混沌の騎士と藍碧の賢者
水無月 氷泉
第001話:カルネディオ城消失
澄み切った冷涼な天に、三連の月が輝いている。
柔らかな光は
ここはカルネディオ、
代々、アムンゼン家によって統治されるカルネディオは、
預かるのは現城主ヴェイリーン・ザラード・アムンゼン、伯爵の称号を許されている。
都市の中心部にそびえ立つのが、象徴たるカルネディオ城だ。当代における技術の
白と黒、表があれば、必ず裏がある。カルネディオ城も例外ではない。
ヴェイリーン・ザラード・アムンゼン、この男の評判はすこぶる悪かった。
都市を治める領主としての威厳など
暴飲暴食の果て、歩くことさえ
短気で我がまま、気に入らないことがあれば、誰彼構わずに怒鳴り散らし、挙げ句は剣を振り上げる。武力も魔力もほとんど持ち合わせていない男だ。
当然のごとく、臣下からの信も薄かった。いや、薄いどころではない。いつ
その抑止になっているのが護衛隊の存在だった。中でも、四人の精鋭は貴族ではない。金のためなら何でもする
十余年における統治において、この男が挙げた功績は、と問われると、
世襲貴族の典型とも言うべき、
民がどのような生活をしているか、都市産業がどうなっているか、都市運営に関わる金銭の流れや納税がどうなっているかなど、彼にとっては
唯一、ヴェイリーンが興味と関心を向けるものがある。
それこそがカルネディオの裏の顔、都市を栄えさせている錬金術だった。
ラディック王国が固く禁じている奴隷売買だ。ヴェイリーンは、実父から地位を承継すると同時に奴隷売買に手を染めた。
彼にとって、金は目的ではない。欲しいのは、己の欲望をただ満たすためだけの無抵抗な女だ。己よりもはるかに弱い立場の者を
奴隷売買は各大陸の国々によって制度が異なる。公に認めている諸国もかなりの数ある。
ラディック王国において、奴隷売買は最も
国法で定めた禁止事項の中でも、奴隷売買はその筆頭格であり、法を犯せば称号
本人には、最重罰となる公開死罪が課され、領地と財産没収のうえ、一族永久追放が待っている。無論、地位の承継など許されるはずもない。
それを承知でなおヴェイリーンは奴隷売買を続けてきたのだ。彼の頭には、手を引くという考えは毛頭なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ヴェイリーンがいるのはカルネディオ城内、主塔最上層に位置する私室だ。
ここからは、
今はそれさえ
執務机には、
「
舌打ちが
奴隷女が左右に分かれて並んでいる。総勢八人の女が、ぼろ布同然の衣服を
彼女たちがなぜ奴隷だと分かるのか。奴隷錠と呼ばれる
裂けた衣服から
皆が皆、能面のような表情を貼りつけ、
顔を上げて、ヴェイリーンと視線が合おうものなら、どんな仕打ちを受けるか。彼女たちを支配しているのは、ただただ恐怖と絶望のみだった。
「ちっ、忌々しい」
吐き捨て、またスコーシュをあおる。普段であれば、三杯も飲めば気持ちよく酔えるはずが、一向に酔いが回ってこない。
現在、城内にいるのはヴェイリーンと執事長、警護隊の精鋭四人を含めた
ヴェイリーンはおもむろに呼び鈴を手にして二度振った。硬質の響きが広がっていく。
「お呼びでございますか、旦那様」
執事長フルトゥナ・エベレントが扉の外からすぐさま反応、
「入れ」
両扉を押し開いてフルトゥナが入ってくる。深々とお辞儀をして視線を上げる。両側に並ぶ奴隷を
「手はずに抜かりはないな」
「万事抜かりはございません。後は」
言葉を切って、フルトゥナは再度、奴隷たちに視線をやった。
「ここにいる奴隷を、処分するのみでございます」
執事長フルトゥナの役目は、ヴェイリーンが行う悪事の全てを取り仕切ることだった。奴隷売買の目的は二つ、女と金だ。
ヴェイリーンは奴隷女を、フルトゥナは金を求めて、思うがままにそれらを手に入れてきた。二人の欲望はどこまでも増長していった。
片方が欠けるだけで崩壊する不安定な関係が、今まで
それが突然終わりを迎えようとは、いったい誰が想像できただろうか。
事態が急変したのは数日前のことだ。
王都ラセニヨンに放っていた
年に一度行われる定期視察は、つい先だって終了したばかりだった。にも関わらず、今回は抜き打ちでの派遣という。
奴隷売買は露見すれば一巻の終わりだ。徹底した情報統制を行い、外部に一切
抜き打ちであろうと、コラプリズが相手なら何ら問題はない。過去、幾度も調査にやって来ているからだ。その
時には大金を握らせ、時には脅迫や暗殺まがいのこともやってのけた。全てはフルトゥナの
今回だけは、それが一切通用しない。なぜなら、スフィーリアの賢者がやって来るからだ。
ヴェイリーンもフルトゥナも
魔術高等院ステルヴィアは、別名賢者の院とも呼ばれる。全大陸にその名を
とりわけ、月名を冠する三人の賢者は、あらゆる面において抜きん出た存在だ。その発言力は国王にも匹敵するとさえ言われている。
賢者とは、それほどまでの相手なのだ。
ヴェイリーンは
潮時だ。そう判断せざるを得なかった。そこに至る頭が残っていたのは、意外だった。フルトゥナが懸命に説得した結果でもあった。
賢者がやって来るまでの数日で、全ての証拠、取引時の証文、蓄財してきた
いかに巧妙に
ラディック王国の法を熟知している賢者に見破られ、そこからコラプリズに突き出されることなど、あってはならない。この地を捨てて、他大陸へ逃げるしかない。
ヴェイリーンは悲惨な死を迎えたくなかった。最終的には、フルトゥナの言を受け入れざるを得なかった。あらゆる手を尽くして、逃げ落ちる算段をつけたのだ。
「忌々しい。今頃になって、なぜ賢者がやって来るのだ」
「密告者がいたのでしょう。気づけなかったのは私の責任です。誠に申し訳ございません。この
互いの利害が合致しているからこその割り切った主従関係に過ぎない。それさえなければ、とうの昔にこの地を離れていただろう。
「まあよい。おまえには随分と働いてもらった。これで最後になるのだからな」
ゆっくりと
フルトゥナは静かに目を閉じた。これから奴隷たちに起こる悲劇を想像し、一瞬
ヴェイリーンが剣を手に、時間をかけて奴隷たちに歩み寄っていく。死ぬ間際まで徹底的に恐怖心を刻み込む。それがこの男の
分かっていても、近づいて来る
「これ以上、お前たちを
残忍な笑みを浮かべ、一番のお気に入りだったエルフ属の女の前に立つ。
ヴェイリーンはこれでもかというほど緩慢に右手に持つ剣を振り上げた。左手は女の細い首をしっかり握り締めている。
「お前は、最高だったぞ」
彼女は心から思った。これでやっと解放されると。
運命は気まぐれなのか。異なる方向へ転がった。天秤に乗せられた彼女の生命は、死と釣り合わない。そういうことなのだろう。
大地を揺るがす
直後、全ての感覚が失われていった。
(ああ、私、これで死ぬのね。もう少し)
急速に意識が閉ざされていく。彼女は心に浮かんだ言葉を手放し、深い闇に沈んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
漆黒の中に人影が浮かび上がった。
男か女か分からない。闇に溶け込むように全身を黒で
浮かんでいる位置、そこは最終城壁の内側だ。すなわち、容易にカルネディオ城を攻撃できることを意味する。
誰もが、その存在に気づけないでいる。
確かに、ヴェイリーンの命令で城内にいる人間が極端に少ないこともあるだろう。それを差し引いても、月明かりを浴びて影も残さず、気配さえ
「
小球は連鎖的に
一つの小球が生じてから五フレプトにも満たない時間で、三千五百ルシエにも達した高温の巨大
全方位に散った炎塊が、あらゆるものを
荒れ狂う炎は
もはや、生ある者の存在を問うことは無意味だった。
この夜、難攻不落を
原型を
事は一瞬のうちに終わった。
起こったことは
全ては
全てを見届けた影は、一人の女を抱きかかえたまま、物悲しげな声で
「夜を覆う深き
ミィディ・エジヌゾア・ラ=アーン・ルクル
星々の輝きに導かれて
二人の姿が、次第に闇に溶けていく。
同時に、夜のしじまが戻ってくる。
その様子を静かに見守るのは、三連の月だけだった。
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