第304話:苛立ちと朴念仁

 抱き止めたセルアシェルの顔をやや後方にらし、小さめのくちびるに自らの唇を重ねる。


 最初はゆっくりとだ。大量に送り込むのは逆効果でしかない。セルアシェルの気道に適量の息を細く、長く、慎重に流し込んでいく。


 数回の試行、問題がないことを確認したミリーティエは送り込む息を太く、深くして、自発呼吸をうながしていく。


 そこから正しく七回、セルアシェルの身体がね、激しくきこむ。ここまで来れば一安心だ。


 触れた唇を離して、ミリーティエが言葉をつむぐ。


「ゆっくりです。ゆっくりと、小さく、少しずつです。息を吸って、いて、全身に行き渡らせなさい」


 何度も咳き込み続けるセルアシェルの背を優しくさすりながら、ミリーティエはおだやかな口調で言葉をかけ続ける。


あせる必要はありません。ゆっくりと、そう、その調子です。呼吸を続けなさい。慣れてきたら、深く、大きく」


 浅い自発呼吸は安定してきている。心臓をはじめとする臓器のいちじるしい損傷もられない。衰弱すいじゃくこそ激しいものの、異常は見つからない。数時間もてば、セルアシェルは回復するだろう。


 ビュルクヴィストがエランセージュの、ヴェレージャがディリニッツの目をふさいでいた両手を離す。当然のことながら、二人から非難の目を向けられるのはけられない。


 ビュルクヴィストもヴェレージャもどこ吹く風といったところで、意にも介していない。この二人、意外に似た者同士なのかもしれない。


「ゼーランディア姉さん」


 ガドルヴロワの言葉を受け、ゼーランディアが軽く両手を打ち鳴らす。直後、全ての結界が消え失せていた。


「結界を解除したわ。さあ、行きなさいな。彼女のそばに」


 何か肝心なところを見過ごしてしまったような気がしないでもない。


「心から感謝する」


 戸惑とまどいを隠せないながらも、ディリニッツはゼーランディアに礼を述べると、すぐさま操影術そうえいじゅつを発動する。


「全く落ち着きのない男よね。世話が焼けるわね。面白そうだし、私も行ってくるわね」


 いつしか、この状況をすっかり楽しんでいるヴェレージャだった。


「ちょっと、ヴェレージャ、待ちなさい」


 わずかの間、ソミュエラが慌てて制止するものの、既にヴェレージャはけ出している。後の祭りだ。


 セルアシェルはまだ言葉が発せられない。全身を覆っていた氷は溶け失せている。極度の低体温は早々に回復できるものではない。一方で自発呼吸は落ち着きを取り戻している。


 ミリーティエはおおかぶさるようにして、一向にふるえが止まらないセルアシェルを包み込む。


 魔力同調の賜物たまものだ。再び炎をもって、今度は彼女の魔力をゆるやかに燃焼させ、体内から温めていく。


「あくまで一時的な処置です。残念ながら、魔術は万能ではありませんからね」


 セルアシェルの顔はどうにか人肌に戻ってきているとはいえ蒼白そうはくだ。流した涙が糸を引いたようなあととなって浮かんでいる。ミリーティエが細い指で優しくぬぐう。


「来ましたね」


 セルアシェルのすぐ背後、操影術による影溜かげだまりが大地を漆黒しっこくに塗りこめ、その中からディリニッツが飛び出してくる。


「レスカレオの賢者ミリーティエ殿、私の部下を、セルアシェルを助けていただいたこと、心より感謝申し上げます」


 現れるなり、深々と頭を下げるディリニッツにミリーティエはややかたみを向ける。ザガルドアが見たら、まだまだ硬い、と文句を言われて、ほおをつねられそうだ。


 精一杯頑張ったつもりの笑みは、事情を全く知らないディリニッツに自然と受け入れられた。


「当然の医療行為をしたまでです。救える命は必ず救います。それが賢者として務めですから」


 セルアシェルをディリニッツにゆだねる。


「ここからはお任せします」


 二人共に初対面ながら、あの時に会えなかった十二将についてはザガルドアから詳しく聞かされている。その特徴とこの上なく合致がっちしている。


(この方が隠密兵団団長にして操影術の使い手、ディリニッツ殿ですか。セルアシェル殿を大切にしているようですね。部下というよりは、まるで)


 余計な考えは無用だ。


「セルアシェル殿の体内魔力に炎をせて一時的に温めましたが、身体はなおも冷え切ったままです。しっかり温めてあげてください」


 セルアシェルを受け止めたまま、ただうなづくだけのディリニッツに対して、ミリーティエはいささか怒気どきをはらんだ口調でつけ加える。


「何をしているのです。今すぐ、ですよ」


 言葉の意味が一瞬理解できなかったか。ディリニッツはいぶかしげにミリーティエを見上げ、それから視線をセルアシェルに落とす。


「人肌で温めるのが最適なのです。お互いの肌を密着させて、しっかり抱き締めてください」


 矢継やつばやに追い打ちが来る。あまりの突然のことで行動に移せないディリニッツを前にして、次第に苛立いらだちがつのってくる。


 ミリーティエの昔ながらの性格がよみがえっている。相手を徹底的にやり込める、その悪癖あくへきが。


「貴男の可愛い部下なのでしたね。このまま何もしなければ、極度の低体温症で脳がやられてしまいますよ。それでよいのですか」


 背後から足音が聞こえてくる。気を取られたディリニッツが思わず振り返る。


「何をしているのよ。早くセルアシェルを抱き締めてあげなさいよ」


 軽快にディリニッツの頭をはたくヴェレージャに面食らってしまうしかない。


「何、それとも私に代わってほしいとでも」


 両手を腰に当て、やや胸を反らし気味のヴェレージャが挑発ぎみにディリニッツをあおっている。これにはミリーティエまでもが呆気あっけに取られている。


「ば、馬鹿を言うな。わ、私がやる」


 ようやくにしてセルアシェルを抱き締めるディリニッツに、ミリーティエもヴェレージャも安堵のため息をつく。


(こうでもしないと何もできないんだから。本当にこの朴念仁ぼくねんじんは)


 ヴェレージャの心の声は、きっとミリーティエにも伝わっているのだろう。二人して顔を見合わせ、苦笑を浮かべている。


「レスカレオの賢者ミリーティエ殿ですね。ヴェレージャと申します。ディリニッツ同様、私にとってもセルアシェルは可愛い妹のようなものです。命を救っていただき、誠に有り難うございます」


 ヴェレージャもまた丁重に頭を下げてくる。


(気持ちのよい人たちですね。深いきずなで結ばれていることがよく分かります)


「ディリニッツ殿にも申したとおり、賢者としての責務を果たしたまでです。それに、セルアシェル殿はここで死なせるべき方ではありません」


 ディリニッツに抱かれたセルアシェルに視線を向け、様子を確認する。ディリニッツはしっかり対応しているようだ。セルアシェルの身体を両腕で包み込み、熱が伝わるよう胸部同士を密着させている。


「ねえ、ディリニッツ、提案なんだけど」


 何だとばかりに胡散臭うさんくさそうな目を向けてくるディリニッツに、ヴェレージャが屈託くったくのない笑みを浮かべながら爆弾を落とす。


「セルアシェルの着ているものをがした方がよいわよ。私が協力してあげるわ」


 言っている意味が分からない。ディリニッツは勝手に事を進めようとするヴェレージャに困惑しきり、言葉を失っている。


「ヴェレージャ殿、ここで、ですか」


 ミリーティエも驚きつつ、すぐさま問い返す。さすがに冗談だろうと思ったからだ。確かにヴェレージャの提案は正論であり、ミリーティエも同様のことを考えていた。


 衣類を脱がした方が熱伝導の効率も上がる。さすがにこの場で裸にするわけにもいかず、自ら却下きゃっかしていたのだ。


 問い返されたヴェレージャは逆に怪訝けげんな目を向けてくる。何の問題があるのか、と言いたげだ。


「ミリーティエ殿の魔力によってセルアシェルの体内は一時的に温められています。ですが、冷え切った衣類をまとったままでは、いくらディリニッツが外側から温めようとも効果半減です」


 ヴェレージャの指摘は全くもってそのとおりだ。反論の余地すらない。それでもミリーティエは不思議そうに小首こくびかしげる。


「おたずねしてもよろしいですか」


 どうぞとばかりに首を縦に振るヴェレージャを待って、ミリーティエが言葉を続ける。


「エルフ属の皆様は人前で肌をさらすことに抵抗はないのでしょうか。その、ディリニッツ殿は間違いなく殿方とのがたですし」


 やや遠慮がちなミリーティエの問いかけを聞いて、ようやく合点がてんがいったか。ヴェレージャは安堵にも似た笑みを浮かべて言葉を返す。


「ヒューマン属と同じです。エルフは婚姻するまで特定の相手の前で肌を晒すような真似はしません。ですが、今は緊急事態です。これの操影術なら、ごく限られた者だけになれます。それに、セルアシェルは」


 これ、と言いながらディリニッツを指差すヴェレージャに、すかさず突っ込みが来る。


「おい、私の扱いがあまりに雑すぎないか」


 いつものことよ、とばかりに平然と受け流し、ヴェレージャがミリーティエをいざなう。


「ミリーティエ殿も是非ぜひご一緒しませんか。二人の方が衣類も脱がせやすいですし」

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