06 課題図書
パウから渡されたその本は、今ワタルの懐にある。
一人でいる時あるいは図書館内でのみ読むように、と念を押され、図書館の入口のスペアキーをもらった。
明日以降は、昼からは一人でここへ来て、好きな本を読むといい、とパウは言った。
いつの間にかパンとチーズ、それにミルクを平らげていた。完食しても満腹感が得られるような量ではないが、子供の頃から食糧難に慣れているため、平気だった。ワタルと父が他の煉瓦職人の家族と寝食を共にする大部屋は、既に安らかな寝息や寝言、いびきに満たされている。
食事を終えたワタルは蝋燭の炎を吹き消すと、そっと部屋を出た。窓辺にいけば、月明かりで本が読めるかもしれない。そう思った。窓のあるところまでは少々歩かなければならないが、ワタルは暗闇の中でも自由に歩くことができた。道を既に覚えている場所ならば、目を瞑っていてもたどり着ける。塔内は整理整頓が徹底されており、所定の場所以外に荷物を積み上げるような輩もいないため、作業場や居住用として使われていない区域は閑散としている。天井が高い石造りの廊下を歩いているのはワタル一人。昼間は汗ばむほどの気温になるが、夜気は冷たい。
コミューンは眠っている。
蝋燭やランタンの油は貴重なため、基本彼らは日の入りに合わせて就寝し、日の出と共に目覚める。窓から離れたところに構えられた居住区域もあるため、時刻を知らせるドラの音が朝昼晩と三度鳴り響くことになっている。彼らの殆どは、司書などという仕事が存在することすら知らずに、夢を見ている。
煉瓦職人になれないと思った時の落胆が胸の内から消えてなくなっていることにワタルは罪悪感を覚えた。
ふと、煉瓦の材料も本なのだろうか、とワタルは思った。父や他の職人たちがこねているあれをどうやったら本から作り出せるのか。それはパンを作り出す工程と同じか、全く異なるのか。それを知るには、文字を解読しなければならない。パウに尋ねても、きっと教えてくれないだろうから。
*
翌日、朝のレクチャーの間、ワタルはあくびや居眠りを繰り返し、その日の講師であった使徒ルキから大目玉をくらった。
「大方月明かりで本を読んでいるうちに時間を忘れたのだろうが、ヒトは睡眠をとらないと集中力を欠きミスをおかしやすくなる。使徒の判断ミスはコミューンの命運を左右しかねない。それが司書であるなら、尚更だ。どうせパウ殿から煙に巻かれるような話を聞かされ舞い上がっているのであろうが、明日からもそのような夢うつつの状態で授業に参加するのであれば厳しく対処するからそう思え」
使徒ルキはワタルにそう言い渡した後、口の端を上げてこう言った。
「もっとも、文字の魅力にとり憑かれた時には、あのゲンヤでさえもお前と同じ症状を示したものであるから、未熟なワタルが少々おかしくなるのも致し方あるまい」
ゲンヤは皆の注目を浴びても表情を変えなかった。
皆は使徒ルキの言葉に思い当たるところがあったので、ああ、と頷いた。確かに一時期ゲンヤがこのクラス内において心ここにあらずといった放心状態に陥っていることがあったが、それは少なくとも一年以上前のことだ。
ゲンヤはそんな前からあの書物に触れることを許されたのだ、とワタルは少し胸が苦しくなるのを感じた。幼い頃から神童と名高く二年前には選ばれし者に指名されていたのだから、至極当然のことなのに、このおかしな感覚は何か、とワタルは不思議に思った。
朝のレクチャーが終わり、足早に図書館に向かうワタルを追いかけて来る足音があった。振り返ってみると、それはユッコであった。彼は周囲に誰もいないことを確認してから、言った。
「図書館に行くんだろ。俺も連れて行ってくれよ」
「駄目だよ。連れて行けない」
「なんでだ、狡いじゃないか。その首から下げているのは図書館の入口の鍵だろう。ずっと懐に手を入れているのは、そこに大事な物があるからだろう」
自分より体の大きなユッコに鍵や本を奪われるのではないかと思い、ワタルはローブの上から心臓の辺りをきつく掴んだ。
「不公平だと思わないか」
ユッコはワタルの狼狽を見て、一歩下がったものの、諦める様子はない。
「一部の者しか読むことが許されないなんて。使徒になっても、図書館への出入りは厳しく規制される。長老や現在の司書達は、きっと自分達だけ賢くなってコミューンを牛耳りたいんだ。誰も自分達に刃向かえないように、知識を独占しているんだ」
「それでは、司書に選ばれるような能力を長老やパウの前で示せばよいだろう」
いつの間にかゲンヤがユッコの後ろに立っていた。
「君はワタルが司書候補に選ばれたことが不服なのか。自分の方が優れていると本気で思っているのなら、私がパウに口をきいてもいいが。ところで」
ゲンヤはユッコの回答を待たずにワタルの方を向いた。
「本の解読はできたのかい?」
何故知っているのかと驚きながらワタルは答える。
「ああ、昨日一晩かかってしまったけどね」
「全部か」とゲンヤは少し驚いた顔をしたが、満面の笑みで、「私は二晩必要だった。やはり、パズルで君を負かすことは難しそうだ」と笑いながら、ユッコには目もくれずに去って行った。
ユッコは拳を固く握りしめると、口の中で何か呟きながら去って行った。ゲンヤに認められた嬉しさに舞い上がっていたワタルは、この時、ユッコの気持ちをもう少し慮るべきであったと、後悔することになる。
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