第124話「誰かの懺悔」
いつの日かの、いつかの出来事。季節は初夏の、少しだけ日差しの強いその日に男は運命の出会いをした。忘れもしない、あの強烈で鮮烈的で、切なく儚いあの出会いと日々を、愚かにもずっと胸に抱えて。
――未だ忘れることもできず、手に入らない悔しさと苦しみを抱いて。
****
その少年が自分の立場が低いことを自覚したのは、物心がついたその時だった。自分がいつからその生活をしていたのか、それはもうわからないほど昔のこと。少年が最後に持つ記憶は、古臭くボロいあばら家に一人泣いていたときだ。それ以前の記憶はなく、それ以降の記憶もこうなるまではどこか曖昧なままだった。
だがそれでも周囲の視線が少年が一体どういう存在なのかをありありと知らしめる。その鋭くも嘲笑する濁った黒い目。多くの視線が少年を指す中、彼に好意的な視線を向けるものは誰ひとりなかった。
「僕は、一体どうして生きているの」
その疑問に答えるものはいない。記憶ある限り、少年のそばにいたものは一人もいなかったし、少年の過去を知るものもいないのだから。
まさに孤独の世界。灰色の世界の中にいた少年に誰もが手を差し伸べるわけもなく、そのまま淡々と時間のみが過ぎていった。
あの日、あのとき、少年の心に魔が差さなかったら、あの薔薇の咲き誇る庭に足を踏み入れなかったら、何も変わらない日々が送れていたのだろう。
「――あら、貴方……どうかしたの?」
赤い薔薇のような、はっと目が覚めるような赤を持ち、輝く宝石のような黄金の瞳を持つ彼女に会うまで、少年の世界は確かに灰色の世界だったのだ。
「第一皇女……殿下」
「ここは皇族しか入れない庭よ。こんなところにいたら何をされるかわからないわ。わからなかったの?」
「あっ……も、申し訳ありません!!」
あまりにも美しいその赤に見惚れてしまっていたが、皇女が言うようにそこは皇族のみしか許されない聖域。少年の下働きという身分では決して入ってはいけないところに入ってしまったのだ。バレれば首どころで済むわけもなく、最悪死刑になってしまう。美しい花々に見惚れて入ってしまったことを少年が後悔し、目の前の少女とも言えるような美しい皇女が下す沙汰を静かに待つ。
「……フフ。
「えっ……」
「それに一人は寂しいの。ねぇどうかしら? 少しでいいから私とお話してみない?」
顔を上げた先にいた少女は、少年が一度だって見たことも、向けられたこともない優しい笑みを少年に向けていた。そして少年の手を引き、その美しい庭園に足を踏み出す。花の香りに包まれ、少女は笑った。
「私はオリビア。親しい人にはそう呼ばれているの。貴方の名前は?」
「ぼ、僕は……ルカ……です」
「ルカ! よろしく。今日から貴方と私は友達ね。貴方は一体何のお菓子が好きなのかしら?」
皇女と、下男の少年。決して交わるはずがない身分同士がなんの因果か交わっていく。その奇妙な関係は、二人が軽口を言い合い、蜜月のように何度も逢瀬を繰り返すまでになった。
事件が起きる、その時まで。二人の関係は続くのだと、そう思っていたのだ。
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「隣国のアスメリアに行くことになったの。短期留学で」
「え、アスメリアに?」
護衛も侍女も下がらせ、二人だけの空間となった例の庭園で、二人は紅茶を片手に話し込む。皇族である彼女が他国へ行くのはおかしくない。だが今回行く国であるアスメリアは帝国と国境付近で何度も小競り合いをしていたはず。そんなところに行くことに不信感が湧いてもおかしくないだろう。
「ええ、けどしょうがいないわ。私は皇族だもの。国同士仲が悪くとも表面上は良くしないと」
「……そっか」
「でも楽しみにしていることもあるのよ? あそこの茶菓子はとても美味しいと聞くから、お土産しっかりと貴方の分まで用意するわね」
「ほんとオリビアはお菓子が好きだね。それ以上食べるとふと」
「なにか言ったかしら?」
「……ナンデモナイデス」
そう、皇族ならば仕方がない。国のために、少しでも利益のあることを率先してするのは彼女たちの義務。栄光ある身分を持ち、最高峰の暮らし、欲しいものはすべて手に入れられる代わりに、国のために犠牲になる。それが、国の駒であるオリビアの役割だった。
「一ヶ月も貴方に会えなくなるのは悲しいわ。ルカ」
「僕もだよ。でもまぁたった一ヶ月だ。案外あっという間さ」
「そうだけど。……はぁ、憂鬱ね。なんだか嫌な予感がするし」
嫌な予感。その言葉にルカも同じ気持ちになってしまう。ああ、そのとおりだ。なんだか嫌な予感がする。けれどもそれを一介の下男如きが口にすることは許されないと思い直し、オリビアにクッキーを差し出し笑った。
「なんだよ。今までこういうことだって合っただろう? オリビアらしくないな」
「……そうね。今までも合ったわ」
ふと見せた憂いのある顔。その見たこともない、珍しいオリビアにルカが興味を持たないわけもなく、身を乗り出して聞こうとするが、その顔もまるで幻のように笑顔の下に隠された。
「まぁ、楽しみにしててね。手紙は……渡せないけどこうしてお話するわ」
「楽しみにしてるよ」
そうしてオリビアは国を発つ。小さなバスケットの中にお菓子を詰めて、それを嫌われ者の下男に渡してから。その美しい顔をほころばせ「必ず帰るね」と、言葉を残して。
その日は、お天道様を覆い隠す分厚い灰色の雲に覆われた日だった。
「――オリビアが……行方不明……?」
空は曇り、涙を流さない。オリビアはその言葉と約束を守ることはなく、アスメリアと内通していた貴族の手によって姿を消してしまったのだ。ルカの想いも、何も伝えることがなく。そしてそれから何年もの月日が流れても、彼女が帰ってくることはなかった。
遠い冬の国に、その英雄の話が入ってくるその時まで。
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どうして、どうして彼女が巻き込まれなければならなかった。他にも兄弟姉妹は多くいたのに、どうして。どうして、どうして、どうして!!! どうして俺から彼女を奪ったんだ!!
……ごめん、ごめんな。オリビア。迎えに来るのが遅れて。もう大丈夫だ。お前を傷つけるものも、お前を不幸にするやつも全員始末したから。俺が全部、あのクソどもからすべてを返してもらったから。この国は全部お前のものだ。すべて、オリビアが手にするはずだったもの全部俺が用意したからさ。
だから、だからさ……頼むよ。また一緒にあの庭で俺とお茶を飲もう。
今はかすれてわからない、女の顔を必死で思い浮かばせて。
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