第6話 ありすは小さくなる
1
ゆらめく炎に導かれて私がたどり着いたのは、開けた場所に建つ二階建ての洋館だった。
三十分ほどの道のりだった。
この辺一帯は木々が開けており、今まで隠されていた空が満開の星明りを伴って現れた。
星々に照らされたその館を見て、私の心は踊りに踊った。
白く塗られた壁。ピンクの屋根から生えた白い二本の煙突は、まるでピンと立った耳のよう。二階には窓が二つあり、玄関と合わせて顔のように見える。白兎の家だ、と私は直感した。
チェシャがつい先ほどまで訪れていたのはきっとこの館だろう。となると、私のことを待っている者とはつまり、白兎ということになる。
「アリス」の世界において、白兎とはアリスの興味を促し、不思議な世界へと誘った張本人だ。「遅刻する」が口癖で、物語の中でたびたびアリスの前に現れては彼女を導いたり騒動に巻き込んだりするキーパーソンである。
玄関の前に立ち、軽くノックしてみる。
「こんにちは……いや、こんばんは?」
返事はない。ノブを捻ってみると、玄関扉はギィ、という音を立てて開いた。
「お邪魔しまーす」
室内は何かしら甘ったるい匂いがたちこめていた。お香でも焚いているのだろうか。
中は森と同じようにところどころにろうそくが置かれていて、真っ暗というわけではなかった。けれども、やはり人の気配はない。
玄関を抜けると二階へ続く階段があり、その奥に廊下が延びていた。
廊下を進み、目に入った扉を手当たり次第に覗いてみたが、どこにも白兎はいない。
兎を象った調度品があるところを見ると、やはりここは白兎の家なのだろう。しかし、肝心の家主が見つからない。風呂場やトイレも確認してみたけれど、結果は変わらなかった。
いささか拍子抜けした私は、新しい発見を願う気持ちで二階へ上がった。
階段を上った先に左右二つの扉があった。二階は二間で構成されているようだ。まず左の部屋へ。
ここは寝室らしい。
窓際に小さなベッドが据えられ、そのすぐそばに脚の長いティーテーブルがあった。書き物机や書架もある。
本を一冊手に取ってみたが、アルファベットをより複雑にしたような文字で綴られていて解読は不可能だった。ティーテーブルの上には飲みかけの紅茶とお茶菓子が残っている。と、そのすぐそばにある不思議な何かが私の目に留まった。
「飴ちゃん? それともガムかな?」
円形のティーテーブルの隅に底の深いジャム瓶のようなものがあり、その中に直径二センチほどの丸っこいものが入っていたのだ。
赤い玉と青い玉の二種類がある。その鮮やかな色合いは、この暗い空間で異様なまでの存在感を放っていた。
私の目はその赤と青に惹きつけられてしまった。夢の中の食べ物はいったいどんな味がするのだろう。いや、そもそもこれは食べ物なのだろうか。
コルク製の蓋を外して赤い玉を取り出してみる。表面はつるつるで、コンビニのレジ横によく置かれている安っぽいガチャガチャのガムのようだ。草のような青臭い香りもする。
食べたら大きくなったりして……なんてね。
そんな期待を胸に私はその赤い玉を口に放り込んだ。がりがりかみ砕いてから飲み込む。味はお世辞にもおいしいとは言えず、なんだか薬を食べているようだった。
ま、まずい。
青い方はどんな味なのかな。
そうしてもう一つの色に手を伸ばしかけた瞬間、その変化が起こった。
「えっ?」
ひゅん、とした寒気が全身を走ったかと思うと、視界に映る全てのものが膨張を始め、大きくなっていった。いや、正確には私が小さくなっているのだ。天井がどんどん遠くなっていく。
私はたまらず叫び声を上げた。
「きゃあああああ」
2
気がつくと私は床の上にいた。
「う、嘘でしょう」
信じられない気持ちで自分の体を見た。どこにも怪我はなく、服もそのままだ。
まさか本当に体の大きさを変える薬だったとは。興奮よりも驚きの方が勝っていた。
心臓がばくばくと鼓動を強めて、腋の下に汗が伝った。
十畳ほどしかなかった部屋は今や、野球のグラウンドを二つほど詰め込んだとしても余りが出るような、とてつもなく広い空間へと変貌していた。
腰の辺りまでしかなかったティーテーブルでさえ、今の私からしてみれば、四階建てのビルに相当する高さがあった。
まるで映画のセットの中にいるようだ。放心状態のまま、私はしばらくうろうろしてみた。
床に積もり固まった埃は、灰色の雪のようで楽しい。
蹴とばしてみようと足を出すと、蹴りあがるどころか逆に足の先に絡みついてしまい、取るのに苦労した。
ベッドの傍に白い紐のようなものが落ちているので拾い上げてみると、白い抜け毛だった。
白い毛……
白兎の家に迷い込んだアリスは、体が大きくなるクッキーを口にし、家を壊してしまうほど大きくなってしまった。
今の私はその逆。
「アリス」の世界をなぞらえているようで、やはり微妙に違っている。私を待つという白兎にもまだ出会えていない。――とそこへ、
突然、腹に響くような重たい音がどしん、どしんと聞こえてきた。
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