青春毒牙

青春毒牙《上》

「……お」


 学校からの帰り道。いつもとは違う近道のルートで帰路を急いでいた俺は、1年ぶりに南木なぎの駄菓子屋を通りかかった。

 南木というのはこの駄菓子屋を経営しているおばあさんの苗字で、本名が南木なぎ智代ともよということから近所ではトモちゃんという愛称で親しまれていた。


 今日は早く帰って新発売のゲームを夜中までやり込もうと心に決めていた俺も、さすがにこの駄菓子屋との運命的な再開は見過ごせなかった。

 久しぶりにトモちゃんの顔が見たくなった俺は、乗っていた自転車を近くに止めて、駄菓子が並んでいる棚のすき間から部屋の奥を覗き込んだ。照明がないのと現在時刻が午後6時ということもあって、駄菓子屋の中は驚くほど暗い。


 そのままそこで1分ほど、トモちゃんがいるはずの帳場をじーっと眺めていると、いきなり背中をバシッと叩かれた。


「なにしてんのアッツー、もしかして覗き?」


 名前を呼ばれた俺――柊木ひいらぎ敦也あつやはひりひりする背中を押さえながら恨めし気に振り返った。

 そこに立っていたのは俺のクラスメイト。黒い髪をポニーテールに結っているスポーティーな女の子は、自信満々に腰に手を当てていた。

 彼女は名前を南木なぎ奈々ななという。

 『明日は明日の風が吹く』を地で行くおおらかな性格や、まるでモデルのように整った顔立ち、さらにはスタイルのいい体つきをしていることから、学校ではいつも男子のあこがれの的だった女の子だ。

 ……ともかく俺は、さっきのいわれのない嫌疑に関して反論しておく。


「俺が帳場をのぞき見してどうすんだよ」


「いやあ、もしかしたらアッツーがこっそりレジからお金盗んだりしないかなって」


「するかそんなこと」


 かつん、と手刀で奈々の頭をたたく。

 俺にチョップされても彼女は「えへへ」とニヤニヤした笑みを浮かべるだけで、特に反省しているわけではないようだ。

 ……ちくしょう、そんな顔をされたら怒るに怒れなくなってしまう。


「あたし、アッツーにこうやってチョップされるの好き」


「ど、どうした? 頭でも打ったのか?」


 打ったのは俺だけど。


「ううん、別にあたしは普通だよ。ただこうやって二人でふざけるのもなんか久しぶりだなあって」


「そうだな……最近は課題とかテストで毎日忙しいもんな。そういえば奈々とは最近話してすらいなかったし」


「そそ。だからアッツーが駄菓子屋の前にいるのを見かけてつい声をかけちゃった」


「背中を思いっきりぶっ叩くのは『声をかける』に入らないからな?」


「あはは、あたしたちの仲じゃん、それくらいは許してよ」


「いーや、俺は許さない。こうなったら奈々には俺の言うことを何でもひとつ聞いてもらわなきゃ割に合わないな」


「まーたそうやってあたしにセクハラするー。別にあたしは全然かまわないけど、他の女子にそんなこと言っちゃダメだからね?」


「言わない。というかそんな胆力持ち合わせてない」


「だよね。アッツーだもんね」


 久しぶりの談笑を楽しむ。こうやって彼女の笑う姿を見ているだけで心も体も満たされたような気持ちになる……というのはさすがに俺が惚気すぎているだけかもしれないが、奈々みたいな掛け値なしの美少女は普通にしているだけで相応の価値があるものだ。

 だから、そんな美少女の笑っている姿というのは、ぶっちゃけとても貴重で価値のある光景だったりする。写真を撮って彼女のファンに売ればそこそこのお金になりそうなくらい。いや奈々を使って金儲けなんか死んでもしないけど。


「それで、アッツーは何しに来たの?」


「トモちゃんの様子が気になって」


「あー、おばあちゃん? おばあちゃんはいま病気で寝込んじゃってるから、会っても話すのは難しいかも……」


「え、大丈夫なのかそれ」


「大丈夫だいじょうぶ。お医者さんも命に関わるものではないって言ってたし」


「ならいいんだけど……」


 そこで俺は、奈々がこの駄菓子屋の付近にいた理由を悟る。


「ってことは、いまは奈々がここを経営してるのか?」


「うーん、まあそうかな。と言ってもあんまり人は来ないし、来るとしても大半が小学生だから、お店を経営するっていうより近所の子供にお菓子を配ってる感覚」


 いかにも奈々らしい答えだ。


「じゃあ、俺も小学生に混じってなんか買ってくか」


「えっ……アッツーってそういう趣味?」


「違うわ。なんでそうなる」


「いやでも、アッツーはヘンタイだからもしかしたらその可能性も……」


「ない」


 顎に手を当ててもっともらしく思案する彼女から離れる。このままこいつに付き合ってると俺が小学生好きの変態に仕立て上げられそうだ。

 とりあえず近くにあった冷凍ケースから一本のラムネ瓶を取り出すと、それを奈々に差し出す。


「ん」


「……ん? なに、飲ませてほしいの?」


「そんなこと一言も言ってないだろ」


「さすがにそれは別料金が発生しちゃうかなぁ……」


「いや金払えばやってくれんのかよ」


「アッツーならいつでも大歓迎だよ? お金さえ払ってくれれば」


「そんなサービスいらん」


「つれないなー」


「なんで高校生にもなって同学年の女子にラムネを飲ませてもらわなくちゃならないんだ」


「むぅ……」


 奈々はしぶしぶといった表情でラムネと代金を受け取ると、奥でテキパキと会計を済ませて俺にラムネを手渡した。

 1年ぶりに手にしたラムネ瓶はひんやりと冷たい。季節的にもちょうど冷たい飲み物が欲しかったところだ。

 俺は蓋を開けると一気に中身を喉に流し込んだ。パチパチとはじける炭酸が食道を焼いていく。子供のころはどうしても慣れなかったその感覚も、今となっては普通に受け入れてしまっている。

 そんな俺の様子を奈々は目をパチパチさせて覗いていた。


「よくそんな一気に飲めるね」


「まあ炭酸なんてこれまで何百本と飲んできたからな。別にラムネのシュワシュワも気にならない」


「あたしなんてまだちびちび飲むことしかできないのに……なんかアッツーだけ大人みたいでずるい」


「大人って……」


 ハードル低いなぁ……。


「ね、それあたしにも飲ませて」


「は?」


「チャレンジしたいんだよっ、しゅわしゅわチャレンジ」


「自分で買えばいいだろ」


「え〜、だって自分の店の商品を自分で買うのってなんか馬鹿馬鹿しくない?」


「だからって他人にねだるな」


「いいじゃん、一口だけ」


「一番信用ならねえ言葉だ……」


 俺が思うに、「一口だけ」はこの世で一番信用してはいけない言葉だ。この言葉のせいで俺は今までどれだけのお菓子を奈々に奪われてきたことか……。


「じゃあ、俺にじゃんけんで勝ったらくれてやる」


 ただ、このまま突っぱねるのもアレだから、彼女に一回だけチャンスを与えることにした。


「え、いいの? アッツーってこれまであたしにじゃんけんで一回も勝ったことないよね」


「うるさい、あんなのはマグレだ。今度こそ貴様の連勝記録をここでストップさせてやる」


「どうして自分から絶対に負けるってわかってる戦いに挑もうとするの? 勇敢と無謀は違うんだよ?」


「どんだけ俺のこと過小評価してるんだよ⁉︎ 絶対勝ってやるからな!」


「じゃあいくよ、じゃーんけーん」



 勢いよく手を振りかぶり、無事に彼女の連勝記録を更新することに成功した俺は、目の前でちびちびとラムネを飲んでいる彼女を恨みがましい視線で睨みつけることしかできなかった。

 ……いけると思ったんだけどなぁ。


「ごちそうさま」


「おい、誰が全部飲んでいいって言った」


「だってアッツーが『じゃんけんに勝ったらラムネなんぞくれてやる!』って言ったんじゃん」


「少なくともそんな言い方はしていない」


「むー……せっかくあたしみたいな美少女と間接キスできたんだから、それでチャラってことでいいでしょ?」


「その有り余る自信と自尊心はなんなんだ」


 たしかに美少女と間接キスができたというのはこれ以上ない褒美かもしれないが、結果として俺が金銭的に損をしたことに変わりはない。

 女の子の間接キスというのはプライスレスなんだ。だからお金という物差しで測ることはできない。


「まったくアッツーはわがままだなぁ」


「誰のせいだ誰の!」


「じゃあ……はい」


 と、激昂した俺を尻目に、店前の冷凍ケースをガサガサ漁った奈々は、やがて棒のアイスを手渡してきた。

 ……これでチャラにしてくれとでも言うのだろうか。


「これ、売れ残ったやつだからあげるよ」


「……どうも」


 渡されたものをよく見ると、おなじみの長方形をしたソーダアイスだった。

 なんだろう、この気持ち。


「アッツーって昔からわがままだよね」


 なんだろう、このやるせなさ。

 少なくとも、ちゃんとお金を払ってラムネを買って、三分の一くらい飲んだ後に残りをすべて奪われた人間が抱くべき感情ではないことは確かだ。

 俺はなんともいえない表情で奈々のことを見つめていると、ふと後ろから俺たちのものではない足音が聞こえてきた。

 振り返ってみると、そこには長身の男が立っていた。


「よっ、敦也。お前こんなところで何してんだ?」


 気さくに手をあげているのは、もともと俺たちの仲良しグループのメンバーだった男、平良たいら真司しんじだ。もともと黒かった髪を軽い茶髪に染めていて、なおかつ制服も適度に気崩しており、完全に自分のファッションとして定着させている。

 高校生になって真司とは一回も同じクラスになったことがないし、あんまり話す機会もなかったから、彼がどういう高校生活を送っているのかは分からなかったが、見た感じ高校デビューは成功したようだ。


「久しぶりだな、真司」


「おう、こうやってまともに話すのは大体一年ぶりか?」


「そんなとこかもな」


 彼とは中学校からの付き合いだ。夢も目標も特になく、成績も同じくらいだった当時中学生の俺たちは、結局同じ高校へ進学した。そこからもなんとなーく緩い友達関係を続けてはいるが、高校生の多忙な行事のせいで、昔みたいに一緒に時間を浪費することもできなくなった。

 ただ、俺も真司も、毎日を適当に生きている適当人間だったから、別に一年近く会えなくなったところで困ることもなかったわけで。

 

「おっ、アイスじゃん。一口くれよ」


 ……だから、こんなふうに、まったくブランクを感じさせない距離の詰め方ができてしまう。

 俺は深く息を吸い込むと、噛んで含めるように言葉を吐いた。


「断る」


「えぇ~」


 ……まさかこんな短時間で、この世で一番信用ならない言葉を二回聞くことになるとは思わなかった。さすがは物欲にまみれたリア充だ。自分の欲求を微塵も隠そうとしない。こういうところは昔から抜け目ない。


「いいじゃん、一口なんだから」


「今日はそれでコイツに痛い目に遭わされたんだ。同じ轍を踏むものか」


 そう言って後ろの奈々を指さす。

 奈々を見た真司が目を丸くした。


「あれ、奈々もいるのか。こりゃまた随分と懐かしいメンツだな」


 真司は昭和の映画のポスターでも発見したかのような面持ちで奈々を見つめる。

 すると、奈々はコメディのように手のひらを上に向けて肩をすくめた。


「あたしがここで店番してたらたまたまアッツ―が通りかかってね? それで無遠慮にあたしの大事なところを覗き込んできたからバシッと背中を叩いてやったわけ」


「おい語弊が生まれる言い方をするな。大事なところってなんだ。駄菓子屋だろ」


「うっわー……それはさすがのオレも引くわー……」


「奈々の話を鵜呑みにするんじゃない、頼むから」


「でもあのあと一回セクハラしたよね? あたしに」


「え、マジすか敦也さん」


 真司の怪訝なまなざしが突き刺さる。


「それは……えと……だから、あの」


 どもる俺に、真司はこれ見よがしにため息をついた。


「はぁ……敦也さん、いくら彼女にフラれたからってすぐに別の女に手を出すのは、ちとどうかと思いますよ」


「手は出してないだろ!」


「手“は”出してないんだろ?」


「そうやって揚げ足取るの嫌いだ」


「あははははっ」


 何がおかしいのか、俺たちのやりとりを見て笑っている奈々。

 こっちは必死に弁明しているのに、つくづく空気の読めないやつだ。


「あ、そうだ、変態の敦也さん」


「二度とその呼び方で俺を呼ぶな」


「ごめんごめん、でもそんなことがどうでも良くなるくらい、今日はビッグなニュースを持ってきたんだけどよ」


「は? どうして急に」


「いやー、ホント偶然だよな。オレもたまたま帰り道に出くわしたんだけど、まさか流れで敦也と奈々ちゃんとまで再会できるとは」


「……すまん、話の流れがまったく見えない」


「大丈夫だいじょうぶ、“彼女”に会ったらオレの言わんとしていることがイヤでもわかるさ」


 言い残した真司は、「ちょっと待っててくれ」という言葉とともに駄菓子屋の裏へとまわった。俺と奈々が顔を見合わせていると、駄菓子屋の裏からひそひそ声が聞こえてきた。


「ほら、恥ずかしがんなよ」


「でっ、でも……わたし、やっぱ無理です……!」


「なんでだよ、せっかくみんな揃ってるんだぞ? ここまで来て帰ったらバカみたいだろ」


「でも、でも……!」


「ああもう、じれったい。ほら」


「っ!?」


 真司にドン、と身体を突き飛ばされたのか、一人の少女がよろめきながら俺たちの前に姿を現した。

 壁の裏から聞こえてきた甘ったるい声。そこから読み取れる気弱で遠慮がちな性格。

 そして、いま目の前に現れた少女の流れるような茶髪。あまつさえそれをゆるふわなボブカットに切り揃えた女の子は、どこからどう見ても……。


「……それで、久しぶりに敦也に会った感想はどうだ? 悠乃ちゃん」


「…………」


 どこからどう見ても、俺が一年前まで付き合っていた彼女……前原まえばら悠乃ゆのだった。

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