第260話:ひと時の安らぎと別れ 後編

 さっしのよいイプセミッシュのことだ。恐らくは断片的に何かを感じ取っているかもしれない。あえて、その部分に触れにいく必要もない。


「妖精王女様、大変申し訳ございません。ヨルネジェアとの再会があまりに嬉しく、配慮が足りませんでした。お許しください」


 全く変わらない妖精王女の妖艶ようえんな美しさに当てられたか。言葉は何とか発したものの、イプセミッシュはしばし固まっている。


「あら、ヨルネジェアだけなの。私との再会は嬉しくないのね」


 大人の、そしてこれこそ妖精の魅力なのか。完全にイプセミッシュを手玉に取っている。つまりは、からかっているのだ。その証拠に妖精王女は鈴のを転がすような小さな笑い声を上げている。


「い、いえ、そんなことは、断じてありません。どうか、その辺りでご容赦ようしゃを」


 慌てて弁解の言葉を口にするイプセミッシュに妖精王女は素直にびた。


「ごめんなさいね。冗談よ。イプセミッシュ、貴男が無事に戻れて何よりだわ。それはもうね、ヨルネジェアが大変だったのよ」


 妖精王女がとんでもない爆弾を投下する。イプセミッシュの胸に顔をうずめたままのヨルネジェアが咄嗟とっさに振り向く。


「妖精王女様、そ、それは、言わないで、ください」


 ほおふくらませて抗議するヨルネジェアに妖精王女はただ笑みをもってこたえるだけだ。


「ヨルネジェア、君を下ろしてもよいだろうか。命の恩人に改めて礼を尽くしたい」


 宝物を扱うかのごとくヨルネジェアを丁重ていちょうに、優しく大地に下ろす。腰に回していた右手は彼女の左手を握っている。


「も、もう、いいわよ。恥ずかしいじゃない」


 照れ隠しか、いささか怒ったふりのヨルネジェアもイプセミッシュにしてみればいとおしい。


「妖精王女様、改めまして。命を救ってくださり誠に有り難うございました。またヨルネジェアとの再開の機会をお与えくださり、重ねて心よりお礼を申し上げます」


 最大限の敬意をもって頭を下げる。いまだイプセミッシュに手を握られたままのヨルネジェアが横目で見つめている。


(本当に変わらないんだから。貴族なのに、しかも次期国王なのにね)


 頭を上げたイプセミッシュに妖精王女は微笑みを返す。


「礼など不要よ。イプセミッシュ、貴男の想いがかなうとよいわね」


 意味深な言葉だった。妖精王女の姿がゆっくりと薄れていく。レスティーの力をもって二つの空間をつなぎ、顕現けんげんしていたのだ。それは無限ではない。


「そろそろ限界のようね。ヨルネジェア、私は戻るわ。貴女も」


 続きは口にしない。ヨルネジェアにも分かっていることだからだ。


 半球円内は疑似的に創り上げた空間だ。妖精王女ほど短時間ではないにしろ、ヨルネジェアも存在しうる限界がある。


 イプセミッシュの手を握るヨルネジェアの左手に無意識のうちに力が籠められる。呼応してイプセミッシュも力強く握り返す。


「もう、行ってしまうんだね」


 状況が許すなら、何を置いてもヨルネジェアを引き止めただろう。語りたいことも山のようにある。今はその時でもない。


「イプセミッシュ、ええ、私も戻らないと。私は妖精なの。妖精王女様に仕える者なの。だから、これで、お別れよ」


 ヨルネジェアは躊躇ためらいを消すためか、握っていた手を振りほどくように離した。


 イプセミッシュを見上げるつぶらな瞳には、こぼれ落ちそうなほどに涙がたまっている。イプセミッシュの右手が優しく触れ、涙をぬぐっていく。


「イプセミッシュ、お願いよ。もう一度、強く抱き締めて」


 たくましい腕の中にもたれかかるようにして身を預けるヨルネジェアを抱き締める。


 イプセミッシュはこの時になって初めて気づく。首元を覆う布地に隠されて見えていなかったのだ。ヨルネジェアの細い首には一回りするほどの痛々しい傷がある。それが跡形もなく綺麗きれいに消えているのだった。


「ヨルネジェア、首の傷が」

「えっ」


 ヨルネジェア自身も気づいていなかった。思わず首の傷に触れてみる。


「ど、どうして、いったい、何が」


 そこで気づくのだ。視線がその要因たる者に向けられる。


「そう、エランセージュ、貴女のあの魔術は妖精の私をもいやしてくれたのね」


 二人の視線を一身に浴びたエランセージュがたじろいでいる。彼女にしてみれば、いったい何事かといったところだろう。


「もう時間がないわ。彼女にもお礼を言っておいて」


 妖精王女と同様だ。ヨルネジェアの姿が次第に薄れていく。人化がけていく。


「イプセミッシュ、貴男を」

「必ず方法を見つけて、君に会いに行く。どれほどの時間がかかろうとも」


 人から伽鹿琥清羅ベルシュレイグへと、ヨルネジェアの姿が変化していく。


「ヨルネジェア、愛している」


 伽鹿琥清羅ベルシュレイグに戻ったヨルネジェアが悲しげな声を響かせ、空へとけ上がっていった。


 その姿を見つめる妖精王女の瞳も悲しみで揺れている。


「イプセミッシュ、焔光玉リュビシエラを持っているわね。私の前に」


 言われるがまま、常に首から吊り下げている焔光玉リュビシエラを取り出し、ほとんど姿が見えなくなっている妖精王女に向けてかかげる。当時のままの美しさを保つ焔光玉リュビシエラは炎が躍るかのごとく深紅に輝いている。


"Poyznaa-verem visajess."


 妖精王女の言霊ことだま焔光玉リュビシエラと反応、一際ひときわ強い輝きを発しながら、深紅の光の上に翆青すいせいの光が混じり合っていく。


「イプセミッシュ、私の館への鍵よ。貴男を信用して預けるわ。それから、これだけは忠告しておくわ。ヨルネジェアを悲しまるようなことをしたら、決して許さないわよ」


 最後の言葉は本気のおどしでもある。その程度で屈しはしないだろう。妖精王女も重々理解してのうえだ。


「妖精王女様、私は本気でヨルネジェアを愛しています。彼女を悲しませるような真似は絶対にしません。お約束いたします」


 光に満ちたよい目だ。強い目をしている。


(ああ、ウェイリンドアそっくりね)


 心の言葉を隠し、妖精王女は小さくうなづいてみせた。


「そう、その言葉を聞けてよかったわ。イプセミッシュ、このようなところで命を落としては駄目よ。また会いましょう」


 妖精王女の姿が完全に消え去った。


 イプセミッシュは上空にとどまっている伽鹿琥清羅ベルシュレイグの姿に戻ったヨルネジェアをあおぎ見る。


 彼女の瞳がこちらを見つめている。イプセミッシュも見つめ返す。言葉は不要だ。想いは通じ合っている。


 イプセミッシュは無意識のうちに彼女に向けて手を伸ばしていた。


 伽鹿琥清羅ベルシュレイグの姿もまた次第に薄れていく。そして、遂には完全に見えなくなってしまった。


 彼女たちのために構築されていた半球空間もまた失せていく。


 イプセミッシュはつい先ほどまで伽鹿琥清羅ベルシュレイグが留まっていた上空をまばたきも忘れて、ひたすら見つめ続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る