第31話 『トリガー』――『引き金』『きっかけ』

 空のペットボトルやお菓子の袋、カップ麺に弁当の空容器――もはや、ゴミ置き場と化している勉強机。

 俺はその椅子に座り、本棚に並ぶ漫画や雑誌の背表紙を眺めていた。


「……って、全部エロ本じゃねぇか!」


「ただのエロ本じゃないぞ? ムク。長男から代々受け継がれてきた、由緒あるエロ本だ。

 この春、三男が家を出て、ついに末っ子のオレが最終継承した!」


 衣類やゲーム機、漫画が散乱したベッド。そこに座り自慢げに話すのは、この汚部屋の主、尾瀬である。 


「椋輪家に何冊か、嫁がせようか?」


 久しぶりに見ても、いけ好かないにやけ面。


「いらねーよ! 本なんて、見つかるリスク高いだろ?

 てか、なんで堂々と本棚に並んでんだよ!?」


「うち、父子家庭だからさ〜、隠す必要ないんだわ。

 あ、ムクはネット派? てか、小石ちゃんの妄想で事足り――」


「で! 本題だけど、実は――」


 俺は尾瀬の発言を強制終了させ、ここに来た目的を話し始めた。

 



「軽いノリで入力しただけで、送信するつもりなんてなかったんだ! なのに、改行しようとしたら送信されて……」


 終始うつむき黙って聞いていた尾瀬が、


「あ、あぁっ……エ、エンター送信設定だった、わけ、ね……?」

 肩と声を震わせながら喋りだしたかと思うと、


「ぶはっ! ムク、面白すぎ!!!」

 せきを切ったように抱腹絶倒。


 俺は爪が食い込むほどこぶしを握り、胸糞悪さと戦いながら話を続ける。


「おまえ、知ってるだろ? 俺が小石の絵を『ものすごく下手!!!』って言ったの。

 俺、あのときから、あいつに嘘をつきたくない、誠実でいたいって思ってるんだ。だから嘘を本当にした」


「ぶははっ、何それ!? 小出ルートでオレとRINE繋げて、マジで会いに来るとか必死すぎでしょ!?」


 笑い涙でにじむ目を、俺は真剣に見つめる。


「『会いたい』RINEしたとき、小石は八尾と一緒にいたんだ。小石はともかく、八尾とおまえは喋る可能性がある。だから万が一、八尾がこの件でおまえに何か聞いてきたときは、頼む、うまく対応してくれ!」


「いいけど……あの子ら、休み中に会うほど仲いいんだ?」


「今日は東京までコミケに行ってる。漫研の、女子の先輩も一緒だって言ってた」


「へぇ〜……八尾ちゃんも、地を出せる友達がおなクラにできてよかったよね。

 ずっと我慢してきたみたいだし……」


「我慢……?」


「ムクも『ものすごく下手!!!』の日から、変わったよね?」


「は?」


「生き生きしてる。前は、死んだ魚みたいな目だったから。

 ……あ、そうだ! ムクが恥ずかしい話をしてくれたから、オレもしよっか!」


「……ノロケ話なら、遠慮しておく」


 壁に貼られた写真については、あえて触れていなかった。放課後デートであろう制服姿のもの、遊園地、水族館、海――どれも妬ましいほどに、尾瀬とその彼女が楽しそうに笑っている。

 そして彼女は意外にも、清楚系な雰囲気だ。中身は知らないが。


「実はさ〜……オレ今、彼女と接触禁止なんだ。

 ほら、オレ留年してるじゃん? そしたら彼女、引いちゃって。

 RINEも電話も、進級するまで全部禁止って言われちゃった」


 哀れさとうれしさが入り混じる、この気持ちはなんだ?


「だから、ちゃんと進級して彼女との恋愛を再開させるのが、今のオレの目標!」

 尾瀬が腰に手を当て、胸を張る。


「大丈夫かよ? おまえの通知表、簿記と数学が限りなく一に近い二だったぞ?」


「オレ、計画的にテスト勉強とか無理なんだわ。いつも明日、明日ってなって、結果一夜漬け……も、うまくいかない。どうしたらいい?」


 ――『ほらほら、私、優等生じゃないでしょ……?』


 目の前の情けない困り顔に、小石の可愛らしい困り顔が重なる。


(そういや、小石も一夜漬けタイプだったな……)


「てか、勉強以前に、まずこの部屋だろ? ……っ!?」


 そのとき、俺の焦点フォーカスが尾瀬の足元に定まった。


 がいる。

 

 黒光りするボディに、とげとげの脚。頭にはちょろちょろと動く長めの触覚――


「ちょ、尾瀬! 足元っ!」


「ああ、ゴキじゃん」


「平然としてんじゃねぇ! 今すぐゴミ袋持ってこい、掃除するぞ!!」


***


 日没間近の空の下、尾瀬宅最寄りの駅へ向かう。


『君たちは〝トリガー〟って英単語、知ってますか?

 〝引き金〟とか〝きっかけ〟という意味ですが、IT用語としては――』


 道すがら思い出していたのは、いつかの授業での、こし先生の言葉。


『トリガー』――『引き金』『きっかけ』。


 通りかかった神社から聞こえるヒグラシの甲高い声に、自身の深いため息が混じる。 


(まさか『小石会いたい事件』が、汚部屋掃除のトリガーになるとはな……)


 心のぼやきとともに、あの後幾匹も現れた、の姿がフラッシュバックされる。中には飛んだのも……ダメだ! 身の毛がよだつ。

 

 そして、このときは思いもしなかった。


 やがて『小石と尾瀬一夜漬けのヤツら』が、あるトリガーになろうとは。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る