スニアラビスの砦の前で、カン・ヨーテス連合軍は意気消沈していた。新しく将軍の座に付いたジリスウは、あまり優秀ではなかった。三度に渡る砦への総攻撃の結果、自軍の被害は甚大で、敵軍にはほとんど被害が出なかった。あまり頑丈ではないスニアラビスの砦の扉も、傾く気配すら見せていない。

 今や連合軍は五百名ほどしか残ってなく、対してアーティス軍は、まだ二百は兵を残している。明らかに数字上は有利だが、もとは二千と三百の戦いだったのだ。兵士たちの士気の落ちようは尋常ではない。


 三度目の無謀な突撃の後、青の暗殺者ヒルドウはキラーズのテントに戻った。中では中年の女性アレーがキラーズに付き添っていた。


「お帰りなさいませ、ヒルドウ」

「ああ、メシャリナ。キラーズの容態はどうですか?」


 中年の女性アレーは、ヒルドウの問いに静かに首を振る。それを見て、ヒルドウは心の中でほくそ笑んだ。


 彼がキラーズに与えた毒は、ちゃんとした治療をしなければ決して目覚めることなく、緩やかに死へ向かっていく性質のものだ。最初の山場さえ乗り切ってしまえば、後はもう苦しむこともない。キラーズにはこのまま眠り続けてもらう。彼を生かすも殺すも、青の暗殺者の心次第だった。

 優秀な指揮官を欠いて、無能な指揮官を頭に置いた軍などは、どれほど兵数差があっても恐るるに足らない。このまま順調にいけば、兵数差は瞬く間になくなるだろう。そうすれば、スニアラビスの戦闘を勝利に導いたとして、ついに自分にも恩赦が与えられる。

 つまり、この暗い暗殺業から足を洗って、普通の生活が送れるのだ。先に恩赦を与えられた兄にも、自由に会うことができるだろう。


 ヒルドウは眠り続ける優秀な指揮官の元へ近付いて、彼の容態を見た。キラーズは、ただ静かに眠っているように見えた。厳めしい顔も、眠っているとそれほど威厳を保てないようだ。どこからどう見ても、キラーズは安らかなように思えた。


 数々の死を見送ってきた彼だから、医療の技術は他とは一線を画す。そのヒルドウはキラーズを近くで見た途端、違和感を感じた。

 まずいと思ったときには数瞬遅かった。にわかに目を開けたキラーズは、ヒルドウの腕を掴んだ。


「抜かったな、シャルグ。いや、それとも青の暗殺者と呼ぶべきか?」


 キラーズが問う。その言葉を合図にして、テントの外から武装した兵士が三人入ってくる。


「ちっ」


 ヒルドウは舌打ちをする。明らかに浮かれすぎていた。メシャリナは今、自分のことをヒルドウと呼んだ。偽名ではなく、語っていないはずの本名をだ。そんな初歩的なことを見落とすなど、浮かれすぎていたに他ならない。


「なぜ目を覚ました?」


 ヒルドウは問う。彼が使った毒が何か分からないと、解毒などはできるはずがない。


「我がヨードラス領に伝わる秘薬だ。そしてお前は私の生命力を軽んじすぎた」


 ヒルドウはキラーズの言葉に目を丸くした。


「まさか、気付け薬ですか。愚かな、死に急いだか。あなたの命は助けようと思っていたが……」


 青髪の青年は、目に憐れみとも蔑みとも取れる光を浮かべていた。


「ここへ来て命乞いか? メシャリナには感謝をしている。もし私が生き残ったとて、軍が残っておらんのでは意味もないだろう。例え私の命が燃え尽きるとも、この戦争に負けは許されない」

「命乞い? このような弱々しい力で何ができるというんだ!」


 ヒルドウはそう言うと、キラーズの腹に一度拳を打ち付け、力の抜けた手をあっという間に振りほどいた。そしてその間に、ほとんど見てもいないはずの入り口に立っていた兵士三人と、メシャリナに向かって小さな刃を放った。剣先を折ったような三角の刃は、一直線に四人の喉元に向かっていった。後から入ってきた三人は、見事に喉元を貫かれ、息絶えた。

 ヒルドウは迷わず天幕の入り口に向かって駆けだした。そこに、唯一ヒルドウの投擲をかわしたメシャリナが立ちふさがる。


「なるほど、さすがにキラーズの傍仕えの方ですね。だけど俺には勝てない」

「ええ、あなたが噂通りの強者でしたら、確かにそうでしょう。しかし私にも、時間を稼ぐことくらいはできましょう。そうすれば五百ある軍があなたを取り囲む事になります」


 落ち着いた口調で言うメシャリナに、ヒルドウは不気味に笑んだ。


「確かに時間は稼げるかもしれないが、あなたが死ねば、誰がキラーズの延命を請け負います? ここの衛生兵はとんでもない木偶だらけだ。見ろ、そしてキラーズは起き上がることすら困難ときている。メシャリナの死は、そのままキラーズの死に繋がるのだ」


 メシャリナは言われ、苦しそうにうめき声を上げるキラーズを見た。少し躊躇った後、メシャリナはため息をつき道をあける。ヒルドウは堂々と天幕の外に出た。


 天幕の外では、まさにヒルドウを取り囲もうと大群が集まろうとしているときだった。かなり数を減らしたとは言え、まだ結構な数が残っている。しかしまだヒルドウには逃げきれる自信があった。

 ヒルドウの体には、先ほどのような投擲が何百も忍ばせてある。そのどれも、刃先には猛毒が仕込んであって、かすりさえすれば相手の命を奪うものだ。ヒルドウは幼い頃より血反吐を吐くような訓練を受けて来た。鎧を着ている兵でも、鎧の隙間を狙って放つことなどわけはない。囲まれるよりも前にここを離れれば、後は容易に逃げおおせるはずだ。

 ヒルドウにとって唯一の無念は、仕事を最後まで成し遂げられなかったことだ。しかし、充分な成果は上げた。生き延びさえすれば、念願の自由もきっと夢ではない。


 ヒルドウは瞬時に軍の一番手薄な部分を探し出した。一瞬の迷いもなく、キラーズの天幕を右手に、南西に走り始める。


「止まれ! 勝ち目はない」


 すぐに一人の女性がヒルドウの前に立ちふさがる。しかしヒルドウは止まらない。走りながら、懐から投擲を放つ。狙いは喉だ。それは寸分の狂いなく、女の喉に突き刺さる。

 その後ろから、今度は二人が斬りかかってくる。ヒルドウは内の一人が持つ、短刀よりは少し長めの細い剣を目に捉えた。襲い来る二つの刃を、ヒルドウはわけもなく避けて、すれ違いざま二人の足に投擲を放った。それも一切走る速度を緩めずにだ。二人は痛みをこらえつつ青の暗殺者へと向き直る。しかしヒルドウの動きは二人の予想を遥かに超えていた。二人が振り向くと同時に、細身の剣を持つ兵の手に、ヒルドウの手刀が打ちつけられた。


「くっ」


 兵はたまらず剣を取り落とした。その剣が地に落ちるよりも速く、ヒルドウはそれを拾い上げて、瞬く間にその場から離れ駆けだした。二人の兵はそれを追おうとするが、毒に足を取られたようで、がくんとひざを曲げて崩れた。

 ヒルドウが奪い取った剣は、ヒルドウが最も得意なリーチの剣だった。シャルグやヒルドウの剣は、彼らがいたフォルキスギルドの暗殺部隊では標準的な物だったのだ。そのため今回の任務では、素性を少しでも悟らせないため置いてきた。しかしこれさえ持っていれば、ヒルドウの戦闘力は格段に上がる。水を得た魚とばかりに、ヒルドウは集まりつつある集団に向かって全速力で駆ける。


 前方の集団は少し厄介そうだった。二十人はいる。できれば避けて進みたかったが、横長に陣形を取られているので脇を抜けるのは非常に厳しい。数に限りのある投擲は温存したかったが、あまり手惑えば、後ろから大軍に囲まれる。ヒルドウは逡巡した後、右手で十枚の投擲を扇状に放った。結果、六人ほどが避けきれずに傷を負う。こうなれば毒が回るのも時間の問題だった。

 ヒルドウは残りの十数名と対峙するためいったん足を止めた。そこにすかさず、炎の柱が立ち上がる。ヒルドウは冷静に三歩分ほど左へ動いて、その炎上をかわした。その後も、次々にいろいろな種類の魔法がヒルドウを襲うが、そのどれも何事もないかのように彼は避ける。


 見事な動きだ。まるで無駄がない。スピードもシャルグよりも一回り速い。

 視力強化を知らないヒルドウが、こんな動きをできるのは、彼の持つ類い希なる勘のためだ。彼は圧倒的に人より視野が広い。そして広い視野で捉えた映像から、状況を判断するのがうまい。そしてそこから瞬時に次の状況を読む。彼が絶対的な体術を持つアラレルを苦戦させたというのも頷ける。


 もちろん彼は、ただ全ての攻撃を避けているだけではない。避けながら、投擲を一つ一つ正確に投げて、一人、また一人と敵を減らしていた。

 そして横長の陣形にわずかな隙が生まれた。横長なために厚みのない陣形だったのだ。ヒルドウは陣形にできたわずかな穴をめがけて全速力で走り始めた。駆け抜けすれ違う瞬間、ヒルドウは左手の剣と投擲で、三人の命を奪った。


 ヒルドウは敵の集団を通り過ぎると、あっという間に引き離す。一人が追撃に炎上を放つも、まるで後ろに目がついているかのように、少し右に進路を変えてそれをかわした。


 実際にヒルドウには、三百六十度全ての状況が把握できていた。そしてその全ての、一瞬先までも。

 全てが順調だった。ヒルドウはこの危機的状況で、笑みを浮かべすらした。


「待て、シャルグ! いや、青いゴミが!」


 もう少しでヒルドウが軍から抜け出そうというときに、目の前にジリスウが立ちふさがった。彼は目を血走らせ、怒りで顔が赤らんでいた。


「おや、これはこれは、カン・ヨーテス連合軍の優秀なる指揮官ジリスウ。死にたくなければ道を開けていただきたい。あなたには感謝こそすれ、一切恨みはないのですから」


 ヒルドウは目の前に広がる自由に、興奮気味な声でそう言った。


「感謝だとっ? ふん、その首を跳ねられてもまだそう言えるかどうか試してくれよう」


 ジリスウは言いながら腰に回した幅広の剣を抜いた。その動作は隙だらけだったが、ヒルドウはあえて何もしないでそれを見送った。愚かな彼との会話を、まだ楽しみたかったのだ。


「例え俺の首を跳ねたとて、あなたがアーティスにもたらした多大な利益を忘れるはずはありません。なんで、きっと感謝の気持ちは忘れられ」「このゴミがっ!」


 ヒルドウの言葉を遮り、激昂したジリスウが間合いを詰めてきた。確かに、実力を買われて部隊長になったと言うだけはあって、かなりの速度だ。ヒルドウはこの愚か者に心から敬意を示し、あえて突撃を正面から受けた。


 幅広の剣と細身の剣が、激しい音を立ててぶつかった。

 ジリスウは細身の剣がびくともしないことに目をむいた。ヒルドウは余裕の笑みを浮かべている。ジリスウはすぐさま力押しの方針を変えて、手数で勝負し始めた。ジリスウの戦闘は、剣技に足技を織り交ぜた特殊なスタイルだ。剣と両足で、意外なほど華麗に攻撃を繰り出してくる。しかしヒルドウには、どの動きもひどく緩慢に思えた。それに何より、ジリスウの動きは少し綺麗すぎた。全ての動きに意味があり、流れがあり、一つ前の攻撃から、三つ次の攻撃が容易に想像できた。


 実戦経験などほとんどないのだろう。


 ヒルドウは心の中で呟いた。


「もういい、飽きましたよ」


 ジリスウはきっと、反撃をしてこないヒルドウを、自分が押しているように見ていただろう。しかしそれは言わずもがな、間違いだ。ヒルドウはジリスウの胸に、まるでこともなげに剣を突き立てた。

 驚愕の表情を浮かべたジリスウは、最期の言葉もなく、その場で息絶えた。


 ヒルドウはその剣をそのままに、ジリスウには見向きもしないでまた南西へと駆け出し始めた。

 もうこの群れから抜け出すのも時間の問題だ。あと対処するべきは、ここを抜けたときに襲い来るはずの、大型の魔法だけだ。けれどそれにも、自分を止めることはできない。ヒルドウはそう確信していた。

 ヒルドウは速度を落とさず、それから数人を投擲で倒し、ついには軍の輪を抜けた。そしてそれと同時にヒルドウは、懐の投擲のほとんどを、後ろに向かって連射した。

 ヒルドウを追ってきていた数十人が、その投擲にやられた。そしてかわせた者も、回避に気を取られて、魔法を放つ機を逸した。そのままヒルドウは走り去って、まさに五百人に囲まれた状態から逃げおおせたのだった。




 青の暗殺者ヒルドウはこのとき、実に六十二人もの敵兵を葬った。後の世に、スニアラビスの百人斬りとして知られることになるこの事件は、きっと多くの人が聞いたことがあるだろう。

 ガンダダジの小説、「青伝説」では、このことがルックの手によるものだと書かれているが、それはきっと、このことを起こしたのが青髪だというところから推測したのだろう。


 この時代のこの場所で、青髪の者がこれだけのことをしたとなったら、ガンダダジではなくてもルックを想像するだろう。


 実際にこの事を起こしたヒルドウは、この先も表舞台に出てくることはないのだから。

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