第107話:ビュルクヴィストの嘆願
落ち着きを取り戻した院長室には重苦しい雰囲気が漂っていた。
ルシィーエットとオントワーヌは既に退出している。二人の弟子への指導のため、研究訓練室に向かったのだ。
残っているのは院長ビュルクヴィストと、当代スフィーリアの賢者で弟子でもあるエレニディールの二人だけだった。
「色々ありましたが、いよいよ大詰めです」
ビュルクヴィストが切り出す。
「
エレニディールにとって、ビュルクヴィストは院長というよりも、師としての存在が大きかった。賢者としての立ち居振る舞い、その全てを徹底して叩き込んでくれた尊敬すべき人物だ。
口調一つとっても、そうだった。ルシィーエットともオントワーヌとも異なる。常に同じ目線に立って、自分と同じ立場から物事を考えてくれる。
魔術師として、限りなく感情を
「ビュルクヴィスト、貴男のそういうところは全く変わりませんね。今だから言いますが、貴男が私の師と決まった時、よくもここまでの変人に賢者が務まるものだ、と正直に思っていたのですよ」
実際、指導が始まってからもその思いに変わりはなかった。ビュルクヴィストは努力を表に決して出さない。だからこそ、誤解も多い。
彼は、賢者としての務めをいささかも
エレニディールは弟子だからこそ、そんな彼の裏の部分も知っている。そして深く感銘を受けているのだ。
「私は、出来の悪い弟子でした。貴男は、一度も怒鳴ったりせず、私がこなせるようになるまで、何度も繰り返し、丁寧に導いてくれました。歯がゆかったことでしょう。貴男の貴重な時間を奪っていたのですから」
ビュルクヴィストの弟子になって、かれこれ百有余年だ。当代三賢者といっても、ミリーティエ、コズヌヴィオとは賢者として過ごしてきた期間が全く違う。エレニディールがレスティーと親しい関係にあるのも、ここに起因している。
「懐かしい話を持ち出してきましたね。まさか、貴男もルシィーエットと同様、縁起の悪い話でもするつもりですか」
気詰まりな空気を振り払うように、ビュルクヴィストは
「ビュルクヴィスト、院長として、また師として尊敬する貴男にだけ告げておきます。もしも、この戦いに勝って生還できたなら、私はスフィーリアの賢者を貴男にお返ししたいと考えています」
予感はしていた。ビュルクヴィストは、それだけ深くエレニディールを見続けてきているのだ。レスティーから受けた影響も大きいだろう。
「ただ一人の魔術師に戻り、あらゆる大陸を回りながら
「ええ、構いませんよ」
途中で
「え、ビュルクヴィスト、私の言ったことを聞いていたのですか。聞いていたうえで、承諾するというのですか」
ここでもビュルクヴィストは即答だ。迷いもない。
「しっかり聞いていました。そのうえで、了承します。よいですか、エレニディール。月の名を冠する三賢者が、常に三人でなければならない、と誰が決めたのでしょう」
三賢者、三剣匠、今でこそ三人いることが当たり前になっている。原初まで
原初の一人、その者はあまりに強大すぎた。人ごときが扱うには、あまりに過ぎた力だ。
その者は、力を授ける際、
「貴男に語っておいて今さらですが、この事実は代々の院長にみ
「ビュルクヴィスト、仮定の話ばかりで申し訳ないのですが、私がスフィーリアの賢者の地位を返上したとして、後任候補はいるのでしょうか。貴男は、決して三人である必要はないと
暗にミリーティエ、コズヌヴィオの二人にはとても代役は務まらないだろうことを示唆している。
「候補は、いません」
ビュルクヴィストも理解している。あの二人は、まだまだ未熟だ。まずは、レスカレオ、ルプレイユの名を冠する賢者として成長していかなければならない。それには数十年の歳月が必要になるだろう。
「その間は最悪、私が復帰することもあり得るでしょう。できることなら、そうはしたくありませんがね。さて、話の続きを、と思いましたが、ここまでのようですね」
二人は瞬時に感じ取っていた。この魔力の波動は間違いない。さらには、パラティム内で最も防御能力の高い院長室にさえ、容易に侵入できる魔力の持ち主など一人しかいない。
「済まない。急ぎ
魔術転移によって現れたのはレスティーだった。
「二日後だ。エレニディール、そなたにヴェレージャとディリニッツ、二人の手助けをしてもらいたい。相手はそなたと同郷、クヌエリューゾという
レスティーからの依頼だ。断る理由など一切ない。
「承知いたしました。それでは二日後の夜、シュリシェヒリの里でお待ちしています」
(よりによって、あの男ですか。里にいる時から、何かにつけて私を目の
クヌエリューゾは己よりも強い者には平身低頭
エレニディールは
(ヴェレージャの手助けになるなら、喜んで脇役に徹するとしましょう)
「ビュルクヴィスト、そなたにも済まなかった。
ビュルクヴィストはこれ幸いとばかりに懇願に走る。
「レスティー殿、二人の命、何とかなりませんか。いえ、何とかしてください。貴男のその大いなるお力をもって」
これ以上はないというほどに頭を下げるビュルクヴィストを悲しげに見つめ、レスティーは即答した。
「人の
言ってはならないことだ。頭では理解している。言葉が先に出てしまっていた。
「レスティー殿、貴男には血も涙もないのですか。貴男は、私たちには想像さえできない途方もないお力をお持ちだ。人は命を失えば終わりなのです。ルシィーエットもオントワーヌも、貴男のためだけに命を
「ビュルクヴィスト、それ以上は」
慌てて止めに入ったエレニディールを制止したのは、他でもないレスティーだった。
「構わぬ。最後まで言わせてやれ」
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