第8話 奇跡

 社会では割合頻繁に奇跡という言葉が使われる。

奇跡の救出劇。奇跡的な逆転勝利とか。

でも、個人の生涯では決して頻繁に経験することではないと思う。

 

 30代の始め頃、バイクに乗っていた。250cc、2サイクルの空冷エンジン。10000回転以上回して馬力を稼ぐ本格的なレーサータイプのバイクだった。

 週末の金曜日はいつもデートだった。仕事は定時に終わり、バイクで待ち合わせ場所の吉祥寺まで約10kmの道のりを通った。

 ある日の金曜日、いつもの吉祥寺に向かってバイクを走らせていた。そして吉祥寺近くの青梅街道を突っ切る交差点に差し掛かった。信号は赤から青に変わったばかりだったのでそのままスピードを落とさず駆け抜けるつもりだった。眼の前にいたバスが右折して視界が開けたら、停止してるはずの対抗車のタクシーが右折して眼の前に壁のように立ちはだかっていた。回避する術はなかった。急ブレーキも間に合わず、バイクはタクシーの正面にそのまま突き刺さるように激突した。

 空中を文字通り飛んだ。ずいぶん高く。

 ふと我に返ると、タクシーの後方トランクの辺りにいた。そして両足で立っていた。痛みは全く感じなかった。すぐに全身をチェックした。手足が曲がっていないか、取れたりしていないか、身体のどこかから出血していないか。

 目の前に、青ざめた顔で口を開けたままのタクシーの運転手が駆け付けてきた。

何回もチェックしたが、全身には何の異常も無かった。タクシーのボンネットの真ん中にはヘルメットが衝突した深い凹みがあった。どうやら跳馬の前方転回飛びを両足着地できめたということのようだった。

 バイクはタクシーの前面に深く突き刺さったまま直立していた。

 数時間費やし、警官立ち合いで現場処理と後日の事故処理手続きを終え、フロンフォークが大きく歪んだバイクを引きづって吉祥寺に向かった。ケータイなど無かった時代で連絡は出来なかったが、彼女は編み物をしながら待ち合わせの場所で待っていた。ずいぶん待たせた割には笑顔だった。彼女は既婚者だった。

 バイクは修理に出したが、その折、燃料タンクの座席側の突端が深く球状に凹んでいることに気が付いた。そして凹みの状態は、自分の局部が激突した痕跡だと直ぐにわかった。

 彼女とは困難を乗り越え、その後結婚し、それから二人の子どもが生まれた。

奇跡が三度訪れたように思った。



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