04 全ての本は水に浮くが、全ての本が食べられるわけではない(1)

 その日夜遅くに父親の元へ戻ったワタルは、パウから聞いた話が脳内をぐるぐる巡り、夢見心地であった。

 食事の時間に間に合わなかったため、父がパンの欠片とチーズを取り分けておいてくれた。固いパンを薄いミルクにひたして口に運んだが味はまったくわからなかった。


「君達が毎日口にする食料やミルクだがね」とパウは六角形の部屋の中央にあるテーブルに手をついて言った。

「パンは小麦から作られ、ミルクは牛から採取するものということは、子供の時分に教わったと思う。では、小麦や牛というのは一体どこに存在しているのかな」

「それは」とワタル。


 自分が住んでいるのは煉瓦職人の居住区であるから、当然小麦を栽培する人々の居住区なるものがこの塔内のどこかにあるはずで、植物には日光と水が欠かせないはずだから、小麦畑はきっと、どこかの階の窓辺の区域にあるのに違いない。牛もそうだ。元気な牛を育てるためには、日当たりのいい場所と、牛の餌になる草が必要だろうから、と彼は自分の考えを述べた。


「うーん、だけどね」と残念そうな顔をしたパウが言う。

「小麦の種なんて、とうの昔に食べ尽くされてしまったんだよ。牛なんてものはそもそも、第二の洪水が起きた際には、つがいの動物を塔に避難させる暇もなかったんだからね。偶然都合よく牛が塔の中にいた、なんて信じられるかね。第二の洪水には、誰一人備えていなかったからさ。神は余程お怒りだったんだろうね」

「しかしそれでは」と開いた口が塞がらなくなったワタルは恐る恐る問う。

「私達が毎日口にしているパンやミルクは――」

「正真正銘、パンやミルクだよ。そういう名前がついているし、私は小麦からこしらえたパンを食べたことがある。見た目も味も同じ。我々が今口にするパンは少しパサついているけど、それは、材料が本だから仕方がないんだ。ミルクだって同じ。ミルクが水っぽいのは、水で薄めているせいだがね。そうしないと、全員にいきわたらないから」


 本。と呟いてワタルは周囲を見回した。


 壁を囲む本棚には大きさ・厚さ・材質も様々な書物がみっしり詰まっている。パウが片手をのせている、部屋の中央に設えられたテーブルの上も、今にも崩れ落ちそうなほど本が積み上げられているが、どう見ても食欲をそそられるものではないし、喉の渇きを潤してくれそうにもない。


「言うまでもないが、そのまま齧っても駄目だよ。全ての本は漏れなく水に浮くが、全ての本が食べられるわけではない。今日のところは、とりあえず、これさえ覚えればいいんだが、君は一度耳にしたことも忘れないんだったね」

 頷くワタルに、パウはテーブルの上の一冊の大きな本――長身のパウが両手で抱えなければならないぐらいの――を指でつつき

「この本は『パンの焼き方百選』というタイトルで、その名の通り、パンの焼き方を百種――正確には、天日に干して作る方法も含むから焼き方は九十九種しかないんだが――を図解している本だよ」と表紙を開いて見せた。

「窯の作り方から教えてくれるから実に親切なんだがね、この本は、パンにはならない。パンの材料にするのに適した本は、だいたいここから十二レベル上の階で見つかる。食料問題は深刻だから、どのような条件の本がパンになるのかを専門に研究している司書がいる。そのうち会わせてあげよう。司書は沢山いるから、全員と顔を合わせるにはかなりの時間を要するがね」

「司書はそんなに大勢いるのですか」と問うワタルに、

「当たり前だよ」とパウは頷く。


「司書はね、とても十人二十人では務まらない。私はこの雑多な宇宙――この場合はこの呼び方が適している気がするね――のまとめ役、管理責任者で、役目柄、全ての事柄に精通しているべきなんだが、流石にそこまでは、ね。よって、その筋を専門にする司書というのが分野ごとに存在する。君がどういう司書になるのかは今後の訓練次第だが、物事を瞬時に記憶して忘れないという恵まれた能力からすると、私と同じ管理役に向いているのではないかな」


「一体、本からどうやってパンを作るのでしょうか」


「それについて克明に記された本があったんだが、生憎うっかり者の司書がその本をパンにして食べてしまった。だから口頭で伝えていくしかない。だが、それ以外のことは全て書物に書いてあるから、好きなものを読んで学ぶといい」

「まだ文字の読み方を教えて頂いていませんが」

「そうだった、そうだった。でも、文字というのは何種類もあるものでね。ほら、歴史の時間に習ったろう。この塔をこしらえた代償として、人々はバラバラの言葉を話すようになり、意思の疎通ができなくなった。その結果、塔の建設は頓挫した。しかしね」とパウはにやりと笑う。


 そこから先は、パウの独壇場で、ワタルはただ口を半開きにしたまま耳を傾けるしかなかった。

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