⑩
本当は全て分かっていた。父と母がもう蘇らないことも、自分がしていることがどれほど間違ったことなのかも。
だけど少女は、まだ自分の意志で考えて行動をできる歳ではなかった。両親を失って枯れ果てた心が、またそれを助長していた。
彼女は言われたままに行動をした。それが誰に言われたことかも覚えていない。街へ入ったら、壁沿いに右に進んで、大きな墓地で夜が明けるまで待つ。朝目覚めたら、この街全体に傀儡をかける。
フォルキスギルドの洞の入り口は、あらかじめ細作の手によって壊されていた。
毎日のように続く、恐ろしく長い夜が訪れた。夜半には、重たい雨が降り出した。しかし少女は身を冷やす雨を厭わないで、行動を起こした。
相当数の死体が、郊外の墓で蠢き始めた。死体に囲まれていると、ほんの少し少女の心は安らいだ。
少女は言われたとおりに、生きている人間を襲うように傀儡に指示を与えた。脳を残した人の死体には簡単な指示を与えることができるのだ。
傀儡たちは生きている人間を探しに、墓地の外へと歩き出していった。
墓地には崩れ落ちた死体と、両親の傀儡が残された。
それからどれくらい時間が経ったかは分からない。少女が気付くと、近くに見たことのないほど大きな人が立っていた。大きな人は少女に話しかけて、優しい言葉をかけてきた。生まれた村を出てから、そんな言葉をかけてくれたのは彼が初めてだった。
けれど少女はそれを拒んだ。自分にそんな優しさをもらう権利がないと、幼い頭でおぼろげながら思ったのだ。それにもしあの約束が本当だったらと思うと、人に心を許してはいけない気がした。
しかし大男は、拒む少女にそれでも優しく接してくれた。両親が死んだあの日以来、初めて自分の目に涙が浮かぶのを感じた。
少女は自分の感情の変化を厭った。幼い彼女に、そこから正しい答えを導き出すことはできなかった。ただ一つ言えるのは、少女は決してドーモンを疎ましく思ったわけではなかった。
背中を貫かれた大男は、それでも笑んで、優しく少女の頭をなでた。
そのとき少女の心に芽生えたのは、温かい感情だった。決して終わることのないように思えていたのに、心にあった痛みが少し和らいだ。
たったそれだけで、少女の纏った黒い気配が消えていった。そうしてすぐに、強い後悔の念が生まれた。こんな優しい人を、自分は殺してしまった。
少女は泣いた。ただただごめんなさいと繰り返しながら。気が付くと、冷たいままいつも傍に佇んでいた両親が、地に折り重なるように崩れ落ちていた。
「ドーモン!」
声がしたのとほとんど同時に、誰かが少女のそばに立った。少女は濡れた瞳でそちらを見上げた。気付くと雨もやんでいる。雨の代わりに、優しい声が少女に降ってきた。
「こいつは、お前を守って逝ったのか?」
少女はどう答えていいか分からなくて、ただごめんなさいと繰り返しながら泣き続けた。
しばらくは沈黙が続いた。その間にドゥールが何を考えたのかは、幼い少女には想像も付かなかった。ドゥールはドーモンがそうしたようにしゃがみ込んで、少女の頭からドーモンの手をどかして、代わりにやはり大きな自分の手を置いた。
「そうか。こいつはお前を守れて嬉しかっただろう。だからそんなに泣く必要はない」
ドゥールはぽんぽんと少女の頭を二回叩く。
無理とは分かっていたけれど、少女は泣くなと言われたので、必死で涙を堪えようとした。
「俺はドゥール。こいつの友達だ。お前の名前を聞かせてくれるか?」
「わ、わた、あ、……」
「ははは、ゆっくりでいい。そんなに焦るな」
ドゥールの優しい言葉に、少女はコクリとうなずいた。
「……シーリィ」
すすり泣きを必死で押さえて、少女は答えた。今度はちゃんと聞こえるように、声も張った。
「シーリィか。優しい響きの名前だな」
ドゥールは少女を抱き上げると、そのままそのたくましい肩に少女を乗せた。少女は驚いたような顔をして、横にあるおかしな髪の優顔を見た。
「しっかり掴まっていろ」
横顔が狂ったようににやりと歪んだ。ドゥールはそのまま少女を乗せて立ち上がる。思いの外強い揺れがして、少女はドゥールの髪をぐっと握った。後ろで一本に編まれていた長い髪は、少女の小さな手にも掴みやすかった。
しかし少女は、言いようのない恐怖を感じた。彼女はこの優しい人の友達の命を奪ったのだ。こんな事をしてもらえる権利なんてあるはずはない。
まだ幼い少女には理由などは分かるはずがなかったが、少女は正直にドゥールに打ち明ける事ができなかった。それはドゥールが仇討ちで自分を殺そうとするのをおそれたのではない。むしろそれなら、少女がためらう理由にはならなかっただろう。
少女がおそれていたのは、優しさを与えられなくなることだった。まだ誰かに甘えて、無償の愛を知らなくてはいけない歳なのだ。それは本能的なものかもしれない。本当はこのままではだめだとは思っていても、正直になる勇気が少女にはなかった。この狂ったように泰然とした横顔が、何を思っているのかは分からなかったが、少女は彼に嫌われたくないと思った。
「行こうか」
数瞬の沈黙の後、ドゥールは言った。何かを振り払うような、無理に決意を固めるような、強ばった声だった。
ドゥールは歩いて、先ほどライトたちに会った通りに向かった。
そこには正義感の強い灰色髪のアレーの姿はなくて、ライトとシャルグが話をしているところだった。
「とにかく城へ戻れ」
「でもまだこれが終わったとも言い切れないって、さっきシャルグが言ってたんだよ? その、聞き分けないこと言うつもりじゃないんだけど」
「お前は国の全ての責任を負うんだ。このこと一つにかまけるわけにはいかないだろう」
どうやら二人は少し口論をしているようだった。互いに気をつかいながらではあっても、どちらもなかなか譲らない。
ドゥールは二人に歩み寄りながら、それをどこか愛おしげに眺めていた。ドゥールの肩に乗っていた少女は、それを不思議そうに眺めている。
「あ、ドゥール! ドゥールは何か分かった?」
今はもうすっかり雨も上がっていたし、ドゥールにはシャルグのように気配を消す癖はない。彼が近付いてきたことにライトはすぐに気付いて声を掛けてきた。
「良かった。まだここにいたか。少し話したいことがあったんでな」
ドゥールはよく通る声で少し離れた二人にそう言って、そのままの歩みで進んで二人のそばに立った。
「その子は?」
「シーリィだ」
シャルグの短い問いに、ドゥールも短く答える。シーリィはドゥールに埋まるように顔を隠した。
「お父さんとお母さんは?」
半ば答えを予想していたライトの問いに、ドゥールはただ首を振った。
「そうなんだ。その子はドゥールが守ったの?」
ドーモンのことをどう話そうか考えていたドゥールに、ライトは核心を突くような質問をした。元々覚悟を決めていたドゥールは、その言葉に後押しをされるように口を開いた。
「この子はドーモンが守った。今度の事件もドーモンが終わらせた」
ドゥールの言葉を聞いた少女は、ビクンと体を震わせた。ドゥールは全てを見抜いていたのだ。見抜いた上で、優しさをくれていたのだ。少女は自分に泣く権利がないと分かっていたので、誰にもばれないように声を殺して泣いた。
「良かった。ドーモンが終わらせてくれたんだ。それじゃあドーモンは?」
ほっとしたような笑顔を見せたライトは、けれどすぐに、その笑顔を凍らせた。それはいつも快活なドゥールが、言葉を詰まらせたからだ。たったそれだけで、ライトの頭に不吉な予感がよぎった。シャルグも、まさかという表情を顔に張り付け、ドゥールの言葉を待った。
ドゥールはいざというときにまだ躊躇ってしまった覚悟のなさを思い、一度覚悟を決めたら、きっと揺るがない親友を思った。
「死んだよ」
一見落ち着いているように見えた彼だけれど、受け入れ切れていなかったから、言いたくはなかったのだろう。その言葉は、喉から出るのを嫌がるような、かすれた声だった。
「嘘でしょ! なんでっ!」
ライトは思わず、大きな声でそう言った。ドゥールの肩に乗った少女は、ビクッと体を震わせて、より小さくなった。ドゥールはそんな少女の頭に手を置いた。
「この子を、救った」
「でも、ドーモンは強いし、あんな傀儡なんかにやられるはずない」
はずがないとは言い切れない。つい先日にシャルグにそれを学ばされたライトだが、それでもそう口を突いて出てきた。
「それに、おかしいよ。あんなに優しい人が、そんな……」
「この子を救ったんだ」
ドゥールは今度こそはっきりと迷わずそう告げた。納得しきれないライトも、そう言われて、それ以上は何も言えなくなった。
「彼は北の墓地にいる。見てやってくれ。俺はこの子を連れて行きたい場所があるんだ。数日は戻らない」
淡々とドゥールは言った。彼の意志は固く、ひと目見ただけで反論を受け付けていないのが分かった。ただ、今まで黙していたシャルグが、一言だけ問いかけた。
「ドーモンは、悔いを残したか?」
真剣な目だ。
ドゥールはその問いに少しの間考えて、にやりと笑んで答えた。
「いや、幸せそうに笑っていたよ」
ドゥールの言葉に、金髪の少年の大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。ドゥールは踵を返し、後ろ手で二人に手を振り、北に向かって歩き始めた。
「どこに行くの?」
二人から充分に離れた後、シーリィは涙声で尋ねた。
「俺の生家だ。老いた夫婦が二人で農業をしている。俺は二人に子供らしいことをしてやれなくてな。まだ孫を作ってやる気にもなれん。だから、お前がいると喜ぶだろう」
淡々と言うドゥールの紫色の髪に、少女は顔を埋めた。
「ごめんなさい」
他に言うべき言葉のなかった彼女は、そう呟いた。
「大丈夫だ」
優しくドゥールは言った。そしてその拳を硬く握った。それはおそらく、彼の心にどうしようもない怒りがあるからだろう。それでも彼は、決してそれを表情に出そうとしないで、笑顔で「大丈夫だ」と繰り返した。
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