⑫
そのころ闇の大神官ディフィカの息子、クロックはカン軍とは別行動をしていた。もし彼がしようとしていることを、正義感の強いフィーン人が知ったら、顔を赤くして憤慨していただろう。
彼は母ディフィカの命で、大胆にもアーティーズ内部に忍び込み、敵の要人の誰かを人質にしようとしていたのだ。
クロックは堂々と街道を歩いていた。
アーティーズは始めて見た街だが、木造の建物が立ち並ぶ、上品な街だった。敷き詰められたいろいろな色の石のタイルが、似たような家の並ぶ外観に花を添えている。
樹木も所々に計算し配置しているようで、強い日差しに耐えかねても、すぐに木陰に入ることができるだろう。
クロックの歩いているのは街の中でも指折りの大通りだ。道幅は人が十人手を広げて並べるほどで、しかし今この通りには、人の気配はまるでなかった。ただ、大通りの隅から、人が二人通れるくらいの間隔を開けたところに、ぽつぽつと人力車が置き去られている。商人がそれで移動式の店を開いていたのが、三の郭へと逃げ出す際に、そこにそのまま放置されたのだろう。
クロックはその内の一台に好物の果物が並ぶ車を見つけ、歩み寄って一つ拝借した。
弾力のある黄緑色の実だ。それを一口かじると、クロックの口に甘酸っぱさが広がった。
「あまり甘くない。外れだな」
気障な口調でクロックはそうぼやいたが、また一口それを口に運んだ。そしてまた一口と。
癖になるような味だった。
青の暗殺者ヒルドウは、軍に混ざるような性質の者ではなかった。アーティーズには戻ったが、ビースの元に行けば軍に入ることを頼まれるだろうと思い、フォルキスギルドの長の元へ向かった。
長の名はディーキス。ヘルキスの父でもあり、この国で最も位の高い貴族、公爵でもある。
ディーキスは変わり者で、大抵平時は三の郭にあるフォルキスギルドの本部にいた。しかしギルド員が出払った今は、一の郭にある自分の屋敷でくつろいでいた。
「ほう、戻ったかヒルドウ」
ディーキスは長い白髭を生やす、頭の禿げ上がった老人だった。穏やかな口調で、音もなく現れたヒルドウに話しかける。
「どうだったか? ビースに特命を与えられていたのだろう?」
「ええ、話すわけにはいかないが、まずまずの成果を上げました」
ヒルドウは丁寧な口調とぞんざいな口調が混ざる、不思議な話し方でそんな答えをした。依頼主の仕事内容を語らせないように教育したのは、ディーキスが長を勤めるフォルキスギルドだ。
「そうかそうか。今度こそ自由が認められるといい」
ディーキスの言葉に、ヒルドウは瞳を輝かせた。そうすると彼は暗い暗殺業などをしていない、普通の青年に見えた。
「時にヒルドウは、ビースという男をどう見る?」
「ビース? とても優秀な政治家に見えますが、それがどうした?」
「確かに奴は心の正しい、優秀な男だろう。だがな、ヒルドウ。どんな人間性であったとしても、政治家だけは信じ切る事なかれよ。ビースに限ってとは思うが、まあ、自分の身は自分で守れと言うことだ」
ヒルドウはいまいちディーキスの言葉が理解できなかったが、しかしそれを聞き流しはせず、黙って頷いた。その仕草は、彼の兄シャルグによく似ていた。
そこでヒルドウは腰に差していた短めの剣を抜いた。ディーキスは何事かと問いかける目線を送ったが、すぐにその訳を知る。
ヒルドウの後ろに、拳から三本の刃を伸ばす黒髪の男が立っていたのだ。
「俺の予感はよく当たるんだ。こっちに来てみて正解だったな」
後ろを振り向きもせず、ヒルドウは言った。後ろを取ろうとしていたクロックは、それに平然と言う。
「君は、いくら何でも元気過ぎはしないか? 包帯の一つも巻いてないな」
かちゃかちゃとクロックの拳の動きに合わせ、三本の刃が音を立てた。
「よもやかなわぬ相手ではないだろうな?」
明らかに自分を狙ってきたと思われる刺客を前に、ディーキスは落ち着いた口調で言う。
「一度勝ったことのある相手です。まあ、油断はできないだろうが」
「いや、油断してくれてていい。俺は後ろを取れなかった時点で、どうここから逃げようか考えているんだ。まさか見逃してくれはしないだろうな?」
そこでヒルドウは初めて後ろを振り返り、クロックのことを見た。冗談めかして言ってはいたが、クロックの目には確実に戦意がなかった。
「別にいいだろう。私はお前を殺せと命令を受けてはいないので」
ヒルドウの言葉に、クロックは意外そうに目を丸くした。
「本当にいいのか? 一応敵だぞ?」
ヒルドウの言に目を丸くしたのはディーキスも一緒だった。しかしディーキスは、決してヒルドウに「殺せ」とは命じなかった。
「気が変わらぬ内に早く行け。あと、この後ビースの元に向かうのもなしにして頂きたい」
クロックはそれでもなお用心していたが、ヒルドウの言葉を信じ、その場を去った。
クロックが去ると、静かな目でディーキスはヒルドウを見た。
「この間は運良く圧勝したが、あなたを守りながら、今回も勝てるとは限りませんでしたので」
ヒルドウはその目にそう独白した。
「それほどの者だったのか?」
「ああ、俺も本当はぎりぎりだった」
ヒルドウの脅しは効いていた。クロックは見逃されたことを、本当に運がいいと思っていた。そしてヒルドウの指示通り、ビースの元に向かうことも諦めた。
このアーティーズで人質に使える者は多くない。今度の戦争で、貴族のほとんどは自分の領地に戻っていたし、ディーキスの他にもう一人いる貴族は、それほど身分が高くない。そしてその貴族自身アレーで、アーティス軍に加わっているという。
ビースは国の王に次ぐ存在で、爵位が与えられてはいないが、王位を継ぐことすらできる血筋だ。国の首相でもあり、キーネだ。人質には適しているが、アーティス城にはまだアレーが残っていると思われた。それにヒルドウに先回りをされないとも限らない。
並のアレーならばクロックには歯牙にもかけない自信があったが、ヒルドウは正直まずい。もう素直に、母に報告するしかないだろう。
母は命をかけてほしいとまでは思っていない。間違えた判断ではないはずだ。
クロックは母のかんむりを恐れながら、そう自分に言い聞かせる。
帰り道、四の郭の大通りで、再びクロックは果物売りの荷車から、黄緑色の実を拝借した。
「ああ、もっと外れだ」
クロックは誰ともなくそうつぶやくと、しかしそれを嬉しそうに平らげた。
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