第4話  ありすはチェシャ猫と出会う

 1



 こもりぎみの低い声だ。


「誰? どこなの」


 私は問いかける。


「ここだよ、ここさぁ」


 声の主はよりいっそうこちらを煽るように語尾のトーンを上げた。


「どこにいるの」


 きょろきょろと周囲を見回してみるが、目に映るのは深みのある森の風景だけ。人影どころか、動物の気配すらない。

 ひっそりとした静寂の中に、私の声が雷鳴のように轟く。


「あなたはだれなの? どこにいるの?」


「こっちさ」


 不思議なことは、この低く、そしてくもぐった声が様々な方向から聞こえてくることだった。まるでその都度移動して、位置を変えているかのように。それに気づいた私は、さっと視線を下げ、地面をよく観察した。


 ……やっぱり


 私の半径二、三メートルの土の上には、子供が走り回ったような足跡が散見できた。


「ここだよーん」


 声のした方に視線を滑らせた。


 獲物を発見した山猫のように、息を殺す。


 私が思いついたこと、それはこの成立する考えだった。


 声はそう遠くから聞こえているわけではない。それなのに、声の主は姿どころかその気配すら見せない。そして、その声は毎回異なる方向から聞こえてくる。


 全神経を尖らせ、地面を注視した。やがて、柔らかく湿った土が、わずかにへこむのを見つけると、私は反射的にその方向へ飛び出した。

 前のめりになり、二メートルほど走ると、目には見えない何かにぶつかった。私はすかさずそれを抱え込む。


「いた! 捕まえた」


「もうばれちゃったか。降参だよ、降参。離してくれ」


「じゃあ姿を見せてくれる? あなた、があるんでしょ?」


 そういって私は胸の中でもがき続けているものを開放してやった。ややあって、目の前の風景がぼやけたかと思うと、そこにタキシードを着た猫が浮かび上がるようにして現れた。



 2



 その猫は普通の猫とほとんど変わらない大きさの小さな猫だった。品種はブリティッシュブルーだろう。灰色の毛並みに琥珀色の瞳のコントラストが美しい。


 異なるのは、どこで仕立てたのかもわからない立派なタキシードに身を包んでいることと、立派な革靴を履いた二本の足で立っていることだった。 


「こんにちは、可愛いお嬢さん。しかし、僕を捕まえるとはただ者ではないね。どうして僕が透明になれるって判ったんだい?」


 猫は心底不思議だというふうに首を傾げた。


「どうしてって、それは決まっているわ。声はいろんな方向から聞こえているのに、あなたはいっこうに姿を見せない。遠くにいるふうでもない。ということは、透明になって私のそばをぐるぐる動き回っていたってことでしょう」


「……飛躍が過ぎる論理だね。まあ、しかし間違ってはいない。そう、僕は透明になれるのさ」


 そう言って、猫は再び体を透明にしてみせた。彼の向こう側の景色が、ぼやけた形で視界に入った。この不思議な猫の登場に、私の興奮はぐんぐん上昇していった。


「ねぇねぇ猫ちゃん、あなたのお名前はなんていうの?」


「人に名前を聞くときは、自分から名乗るものだよ」


 猫に話しかけるという行為は珍しいことではない。


 現実世界において、動物に一方的に話しかけるのは動物好きなら誰もが一度は経験したことがあるだろう。しかし、私は今、猫と会話をしている。言葉を交わしている。

 この摩訶不思議な状況に私は順応していた。なぜならここは夢の中。世界なのだから。


「私の名前はありすよ。津田ありす」


「ありす、ねぇ……ふーむ……ありす?」


 いつのまにか、猫は私の背後に移動していたらしい。もこもことした頭を右足(右手?)で撫でながら、彼は私の横をすり抜けて一メートルほど歩くと、いやに神妙な顔つきで言った。


「おかしなことを訊くけれどね、ありす、というのは本名かい?」


「ええ、そうよ」


「本当に本当?」


「そうだって」


「ふーむ」


 猫の様子はどこか驚いているようにも見受けられた。私は一歩距離を詰める。


「ああ、自己紹介が遅れたね。レディ相手に礼儀を欠くことは紳士にあるまじき振る舞いだ。僕の名前はチェシャ。予言猫をしているんだ」


「予言猫?」


「今日もここから少し行ったところに住んでるお得意様の頼みで一つ予言をしてきたところさ。で、一仕事終えた帰りに花に話しかけている君を見つけてね。あまりにもおかしくってちょっとからかってみた、という次第なのさ」


「……その行いは紳士的と言えるのかしら」


「だって」とチェシャは右足を口元に当て、笑い声を押し殺すように言った。


「花に真剣に挨拶をするやつなんて、世界中どこを探してもいないよ。花が喋るなんて、そんなおかしなことがあるかい? くすくす、うぷぷぷぷ」


 チェシャがいよいよ肩を震わせて笑い出したので、私はかすかに込み上げてきた怒りをぐっと堪え、諭すように言った。


「でもあなたは猫なのに喋ってるじゃない」


「猫は喋るものだろう?」




「え?」




「へ?」




 その場に重苦しい沈黙が流れた。


 チェシャは笑うことを止め、「こいつ、頭は大丈夫か」というような面持ちで私をじっと観察し始めた。その琥珀の瞳には哀れみの色さえも窺えた。私は私で、この世界の常識について考えを巡らせていた。


 猫は喋ることができる。しかし花は喋ることはできない。


 いったい何が違うのか。


 一般的な見解でいえば、両者の違いとは動物か植物かの違いだ。


 現実世界でも、鳴き声を発して意思の疎通をはかる動物がいるという。そしてそういった意味でいうところの「声」を出す植物がいるということを、少なくとも私は聞いたことがない。


 そういうことなのだろうか。


 それとも意識、すなわち心があるかないかの違いなのかもしれない。客観的な判断でしかないが、私は動物に心と呼ぶべきものがあると思っている。


 ただ、このチェシャという猫はあくまで私の夢が作り出しただ。彼に「心」や「意識」があるなんて、それこそおかしな話ではないか。


 ここは夢なんだから、深いツッコミはやめよう。


 夢には夢のルールがある。そう結論づけて、私はそれ以上そのことについて考えるのを止めた。


「それにしても、君は不思議な人だねぇ」チェシャは前足の肉球を擦り合わせながら「僕の能力と悪戯を見破る鋭い観察眼があるのに、一般的な常識は持ち合わせていない。いやはや、君のような人を世間では天才というのかもしれないなぁ」


 皮肉るような調子である。


「そういえば、さっき言ってた予言っていうのは?」


「ああ、あれね」


 チェシャは懐から小さな棒のようなものを二本取り出すと、大きい方の先端を鼻に近づけて大きく息を吸った。そして残った一本を差し出しながら、


「ふぅ、今日のような日は、シノブ産のマタタビに限るな。君も一本どう?」


「いえ、私は遠慮しておくわ」


「ああそう。ふぃー。おっといけない。トんじまうところだった。話を続けようか。さっきも言ったけど、僕の職業は予言猫。いいことも悪いことも僕にかかればなんでもお見通しなのさ。自慢じゃあないが、僕の予言は外れたことがない。ありす、君も占ってあげよう」


「でも私、お金がないわ」


「そんなものいらんよ。君は面白いやつだから、今日だけ特別さ。からかってしまったお詫びだよ。さぁ、手を出して」


 手相占いだろうか。言われるままに右手を出すと、チェシャはマタタビを口に加え、両方の前足で私の手を触り始めた。肉球のぷにぷにとした感触がこそばゆい。


「ふーむ、君の誕生日は?」


「八月十九日よ」


「好きな食べ物は?」


「焼肉かしら」


「身長と体重は?」


 この質問はセクハラではないか?


「その情報いる?」


「何言ってるんだ、一番重要な項目じゃないか」


「……一六〇センチの、五十三キロよ」


「なるほどなるほど。これはまた大変な」


「それ、占いのこと言ってるのよね?」


「それはそうだろう」


 そこで質問を打ち切ると、チェシャは唸るような声を上げた。その声には聞くものを不安にさせるような重たい響きが含まれていて、私は自分でも気づかぬうちに緊張していた。


「ありす。よく聞くんだ。いいね?」


 チェシャは名残惜しそうに私の手を放すと、教師が聞き分けのない生徒に言い聞かせるような温和な口調で言った。


「とても不吉な結果が出たよ。ありす、君の運命の先には大勢の人の死が待っている」


「えっと、それは……どういう――」


 突然の宣告に私は困惑を隠せなかった。そんな私を無視するようにチェシャはまくしたてる。


「ああ、きっとあれはそういうことだったんだろうな。いいかい、よく聞くんだ。この予言を避けることはほぼ不可能だ。これから先、


「はぁ?」


 いきなりなにを言い出すんだこの猫は。


「ちょっと、ちょっとなにそれ、どういう――」


「いいから聞くんだ。会費はできないが、被害を軽減することはできるかもしれない。ここから少し行ったところにさっき僕が予言をしに行った客の家がある。その客に出た予言はなんと『待ち人の名はありす』というものだった」


「私?」


「だから僕はさっき君の名前を聞いた時、驚いたんだ。でもね、ありす。その客に出た予言は吉報の類のものだったから、もしかすると彼と会うことで、君はこの負の予言を少しでも回避できるかもしれない」


「ちょっと待ってよ。わたしのせいで人が死ぬって、そんなこといきなり言われても……」


「すまない、ありす。僕はもう行くよ。薄情だと思わないでくれ。僕の予言はんだ。運命には逆らえない。君といると僕までその『死』の運命に巻き込まれるかもしれないんだ。僕だって命は惜しい。じゃ、そういうことで、バァイ」


 それだけ言うと、猫は透明になり姿を消してしまった。


「ちょっと待ってったら」


 一人取り残された私は、猫の後を追おうとするも何かに足を取られ、その場で転んでしまった。見ると、マタタビの棒きれが足元に転がっていた。体がじんじんと痛む。夢の中でも痛覚は働くようだ。


「夜の方角を目指せ。そこに君を待っている者がいる」


 チェシャの声が遠くから聞こえてきた。


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