青春毒牙《下》


 俺はもう、元には戻れないかもしれない。

 そう感じた時には何もかもが手遅れだった。

 俺はあわてて彼女を抱きしめると、うまく回らない頭で解決策を考える。


 考える、考える、考える。


 ダメだ、なにも思い浮かばない。


 まずい、思い浮かばないのはまずい。


 だってなにも思い浮かばなかったら、俺と悠乃は今後どうなってしまうんだ。


 なにか考えなきゃ。考えて答えを出さなきゃ。間違っててもいいから答えを出して俺と彼女を安心させなきゃ。


 そうだ、安心。安心させるために考えるんだ。急いては事を仕損じるというだろう。ゆっくり深呼吸して落ち着けば、おのずと答えが出てくるはずだ。


「……ぁ、あつ、や、くん?」


 ああ、あああ、ああああ、あああああ。

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。


 俺はいったい何をしているんだ。

 どうして調子に乗ってなにも使わずにしてしまったんだ。

 リスクをまったく考慮していなかった過去の自分が恨めしい。

 ただ己の欲に従っていた2時間前の自分を殺したい。

 殺して、引き裂いて、なにもかもなかったことにしてしまいたい。


「はぁ、はぁ、はぁ……どうしよ、どうしよう、あつやくん」


 やめろ、俺の名前を呼ぶな。

 そんな子犬みたいな眼差しで俺のことを見つめるな。

 俺だって必死に考えてるんだ。

 大好きな悠乃との関係を壊さないために、必死に答えを探してるんだ。

 

「……っ、お風呂、借りるね」


「! ちょ、待った、待って、待ってくれ……!」


 俺の制止も聞かずに風呂へと直行する悠乃。

 去り際に彼女の頬を濡らしていたのは涙だろうか。

 こっちだって泣きたい。

 泣いて、泣き叫んで、醜態をさらしながら許しを乞えばすべてがなかったことになるのなら、俺は喜んでそうするだろう。

 ……でも、そんな逃避が許されるはずもない。


「…………」


 俺は、乱れたベッドの枕元に転がった未開封の箱を見つけると、それをむんずと掴んで、思いっきり床にたたきつけた。

 ただ、それで自分の中の鬱憤が晴らされたわけでもなく、むしろ破れた箱からあふれた12枚のゴムが、俺の中に巣くう歪んだ独占欲とどうにもならない罪悪感を浮き彫りにした。

 ……もう、お前に残された道はないと。

 ……もう、お前が望む未来は用意されていないと。

 ……もう、二度とみんなの元へ帰ることは許されないと。

 そう言われているような気がしてますます腹が立つ。


「クソッ……俺のクソ野郎……!」


 血が出るくらいぐしゃぐしゃと頭を掻いて、びしょびしょに濡れた布団に顔をうずめる。二時間ぶんの愛情がこびりついた布団は、俺のオスとしての本能を掻き立てるような、そんな蠱惑的な匂いがする。

 

 イライラする。際限なくイライラする。

 とても言葉では言い表せないくらい今の俺は気が触れていて、ともすればこのまま自分の首を折ってしまいそうだ。

 でも、そんなことをしたって現実から逃げているだけに過ぎない。自分のやったことを自分で始末できないようなら、俺に悠乃の彼氏でいる資格はない。そんなことは胸が痛くなるほどよくわかっている。


「でも、でも、でも、でも……ッ! いったいどうすりゃいいんだよッ……!」


 高校生という生き物は青い。

 青いからこそ、時に致命的なミスを犯す。

 それが今回のようなパターンを指すことに気づいたのは、ついさっき、焦らされるような苦痛からすべて解放された後のことだった。彼女に身を委ねて偽りの幸福感に満たされたその瞬間、俺にとっての青春は音を立てて崩れ始めていたのだ。

 ……すべては、俺のあの一言が原因だ。

 悠乃と家デートをして、いい雰囲気になって、彼女が帰ろうとしたときにすぐさま「今日は泊まっていかないか」と呼び止めて、合意の上で彼女をベッドに押し倒して、その剝きたての果実のような体を思いきり抱きしめて……そのあとはもう覚えていない。すべてが互いにとって初めての経験だったから、きっと脳も記憶している場合ではなかったのだろう。

 むしろそっちのほうが都合がいい。アレは……いまとなっては俺の胸を苦しめる拷問器具でしかない。思い出せば思い出すたびに胸が締め付けられ、自分の愚行の数々がフラッシュバックする。


「…………」


 シン、と静まり返った部屋。

 耳をつんざくような無音が空間を支配する。

 すこし意識を外に集中させれば、かぁ、かぁとカラスの鳴き声が聞こえてくる。悠乃がこの家に来たのが4時くらいだったから、いまは6時か。

 窓から差し込む夕日がだんだんと夜の色を含み始め、1日の終わりを告げる。

 ……家で朝ご飯を食べていたころの俺は、まさかこんなことになるとは思いもしなかったろう。そう考えると、今回のことは本当に急で、息もつかせぬ展開だったことを改めて知る。

 たった二時間。

 たった二時間のうちに犯した間違いが、俺たちの青春を狂わせたのだ。


「…………ぁ」


 ふと、ドアの外から声が聞こえた。

 それは風呂場の方角から響いてくる。

 なんとはなしに耳をすませてみると、それは、彼女の泣き声だった。

 悲しみをすべてぶちまけるような悠乃の泣き声は、ほとんど叫び声のようなもので、聞いているだけで耳も胸も痛くなる。

 彼女が泣いているのは、単に自分たちが取り返しのつかないことをしてしまったから……という単純な理由だけではないような気がする。

 なにかもっとこう、大事な部分が根本から覆されたような、登っていた梯子を急に外されたような……。


「…………」


 やがて、数分後。

 キィ、とドアを開けて悠乃が入ってきた。

 目は真っ赤に腫れていて、あのとき俺に向けてきた魅惑的な目つきはもうなにも残っていない。


「悠乃」


 呼びかけると、彼女はすぐさま俺の胸に飛び込んできた。

 なにも身にまとっていないありのままの状態で、情けないことをしてしまった俺を精いっぱい愛でようとしてくれる。

 その彼女の献身的な態度が身に染みて、おもわず涙があふれた。

 それは悠乃も同じようで、流れる涙をぬぐうこともなく、ただただ胸に顔をうずめた。そして悠乃が抱え込んでいるありったけの感情を俺にぶつけるのだった。


「わたし、わたし……っ、なにやってるんだろ……、どうして、こんなことになっちゃったんだろ……、敦也くんのことが好きで好きでしょうがなくて、その愛情をかたちで表現しただけなのに、どうして……っ?」


 彼女の熱い吐息がこもる。

 それだけで少し反応してしまう自分が憎たらしい。


「なんでっ……、好きなのに、本当はうれしいことなのにっ……どうして、素直に喜べないんだろっ……」


「ごめん……悠乃、本当に、ほんっとうに、ごめん……」


「敦也くんからもらった愛情が、いまでは何も感じない……っ、それが許せない……、おなかが、ただ重いだけなの……」


「…………」


「うっ……ぁ、ああ、うあぁ……わあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


「…………悠乃、ほんとうに」


「ぐすっ……、えぐっ……うあああぁぁぁぁぁぁぁっ…………」


「…………ごめん」


 ひたすら泣きじゃくる悠乃を抱きしめる。

 これぐらいしか、俺に出来ることはない。

 別に、罪滅ぼしがしたいとか、なにか償いがしたいとか、そういうわけじゃない。そんなことをしたってどうせすぐ偽善へとすり替わる。

 俺がしたいのは彼女を偽善で包むことじゃない。

 ただひたすら、むき出しの愛情で、包みたかっただけ。


「……ぁ」


 彼女の滑らかな髪を撫でて、少しは頭の熱が冷めたのだろうか。

 急に冷静な考えが戻ってきた俺は、胸の中で嗚咽を漏らしている彼女に優しく語りかけた。


「悠乃、今日のうちに病院に行こう。いまならまだ間に合うかもしれない」


「ぐすっ、ひぐっ……びょういん?」


「ああ、病院で処方される薬を飲めば、……確率を抑えることができる」


「……うん、わかった」


 悠乃は俺の胸から顔を離すと、ごしごしと涙をふく。

 最後に俺のことをじーっと見つめたその瞳には、どんな色が含まれていたのか。

 それは、とても俺には推し量ることができなかった。



 あの後、俺と悠乃は病院へ行き、悠乃は病院で処方された薬を飲んだ。

 それから一か月後、嬉々とした悠乃からの報告により、無事に何事もなく一連の事件は幕を引くこととなったのだが。

 また今回と同じような間違いを犯すかもしれない――そう判断した俺と悠乃は互いのために別れることを決意した。

 それが、俺たちにとっての最適解のような気がした。


「…………」


「……と、いうわけなんだ」


 俺がすべてを語っても真司はその場から動かなかった。

 代わりに肩をぷるぷると震わせてうつむいている。


 これで、俺は真司からきっぱりと縁を切られることになるだろう。

 そうなると、俺と仲が良かった奈々にももちろん俺の話が届くだろうし、奈々が俺の犯した過ちを認めるはずもないから、これで俺は仲良しグループのメンバー全員から縁を切られることになる。

 悠乃だってわざわざ俺のために身をなげうって擁護するつもりなどないだろうから、明日からは完全に独りだ。


 ……でも、俺みたいな大馬鹿野郎にはそんな結末がもっとも相応しい。


「……馬鹿、やろう」


「…………ああ、本当に俺は大馬鹿野郎だ。調子に乗って何のリスクも顧みないまま、悠乃を傷つけてしまった」


「てめえ!」


 突然、俺の首根っこが掴まれて壁に思いっきりたたきつけられる。

 その際に頭を強打してしばらく視界がぼやけた。

 そのぼやけが取れていくと同時に、真司の怒りに満ちた顔があらわになる。

 

「なんで……なんで誰にもそのことを話さなかったんだよ」


「…………ぇ」


 てっきりこのまま絶交を持ちかけられると思っていた俺は、驚いて目を見開く。


「オレたちは仲良しじゃなかったのかよ! なんでオレたちを頼らなかったんだよ!」


「…………」


「たしかにお前がやったことは最悪だ。馬鹿だ。阿保だ。でもある一人の犯した失敗をみんなでフォローするのが仲間ってもんだろうが!」


「…………ぁ」


 俺はなにも言うことができない。

 ただ彼の言葉に圧倒されて、口を開くことすらできない。


「悠乃とヤって避妊に失敗しただぁ? そんなことを聞いていちいちオレが怒り狂うと思ったか? 恋人、ましてや高校生のカップルなんだからそこまで踏み込むことにはオレもたいして目くじら立てねえよ」


「し、真司が怒り狂うと思った……って、どうしてわかった……?」


 たしかに俺は、悠乃との一件を彼に話したらきっと今までの友達関係ではいられなくなると思い、必死に事実をひた隠しにしてきた。

 それを見破られるとは思わず、俺はただただ真司の観察眼の鋭さに目を剥いた。


「そりゃあ、長いこといっしょにいるんだからお前の考えてることなんて手に取るようにわかるわ。それよりもだ」


 途端、真司の眼差しがより一層鋭くなる。


「オレが一番許せねぇのは、お前がそうやって勝手なイメージを抱いて仲間を信じなかったことだ」


「ほ、ほんとうに、ごめ――」


 そう言って頭を下げようとすると、無理やり髪を引っ張られて顔を持ち上げられた。


「もういい、お前の謝る姿は見飽きた。もう謝罪しなくていい。その代わり、お前に一つだけ使命を課す」


 一呼吸おいて。


「……もう一度、悠乃とヨリを戻せ」


「え?」


「ああ、別に恋人関係に戻れって言ってるわけじゃない。それ以前の、もとのお前たちに戻ってくれ。馬鹿みたいに笑って、ふざけて、遊び倒したあの時の柊木敦也と前原悠乃になってくれ」


「…………」


「まあ、別にお前らがいいんならまた付き合っても悪くないと思うぞ? オレは。一回失敗を経験してるなら、もう二度とその気なんて起きないだろうし」


「…………真司」


「だから、ほら、行ってこい。オレも遅れて向かうから」


 ドン、と背中を押された。後ろを振り向くと真司は『はよ行け』とでも言いたげにシッ、シッ、と手を払った。

 俺は、そんな友人の広すぎる心と温かすぎる友情に頭をこすりつけて謝りたくなった……けれど、もしそんなことをしたら彼に頭を蹴り飛ばされると思い、いまだファミレスの前で待っている悠乃の元へ駆けだした。

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