第324話:新たな聖域管理者たちとの別れ

 いまだかつてない現象が生じている。


 イエズヴェンド永久氷壁が一際ひときわ強く輝き、震えている。それはエランセージュの故郷、辺境の小さな村にまで伝播でんぱしていった。


 再び氷壁を構築している氷という氷が藍碧らんぺきに美しく染め上げられていく。キアラルヴュルの最後の魔力がモレイネーメに浸透した結果だった。


「これが始原しげんの力ですか。僅かながらの魔力量で、これほどの影響をもたらすとは」


 ビュルクヴィストが呆然ぼうぜんつぶやく。そこには信じがたい想いがめられている。それほどまでに圧倒的な光景が聖域内で展開されている。


≪我が子ビュルクヴィスト、エランセージュ、そなたたちに我からの贈り物だ≫


 その声はモレイネーメの心を通じて聞こえてくる。魔力感応フォドゥアとはまた違う不思議な事象じしょうだった。


≪とりわけ、我が子エランセージュよ。そなたにはびておかねばならぬ。その罪滅ぼしでもあり、何よりも我が神レスティー・アールジュ様からのご命令でもある≫


 エランセージュはその名前を前にして咄嗟とっさひざまずく。もはや条件反射的な身体の反応だ。


≪真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエ、その根源こんげんだ。そなたが我が神レスティー様よりたまわった瑠璃涼氷麗満輪フロレジュリエをもってしても、開花の道はほど遠い。だがいずれせるようになるだろう≫


 エランセージュの心に藍碧の魔力が流れ込んでくる。たとえようのない力強さだ。さらに温かさ、穏やかさといった様々な感情も含まれている。


 いつくしみの力とはどういったものか。その鍵となる感情でもあった。


≪キアラルヴュル様、幼かった私に瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエの鍵をさずけてくださり、ありがとうございました。私が魔術師になりたいと思った本当のきっかけだったのですね。感謝しております≫


 跪いたまま頭を下げるエランセージュをキアラルヴュルはモレイネーメを通し、慈愛じあいをもって見つめている。


≪我が子エランセージュよ、そなたが大成するところを見られぬは至極しごく残念だが、我は期待している≫


 知らず知らずのうちにエランセージュの瞳からは止めどなく涙があふれ出していた。


 別れが辛いことぐらい知っているはずなのに、まるで両親を失ったかのように心が空虚くうきょになっていく。その小さく震える背をビュルクヴィストが優しくでる。


≪我が子ビュルクヴィストよ、贈り物といってもそなたに相応ふさわしきものを我は思いつかぬ。そなたはこの主物質界において、既に完成された魔術師の一人だ。本来であれば、始原の力はそなたにこそなのであろう≫


 飄々ひょうひょうとしたいつものビュルクヴィストが戻ってきている。


≪いえいえ、とんでもございませんよ。キアラルヴュル殿、私にはまだまだやりたいこと、やらねばならないことがあります。今ここで聖域の管理者になるわけにはいかないのですよ≫


 僅かに無理をしているのが分かる。ビュルクヴィストは人族の一人であり、最強の魔術師と呼ばれている基準はあくまで今の主物質界においてのことだ。


≪我が子ビュルクヴィスト、そなたは優しい心根こころねの持ち主だ。今も我が子エランセージュのためにあえてそのように振る舞っているのであろう。そなたは変わらず、あり続けてほしい。ゆえに我からの贈り物だ≫


 モレイネーメの身体の動きをもってキアラルヴュルの意識がエランセージュに向けられる。モレイネーメがうなづいている。


≪我が現世げんせで最後に行使する魔術だ。我が子エランセージュよ、一度だけ見せておこう。真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエを≫


 たちどころにビュルクヴィストを中心にして魔術陣が描き出されていく。


 それはまさしく澄み切った静謐せいひつ、藍碧の魔力によって支配された五芒星ごぼうせいは冷涼なきらめきを発し、ビュルクヴィストを対象者として即座に認識した。


 瞬時の成就じょうじゅは、エランセージュの行使した第三段階までの行程に他ならない。


 異なるのはエランセージュの瑠璃光るりこうに対し、真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエはまさに瑠璃光をも内包した藍碧光らんぺきこうであるということだ。


 その様を凝視するエランセージュの瞳は美しい瑠璃に染まっている。


 ここからが魔術の本番だ。描き出した魔術陣を天の陣、地の陣に分離させていく。その行程さえ刹那せつなだった。


 圧倒的速度をもって魔術陣が天と地に分かたれ、ビュルクヴィストをはさみ込む。それだけではない。


≪これこそが真なる王陣だ≫


 エランセージュの心の中に刻まれた根源が訴えかけてくる。自身の魔力を根源に寄り添わせる。


 天の陣、地の陣それぞれが五芒星を内包している。その五つの頂点をもって、さらなる魔術陣が創り出されていった。


 さながら天と地の陣を中心にして、五枚の魔術陣の花びらが咲き誇ったかのようでもある。


 今のエランセージュは絶望を感じている。王陣と思っていた天と地の陣が、実はさらに十の魔術陣を付加構築してこそだった。


 そして、真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエの完成形はまさにこれからなのだ。


 天の陣を構成する花びら部分、五つの魔術陣が直角に折れ曲がり、垂れ下がる。


 真逆に地の陣を構成する五つの魔術陣もまた直角に折れ曲がり、振り上がる。


 花びらと花びらが手を結び、ここにビュルクヴィストを完全内包する真なる王陣が完成を見た。


 天より降り注ぐ鮮紫せんしの光、地より立ち上がる濃青のうせいの光がそれぞれの花びらを通じて溶け合い、瑠璃を経て藍碧へと至り、輝きは頂点に達した。


 真なる魔術が発動する。


「こ、これは。まさか、このようなことが。信じられません」


 ビュルクヴィストは唖然あぜんとしつつ、自身の左腕を凝視している。


 オペキュリナの託宣によって失った左肘ひだりひじから下は全く機能していない。それは至って不便でしかない。無理矢理にでも動かすため、膨大な魔力をもって疑似的な左肘下の部位を創り上げ、強制稼働させていたのだ。


 凄まじい速度でビュルクヴィストの左肘から下の部位が肉体をともなって復元されていく。


「恐ろしいばかりの力ですね。これが真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエですか」


 すっかり元どおりになった左肘から下の部位を何度も何度も振りながら、血が通っている感触をみ締めているビュルクヴィストが子供のようで可愛らしい。少なくともエランセージュにはそう思えた。


 見つめてくるエランセージュの視線を感じ取ったのだろう。いささか恥ずかしげにビュルクヴィストが応じる。


「何ですか、エランセージュ嬢。その目は、全く貴女は、仕方がありませんね。それよりも、真の瑠璃王慈癒光宝陣ピラジェシュリーエをご覧になっていかがでしたか」


 問われても答えようがない。それがエランセージュの本音だ。


 今のままでは到底不可能なのは言うまでもない。圧倒的に魔力が足りない。補う手段はあったとしても、真の王陣に辿たどり着ける確証もない。だからこそ絶望しか感じられないのだ。


≪我が子エランセージュよ、根源はそなたの中にある。見事開花させてみせよ≫


 未だひざまずいたままのエランセージュはいっそう深々と頭を下げ、最大限の敬意と感謝の気持ちを送った。


 永遠とわの別れのときが訪れる。


 エランセージュだけではない。モレイネーメも、ゼーランディアもガドルヴロワも等しく跪き、キアラルヴュルの最後の言葉を待っている。


≪数千年を経て、ようやく混沌にかえる刻が来た。藍碧月スフィーリアに連なる我が子たちを長らく待った甲斐があるというものだ。くれぐれも聖域を頼んだぞ。さらばだ≫


 氷を輝かせていた藍碧の美しさが静かに失せていく。あたかもキアラルヴュルが安らかな眠りに落ちていくかのようでもあった。


≪キアラルヴュル様、貴男様に最大限の感謝を捧げます。この聖域は必ずや私とゼーランディア、ガドルヴロワの三人で守護していきます≫


 モレイネーメの心の中でキアラルヴュルが頷いたように感じられた。


 藍碧の輝きが完全に収束、氷がもとの美しさを取り戻す。聖域には静寂が訪れていた。


「ビュルクヴィスト様」


 つのる想いもあるだろう。己を破門した張本人を前に複雑な感情もき上がるだろう。


 それら全てをみ込んで、モレイネーメはかつての師を敬称をもって呼んだ。


 藍碧の魔力によって染め上げられたモレイネーメの何と妖艶ようえんなことか。ビュルクヴィストでさえ一瞬目を奪われるほどだった。


「モレイネーメ、ここまで苦労しましたね。そして全てがむくわれました。今この刻をもって、貴女の破門をきます。藍碧月スフィーリアに連なる者として、新たな聖域管理者として、よろしく頼みますよ」


 ビュルクヴィストの視線を受け止めたモレイネーメが何度も頷きながら感涙かんるいしている。ゼーランディアもガドルヴロワももらい泣き状態だ。


「ゼーランディア、ガドルヴロワ、よかったですね。キアラルヴュル殿のお言葉どおりです。血のつながりなどなくとも、貴方たち三人はまぎれもなく親子です。これからの長い生において、過去の分まで取り戻せることを願っていますよ」


 涙をこぼしながらゼーランディアが先に答える。


「ビュルクヴィスト様、ありがとうございます」


 姉に続き、ガドルヴロワもまた丁重に礼を述べると、おもむろに魔力塊まりょくかいを創り上げていく。


「ビュルクヴィスト様、私はここから一歩も離れられません。これをソミュエラに渡していただけないでしょうか。教える約束でしたが、もはや叶いません。それゆえに私の知りうる殻毅術かくきじゅつの全てをこの魔力塊にめました」


 エランセージュは驚きの眼差しでガドルヴロワを見つめている。いつの間にそのようなことを、といったところだろう。


「そうでしたね。ソミュエラ殿は残念がるでしょうが。私が受け取っておきましょう」


 ビュルクヴィストの指が軽く振られ、宙に円を描いていく。ガドルヴロワが創り上げた魔力塊はその中に吸収されていった。


「エランセージュ嬢、戻りましょう。戦いも佳境かきょうです。まもなくその刻を迎えます。いよいよ大詰めですよ」


 エランセージュがこれ以上ないというほどの真剣な瞳をもって、彼方かなたへと想いをせている。彼女の指が静かに宙に向かって動いた。


 モレイネーメがエランセージュの魔術発動を抑止よくしするはずもない。静寂の空間に漆黒しっこくの空洞が硬質音を伴って広がっていく。


「モレイネーメ、ゼーランディア、ガドルヴロワ、ここでお別れです」


 三人がそろって頭を下げてくる。ビュルクヴィストは苦笑を浮かべつつ、心の中でつぶやいていた。


(レスティー殿のお気持ちが少しだけ分かるような気がしますね)


「ビュルクヴィスト様、エランセージュ、お二人にも最大の感謝を。聖域は、我々は、お二人をいつでも歓迎いたします」


 ビュルクヴィストは笑みを浮かべ、エランセージュは頭を下げる。


「機会があれば立ち寄りますよ」


 その言葉を最後に、ビュルクヴィストとエランセージュは魔術転移門の中に消えていった。二人が入るや、漆黒の空洞がゆっくりと閉じていく。二人の視線は片時も離れず、モレイネーメたちに注がれている。


「ビュルクヴィスト様、私は貴男の弟子で幸せでした」


 その想いはきっとビュルクヴィストに届いたに違いない。

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