くんと付き合ったら人生が楽しくなりそうだから」という理由だったらしい。
そのころの俺はすでに奈々や真司とともに毎日を楽しく過ごしていたから、息をひそめてクラスに溶け込んでいた悠乃から見たら俺たちが輝いて見えたのだろう。
俺と悠乃が付き合い始めてから親密な関係になるのに、それほど時間はかからなかった。悠乃は話してみると結構気さくな性格であることが分かり、もともと陰キャだった者どうし、話が弾むことも多かった。
互いの予定をすり合わせてデートに行くこともあったし、なんなら人気のない展望台で夜景を眺めながらキスだってした。
どっちも生まれてこのかたキスなんてしたことなかったから、それはもう不格好でダサくてふと思い返すたびに顔が真っ赤になるような体たらくだったけれど、それでも彼女のあの唇の柔らかさと温かさは一生俺の頭に残り続けた。
もとからクラス内で噂されるだけあって、前原悠乃という女の子は本当に可愛かった。そりゃあ、頭が良くて顔も良くて性格もいい完璧な女の子なんだから可愛いのは当たり前だろ、と思うだろう。
たしかに俺だって当時は悠乃に好意の目を向けていた。ああいう子と付き合えたらきっと毎日の人生が豊かになるんだろうなあ、とか、あんな可愛い子といっしょに街を歩いてみたいなあ、とか考えていた時期だってある。
けれど、それらはすべて恋愛とは縁遠い人間の妄想でしかないことを、当時の俺はよくわかっていた。だから、いくら悠乃が可愛くたって、俺にとってはまさに雲の上の存在、俺みたいな平民が手を伸ばしてはいけない存在だと自分に言い聞かせていた。
神聖にして犯すべからず。俺みたいな何の取柄もない男があんな美少女とそうそう付き合えるはずもないんだ。もとから俺は自分に自信が持てていなかったから、彼女のことをすっぱり諦めるのにもさほど労力を割くことはなかった。
……そんな俺に訪れた、とんでもない好機。
前原悠乃からの告白。
あれは、もう本当に俺の運が良かったとしか言いようがない。
たまたま陽キャのトップである南木奈々と知り合い。
たまたま俺や真司と馬が合い。
たまたま騒いでいるところを悠乃に見られ。
たまたま俺が彼女のお眼鏡にかなった。
それだけと言ったらそれまでだが、悠乃に告白されるという結果を導くために、俺は一体どれだけの運気を消費したのだろうか。
……まあ、これについて考えると、ちょっと将来が不安になってくるからあんまり深掘りはしないけれど。
俺みたいな人間でも美少女と付き合えるんだ――。
自分に自信が持てていない人間だったからこそ、彼女の存在は俺の価値観に多大なる影響を与えることとなった。
◆
「……悠乃」
俺は呆然とした様子で目の前の少女を眺めた。
甘いミルクチョコレートのような髪色のボブカットに、まるで小学生の頃からいっさい成長していないような幼い顔立ち。
不安を張り付けたような表情と、抱きしめたら折れてしまいそうなくらい華奢なその体は、どこからどう見ても前原悠乃のものだった。
「…………」
俺と目があった途端、彼女は気まずそうに視線を逸らす。
ふたりの微妙な空気を切り裂くように、奈々が飛び込んできた。
「わー、悠乃っちだー! ひさしぶりー!」
奈々は悠乃の手をがしっと掴むと、乱暴に上下に振った。
それにつられて悠乃の体も、がくがくっと上下に振られる。
……南木奈々という女の持つ、他人の領域に土足でずかずか踏み込めるその度量は本当に目を見張るものがある。
悠乃はくらくらする頭を押さえて、物憂げに口を開いた。
「ど、どうして初っ端からこんな目に遭わなくてはならないんですか……」
「だってー、悠乃っちと超絶ひさしぶりに会えたんだよー? だったらこれまで会えなかったぶんのパワーを一気に……!」
「奈々は男並みに力あるんだから、そんなのぶつけたら悠乃ちゃんが可哀そうだろ」
「あたしは可憐な女の子ですー! 男じゃないですー!」
真司のいじりに精いっぱい対抗する奈々。
「ほら悠乃っちー、悠乃っちからもなんか言ってやって? シンジを打ちのめすようなテクニカルな一撃をさっ!」
「え、ええ、ええっと……?」
突然奈々から振られておどおどする悠乃。
たぶん、彼女の脳内は真司を傷つけないように必死に言葉を選んでいるのだろう。
……そんな彼女の仕草が、挙動が、とても不愉快に思えた。
「おい、悠乃が困ってるだろ。やめてやれ」
「……はーい」
それを悟られない程度に、あくまで軽そうに、簡単なおふざけを制止するように、声をかけた。奈々は叱られた子供みたいにばつが悪そうな顔をしている。
ちょっと自分勝手だっただろうか。でも彼女がああやって言葉に困っている様子を見るのは個人的にとても耐えられない。過去の古傷をえぐられるような感じがする。
……とても、不愉快だった。
「あ、そういえば悠乃っちって前までアッツーと付き合ってたよね? あれって結局どうなったの?」
「…………ぇ」
一難去ってまた一難。他意なんて微塵も感じさせないような声色で奈々がこちらの顔を覗き込んできた。
まったく、この女は。
「…………」
「…………」
俺と悠乃は顔を見合わせる。その間にも悠乃は何度も俺から目をそらし、枝毛をいじって気まずさをごまかしていた。
その薄い桜色の唇はきゅっと結ばれており、こじ開けようとしてもびくともしなさそうだ。その様子から俺は彼女の内情を悟った。
――それは、敦也くんのほうから言って。
言うべきか言うまいか。
悠乃はその判断をすべて俺に丸投げしたのだ。
たしかに他人に言いづらい事情ではあるが、だからといって俺だけに託されると不愉快な気がしないでもない。
俺はひとつ、ため息をつく。
そして、興味の色を含んだ奈々の蒼い瞳を見つめながら、嫌そうに口を開いた。
「……別れたよ」
俺の言葉を聞いた途端、奈々の瞳は興味から驚愕の色へと一瞬でシフトチェンジした。
「えっ、本当!? あんなに仲良かったのに?」
「まあ、なんていうか、俺たちには早すぎたんだよ、いろいろと」
ちらっと横を盗み見る。
悠乃は図ったようにそっぽを向いて遠くの夕日を眺めていた。
「え~残念だなぁ……二人がイチャイチャしてるの見るの好きだったのに」
「そんなのこっちが恥ずかしいだけだろ」
「見るほうも恥ずかしいよ?」
「じゃあなんで見るんだよ」
「なんていうか、『あ~お似合いのカップルだなぁ~』って思って微笑ましい気持ちになりたいから」
「……お前は俺の母さんか」
「えへへ」
そう言ってニッコリと笑った奈々の顔が、山のあいだに沈む夕日の残滓を反射して、とても綺麗に映った。
◆
あのあと、『せっかく懐かしのメンバーが揃ったんだからどっか遊びに行こうよ!』という奈々の提案のもと、少しだけ足を延ばし、繁華街のファミレスへ向かった。
駄菓子屋のほうは大丈夫なのか、と奈々に聞いたところ、駄菓子屋には鍵をかけたしおばあちゃんにもちゃんと了承をもらってきたから大丈夫、とのこと。
でも智代さんの容体が急に悪化するかもしれないとのことで、奈々はあと1時間もしたら帰るらしい。
「それでさー、このまえ他の学校の男子からプールに誘われたんだけどさ」
「あー、あの工業高校の? あそこってけっこうイケメン多いよな」
「そうそう、みんな顔は良いし体もムキムキでカッコよくてさ、さすがのあたしもぐらついちゃったよ」
「……マジか。お前がぐらつくなんて相当やり手だぞそいつら」
「ま、結局その日は台風直撃でおじゃんになったんだけど」
「……あー、身なりは完璧だけど運はなかったんだな」
ドリンクバーのメロンソーダをストローでぐるぐるかき混ぜている奈々と、これからメインが来るというのになぜか大盛りのポテトをつまんでいるアホ真司は、久しぶりの再会ということで積もった話の消化に勤しんでいた。
……その間、残った俺と悠乃は、テーブルを挟んで互いに無言のまま、とても気まずい時間を過ごしていた。
さすがにこのまま何も話さないのはまずい、と思ってうつむいた視線を少しあげてみると、悠乃は片肘をついて紅茶のカップのふちを指でピン、とはじいていた。いかにもつまんなそうにしている人間のテンプレである。
俺は咳ばらいをすると、いちおう心の中で5秒くらい数えてから、その強ばった唇を動かす。
「その……悠乃は学校でなにか楽しかったこととかある?」
「…………」
「俺はー……えっと、そうだな、昨日クリアしたゲームが結構面白くってさ、クリアまでに100回は泣いたよ。……あ、楽しかったことではないか、これ」
「…………」
「えっと、他には……やばい、普段からあんまり家から出ないせいでこれといったエピソードが……」
「…………敦也くん」
ふと、彼女の唇が動いた。
けれど、そこから発せられた声は、まるで極寒の中を吹き荒れる猛吹雪のような冷たさで。
「ど、どうした?」
そんなあまりにも温度差がありすぎる彼女の言葉に背筋を震わせながら、俺は彼女の瞳に聞き返してみた。
悠乃はふちを指ではじくのをやめ、代わりにそばにあったメニューを手に取る。ぱらぱらとそれをめくると、特定のページで指を挟んでこちらに見せてきた。
「……どうして、ドリアがなくなってるんですか?」
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「わたし、ここのドリア大好きだったのに、どうしてなくなってるんですか? ほら、前まではここにあったじゃないですか、『具だくさんカレードリア』」
「いや、俺に聞かれましても……単に人気がなかったんじゃないっすかね」
「いや、そんなことはないと思います。だって毎晩わたしがここへカレードリアをたべに来てたんですから」
「え、毎晩来てたの? ここに?」
「……? はい、そうですけど。何かおかしなこと言いました?」
「……ああ、そういえば悠乃って一人暮らしだったっけ」
もしそうじゃなかったら毎日の晩御飯を親はいったいどうしていたのか、かなりの疑問だった。
「はい、本当は料理もできるんですが、学校から帰ってきてくたくたになった日なんかはここのファミレスでいつも『具だくさんカレードリア』を頼んでました」
「…………というか、敦也。お前いちおう付き合ってる頃は悠乃に世話になったんだろ? なら元カレのよしみで飯くらい作ってやれよ」
と、隣に座っていた真司がいきなり話に割り込んでくる。
「そんなこと言われましても……っていうか、悠乃がドリア食べてたのはいつの頃の話なんだ?」
俺の言葉を聞いた悠乃が若干目を伏せる。
「……まだ、敦也くんと付き合ってた頃です。特にデートとか会う予定がない日なんかに食べてました」
「さらに罪が重くなったな、敦也」
「どうして!?」
「おまたせしましたー、ハンバーグセットとステーキセットでーす」
タイミングがいいのか悪いのか、やってきた店員さんがボリューミーな肉料理を次々とテーブルに並べていく。
「うっひゃー、かなり多いねー。シンジ、それ食べきれるの?」
「大丈夫だ、なにしろオレには別腹が4個ある」
「……どうして胃袋じゃなくて別腹を4個って表現したの?」
いつものように談笑している真司と奈々を尻目に、俺は安堵した。なにはともあれ、少しでも悠乃と会話が弾んでよかった。
……弾んでたよな? あれ。
◆
ファミレスから出ると、時刻はもう7時を過ぎていた。このまま街を歩いていても補導はされないだろうが、夜の繁華街というのはそれだけで危険がいたるところに隠されている。
急ぎの用事がある奈々を見送った俺と真司と悠乃も、出来るだけ早めに帰ろうと駅のある方角へ足を向けた瞬間、
「なあ、敦也。少しだけ時間をくれないか」
ふと真司に呼び止められた。
真司は手刀を切って悠乃に断りを入れると、俺の手首をつかんでファミレス裏の暗い路地裏へと連れていく。
……真司にかぎって恐喝とかそんなことはしないだろうが、それでも俺は本能で身構えてしまう。
やがて、繁華街の明かりがほとんど届かない場所まで連れてこられた俺は、疑問と疑惑の瞳で真司を見やった。
「なに、別にここで脅して金をとろうとかそんなことを考えているんじゃない。ただちょっと気になったことがあってな」
「……気になったこと?」
彼はゆっくりと頷く。
俺の背中を冷たい汗が流れる。
まだ確証に至ったわけではないが、とても嫌な予感がする。
そんな俺の様子を見透かしてか、真司はこちらの急所を的確に突いてきた。
「――どうして、お前と悠乃ちゃんはそんなに気まずそうにしてるんだ?」
「…………」
「いや、久しぶりに会ったときから薄々感付いてはいたんだけどよ、ファミレスに来てそれが顕著に表れたから、どうも気になって」
「…………」
「なんだ、別れるときに大喧嘩でもしたのか? いやまあ、仲たがいとか双方の意見の不一致とか、そういう衝突がないかぎり普通は別れたりしないんだろうけどよ」
真司はぼりぼりと頭を掻いて、さらに続ける。
「それとも……最近のカップルにありがちな自然消滅ってやつか? オレは恋愛には疎いから分からんが、なんとなく互いに魅力を感じなくなることもあるんだろ? 男と女ってのは」
俺は人知れずこぶしを握っていた。
何に対しての怒りかはわからないが、とにかくいまの俺は猛烈にこの場から逃げ出したかった。
じり、と足が勝手に逃走の準備を始める。
その様子を見た真司がハアと大きなため息をついた。
「……いちおう、悠乃はオレの初恋相手なんだ。だからもし自分勝手な理由で彼女を貶めて、それがきっかけで破局でもしたんなら、悪いがオレは敦也を許せない」
「…………ぁ」
喉の奥から言葉にならない声が漏れた。
いけない、早く戻らなくては。悠乃のいるあの場所に――。
「頼む、教えてくれ。お前と悠乃のあいだになにがあった? どういうきっかけで別れることになったんだ?」
「…………す」
「す?」
「…………すまん、真司」
「……は?」
首をかしげる真司。
それがまったく目に入らないくらい、俺の頭の中は過去のあやまちでいっぱいいっぱいだった。
目まぐるしく駆け巡る思い出に打ちのめされて、うまく呼吸ができない。どうにか上手い言葉を捻り出そうとしても、喉がそれを拒んでなにも吐き出せない。
「すまん、本当に、ほんっとうに、すまん、頼む、許してくれ」
「ちょ、おい、どうしたんだ敦也」
「悪い、俺が悪かった、だから許してくれ、真司」
謝罪の言葉を口から吐き出すたびに、体から力が抜けていく。ふらっと路地裏の壁にもたれかかる。
そのうちガクンと膝をついた俺を慌てて真司が抱きとめた。
「おい、本当にどうしちまったんだよ敦也。敦也!」
声が聞こえる。
それに呼応するように俺の胸の古傷が一年ぶりに姿を現した。
それはジュクジュクと膿んでいて、いまだ完治には至っていない。
「……俺は」
口を開く。
そして、事の顛末をぼそぼそとつぶやいた。
――それが、俺たちの仲間意識を根底からひっくり返し、このグループから永久追放されるきっかけになってしまったとしても。
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