第125話「反撃のために」
「インフェルノ様の弱体化……。レキシアは手酷くやられたようだけれども……あなた達はここにいて大丈夫なのかしら?」
帝国の温帯な気候では、初夏の気配を庭にみせはじめる。若々しい若草色の新緑たちが生い茂ていた。
帝国帝都。今起きている戦争なんてまるで存在していなかったと言わんばかりに平和なその都の、更に平和な城の中。女は紅茶を口に含みながら影の方に視線をよこす。
女の名前はアリスカリナ。バフムーラ帝国第四皇女であり、レキシア国王の婚約者のアリスカリナは、レキシア王との婚約関係により内通者として怪しまれていた。現在彼女は城の中で軟禁されている状態である。
「何が〜? もし、心配なら戻れっているならそれはお門違いだよ」
「そうだね。あのお方がたとえどんな目にあっても、ボクたちのやることは何も変わらない。ただ任務を遂行するだけ」
「そう……」
そうキャラキャラと笑うのは双子の影。いつの間にそこに立つのか、気配すらも感じさせない二人の名はグリードとエンヴィ。強欲と嫉妬を冠するタルタロスの幹部だ。
「そもそもの話、もう戻れないかも知れなんだから今更だよ」
「……? それは一体どういうこと」
「あれ? 帝国の珠の子もわからない?」
グリードの口端が上がる。ニヤリと、赤い口元から邪悪を吐き出すようなそれはまさに奈落のモノそのもの。そもそも見た目は子どもとは言え、それが正しいのかもわからない。見えるものがすべて真実とはわからないのだ。
「もう始まるんだよ。下地は上場。インフェルノ様が片腕をなくしたのはむしろ後を考えればラッキーと言えるよね」
「不幸中の幸い、っていうんだろ東方では」
「! それはつまり」
「そう、ようやくアンタの番ってこと」
ゾワリと背筋が凍る。自分の番、ということはつまり。レキシアはとうとうこの帝都を落とす気でいるということ。しかしそれをするにはレキシアの兵力は落ちすぎている。
「……なるほど、なるほどそういうことね」
兵力は落ちている。それは正面で戦った場合のみでの話だ。何も戦いは正面で戦うことが全てではない。
「奇襲作戦。この帝都を少数精鋭で潰すってことですわね」
「そゆこと。だからおひぃさん、アンタには陽動になっていただくよ」
「アンタが持ち出した賭け。逃げることなんてしないよね? 全部を手に入れたいのならば、全部を賭けないとつまらないでしょ」
「そんなこと、言われずとも分かっているわ」
そうだ、言われないとわからないほど馬鹿じゃない。全部を賭けてでも、自分が欲しいものは手に入らないかも知れないのだ。それでも、この世界の頂点を、この世界のすべてが欲しい。是が非でも!
「始めましょう。セルシオ陛下、わたくしはそのために貴方のそばにいるのです」
強欲に目を輝かせ、支配に身を委ねる。彼女はアリスカリナ。この国の四の姫にし珠の子。そして、この国を奪うものである。
****
満月が夜闇から朝日に照らされる静かな朝。冷たい空気が肺を刺し、冷たい風が頬を撫でる。地面を置い尽くす白い雪はその低温から風に乗るほど軽く、そして凍って吹去るそんな朝。そこに、異質な赤を持つ女が剣をふるっていた。
「……」
片腕で振るう剣は、そのハンデをものともせずに空を切り裂く。力も練度も下がるはずだったそれを感じさせないのはきっと、インフェルノの身を焦がすような怒りと屈辱。そして覚悟のせいだったのだろう。
『――私は、誰でもない。私は陛下の剣だ』
ルカに言った言葉。なぜ戦うのか。そんなのはもう決まっている。自分が存在した時からずっと、それのためだけに戦ってきた。セルシオ陛下が勝利を望む。そのためだけに。
「……そうだ、私はオリビアではない」
自分が一体どこの誰で、一体どこから来たのかなんてもう覚えてなんていない。覚えているのはこの世界で何よりも大事なセルシオとの出会いだけ。それだけでいい、それで十分なのだ。
「今日、始まる」
もう振り返らない。もう二度と、満月を仰ぎ見ることはない。ルカが何を望んでいるのかなんて知らない。オリビアという呪いに蝕まれた彼が、この先どんな選択肢を取ってどんなに自分を求めたとて関係ない。王は唯一人であり、セルシオは月ではない。
「私は、太陽に捧げたのだ」
黄金色を持つ彼の髪を、澄み渡る空のようにきらめく碧のそのすべてが愛おしい。それを守るためなら、自分はなんだってできると信じている。だからこそ、悲しそうに自分を求める者を斬ってでも振り返ることはしない。
「インフェルノ」
後ろから自分を呼ぶ、少年から大人へと変わったその声に振り返る。いつの間にか太陽は上がりきり肩で息をするほど剣を振っていたインフェルノは、その剣を鞘に戻して振り返った。
「セルシオ陛下」
「インフェルノ、今日で終わらせるのだな。全部を」
「……はい」
セルシオも分かっている。今日ですべてが終わることかも知れないことを。だが今、この疲弊し挙兵できないと思われるこのときが帝国が油断する絶好のチャンスなのだ。
「余は、お前に過酷を強いることしか出来なかった。だと言うのに、自分は一人の臣下を無くしただけで心が死にそうになった。この腕も、今回のことも余の弱さがお前を殺した」
「陛下、それは」
「だが、それでも……もう余は後悔などしない」
セルシオの決意の言葉にインフェルノは顔を上げた。そこに立つ少年、否青年の顔はたしかに王の顔をしていた。
「勝つぞ、どんな犠牲を払っても。絶対にだ。余はこの世界を手に入れる」
「……全ては、陛下のお御心のままに」
臣下の礼を取るインフェルノは、その仮面の下で顔を綻ばせる。そして満月とともに消えたルカに語りかけた。どうだ、お前の言った少年はすでに大人になった。お前を噛みちぎる、龍すらも喰らいつく獅子となった。簡単に消せる相手ではなくなった。少年を大人に変えたのは、お前の慢心だ。そう、あざ笑う。
「往くぞ、インフェルノ。バルテシア帝国を盗りに」
「はい」
この選択が、この手段がどんな結果になっても進むだけ。この先、セルシオにとって苦しい時が過ぎてもきっとこの若王は後悔などしないだろう。
レキシア歴1284年6月7日。レキシアはバルテシア帝国に降伏を宣言するため帝都に向かった。少年王セルシオを先頭とし、約50名の文官と20名の護衛騎士を連れて。だがそこに英雄レディ インフェルノの姿はなく、多くの帝国兵に囲まれた彼女はレキシアに残ることとなった。この出来事が、どう転んでいくのかそれを知るのはこのあとの歴史が語るだろう。
これが、レディ インフェルノにとって最後の戦いのなるのだから。
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