第5話  ありすは夢の世界に順応する

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 よくよく考えてみれば、夢の中の人間が死ぬからなんだというのだ。彼らは一夜限りの存在でしかない。

 朝が来て私の本体が夢から覚めれば、熱湯に放られた氷のように跡形もなく消えてしまう運命にあるのだ。


「それにしても、夜の方角ってなんだろ」


 チェシャが言うには、私を待つべきだ、という彼の予言を受けた者が夜の方角にいるようだ。

 私の予言は別として、この世界をもう少し探検したいという欲求は抑えられない。夜、ということは西だろうか。太陽が沈む方角のことを指しているのかもしれない。


 しかし――


「西ってどっちなんだろ。それとも……」


 チェシャの言う「夜」とはすなわち「night」のことではないか。つまりN、北を目指せということなのかもしれない。ただ、そうだとしても結局方角を確かめるすべはない。


 大ぶりの枝が空を覆っている。


 隙間から覗く空は青いことには青いが、それだけでは何も判らない。木に登って太陽の位置を確かめようと試みたが、手足を引っ掛けられるだけの枝やくぼみが私の背では届かない高さにしかなく、断念した。

 今現在の時刻すらも判らない。そもそも夢の世界に時間という概念はあるのだろうか。


「とりあえず歩くしかないか」


 何もせずじっとしているのは性に合わない。花たちに別れを告げ、私は歩き始めた。


「歩きにくいなぁ」


 森の中に舗装された道などあるはずもなく、私は足元に注意を払いながら少しずつ進んだ。ヒールでこのような場所を歩くのは初めての経験だった。

 土はならした後のグラウンドのように柔らかく、足にそれほどの負荷はかからなかった。空気は澄んでいて、ストレス社会に疲れた大人たちが森林セラピーをするには持ってこいの場所かもしれない。もっとも、ここは私の夢の中だから訪れることはできないだろうけど。


 腐りかけの倒れた木を乗り越え、雑草の茂った一帯を抜けた。右手には大きなハエトリグサとウツボカズラが並んでいる。こういった取り合わせも、夢の中ならではだろう。

 ウツボカズラの中を覗いてみると、悲しそうな顔をした人面ハエと目が合った。


「助けて、助けて」


 ハエが蚊の鳴くような声で訴える。


「どうしたの?」


「助けて、食べられちゃった」


「ふーん」


 もはや並大抵のことでは動揺しない私だった。花は喋れなくても虫は喋れるのだな、とそんなことを考えながらその場を後にした。


「あ、待って、行かないで」


 絞り出すような声を背中に受けながらさらに進む。可愛い少年だったら助けてあげたが、残念ながらおっさんの顔だったので無視する。虫だけに。


 最初の大樹から十五分ほど歩いたところで、細い獣道に出た。


「どっちかな」


 道は左右にどこまでも延びていた。案内看板のようなものはなく、左右どちらの道も同じような狭い道だ。


 どちらに進めばよいのか。


 チェシャの足跡が残っていないか確認してみたが、落ち葉や木の枝がほどよく散乱していてよく判らなかった。一本道なのだから、たとえ間違えても引き返せばよい、とそう楽観的に考えて、私は右の道を選んだ。


 五分ほど歩くと、あることに気がついた。


 前に進むにつれて、辺りがどんどんのだ。大気はひんやりとしていて、少し肌寒い。そして極めつけは空の色だ。枝の隙間からわずかに見える空は、なんとすでにオレンジ色に染まっていた。


「えっ、どうして?」


 まだ森の中を三十分も歩いていない。


 それなのに、どうして空は黄昏ているのか。


 さすがの私もこの時ばかりは恐ろしくなった。とっさに踵を返して駆け出した。すると、ものの数十秒で辺りの雰囲気は元に戻り、地面には木漏れ日が落ちているのが見えた。


 ……これは。


 なるほど、これがあの予言猫の言うところの「夜の方角」というやつなのかもしれない。方角……


 タネが判ってしまえば恐れることはない。私は再び「夜」へと進んだ。


 やはり私の解釈は間違っていなかったようだ。この道を右方向に進むと、日は沈み、うっそうとした森の中に夜のカーテンが下りる。


 どういう原理になってるんだろう。


 ほどなくして、辺りは完全に夜の世界になった。


 発光するものが手元になかったため、いずれ真っ暗になってしまうのではないか、と不安になったが、それは杞憂に終わった。


 誰が取り付けたのか、道を挟む左右の木々に燭台が設置されており、白いろうそくが火を灯しているのだ。このおかげで灯りには困らないが、少し危険なようにも思えた。


 山火事にならないのかな? まあ夢だし細かいことはいいか。


 ただでさえ静かだった森はいっそう静まり返り、私の足音だけがさくさくと耳に残った。

 その暗がりの中をいったいどれだけ歩いただろうか。それは長い、とても長い道のりだった。


 人間、終わりの見えないものには本能的に退屈や恐怖を感じるものだ。


 苦しい長距離走や苦手な勉強も、終わりがあると判っているから頑張れる。そういった意味では、私はこの果てしない道に負の感情を抱くことはなかった。


 理由は二つあった。


 一つはこのぼんやりとしたろうそくの灯りが、心の中の不安をかき消してくれているような気がしたから。もう一つは、この世界が終わりのある夢だから。


 道は次第に蛇のように曲がりくねっていく。


 歩きながら私は考えた。


 先ほど出会ったチェシャという猫の紳士はおそらく、いや、まぎれなく「アリス」のチェシャ猫をモチーフにしたキャラクターだ。


 しかし、ディズニー版や原典のそれとは異なり、意味もなくにやにや笑うことはせず、(自称ではあるが)紳士的な性格をしていた。それに花たちも喋ることはできないでいた。


 ここから判ることは、私のこの夢は「アリス」をモチーフにしながらも、ところどころでがあるということだ。


 そのうち、白兎やハートの女王にも出会うかもしれない。


 奇妙なお茶会に招待されたり、大きくなったり小さくなったりするかもしれない。その時、どのようなアレンジが施されているのか、今から楽しみだった。



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