晩餐が終わった後、ルックはトップらに連れられて広い中庭へと通された。中庭の中央は広場が作られていて、屋敷から煌々と降り注ぐ光に照らされ、夜でも明るかった。

 この場所でリリアンとグラン護衛隊長との一騎討ちをしようというのだ。すでに話を聞かされていたのだろう、護衛隊長とおぼしき五十くらいのアレーが広場の石の上に座っていた。周りには一人の女中が控えていて、手には布の巻かれた木刀が二本用意されていた。


「ありがとね」

「なぁに」


 ルックの耳にトップと年配のアレーの短い会話が聞こえた。トップはどうやらリリアンの勝利を疑ってはいない様だ。


 リリアンは広場の中央に歩み出る。控えていた女中が木刀を手渡す。二十人のアレーは広場の周りに広がって、二人の試合が見物しやすい場所を取った。


「よろしく、私はリリアンよ。あなたが隊長のグラン?」


 グランは頭に大きな傷跡のある男だった。皺の刻まれた厳しい顔に、紺の髪。口ひげを蓄えた男だ。顔のいかめしさもさることながら、座っていても分かるほど偉丈夫だ。


「ああ、俺がグランだ。話は聞いている。何かルールはあるか?」


 男は落ち着いた、理知の見える口調で言った。その発言にリリアンは満足そうに笑む。


「ルールはないけど、一つだけお願いできる? 最初から本気でかかってきて」

「はは、威勢のいい女だ。もちろんアレーを相手に手を抜く気はない」


 言ってグランは立ち上がる。背の低いリリアンと向かい合うと、彼は頭三つ分は大きい。彼は控えていた女中と目線を交わす。女中は軽く頷き木刀を彼に手渡す。


「怪我するんじゃないよ」


 女は男にそう言って軽くグランの胸を小突いた。どうやら彼女はグランと夫妻であるらしい。グランは彼女に心配するなと言い、軽く抱き寄せる。彼女は皆の目がある中でのグランの行動に、少し腹を立てるように口を尖らせた。


 そんなやり取りのあと、グランはリリアンの方に向き直り、木刀を構える。女性は少し移動して、周りを囲むアレーの中に紛れ込んだ。リリアンも男から数歩距離を取り、構える。


 ルックは近くの木に飛び乗り、俯瞰からこの試合を見物することにした。リリアンの戦闘をよく見て、彼女の強さに少しでも近づければと思ったのだ。ルックは試しにリリアンに教わった目や神経にマナを集める視力強化をしようとしてみた。すぐには感覚がつかめなかったが、どことなく視野が狭まり、見えている部分はよく見えるような気がした。


「それじゃあ始めましょうか」


 リリアンが言う。男はその言葉を合図に地を蹴った。


「はっ」


 かなりの突進だった。だがどうやらそれは、リリアンの力量を測ろうという、用心しながらのものだったらしい。もしそのままの勢いで突っ込んでいたら、見事なリリアンの剣捌きにいとも容易く打ち込まれていただろう。しかしリリアンが冷静に男の剣を受けようというのを見て、グランは大きく飛び退いた。


 グランは確かにとても強い戦士だった。これならば、十年前の戦争に単身乗り込んでいったというのも頷ける。シャルグほどには速くないものの、優るとも劣らない身のこなしだ。彼は離れるとすぐさま石投を放ち、リリアンの動きを牽制する。必要とするマナの少ない石投とはいえ、なかなかの早打ちだ。


 リリアンは男の放った石投を異常な早打ちの水壁で落とす。あえてかわさずそうしたのには、自分の強さを見せつける意図もあったのだろう。

 周りで見ていたおよそ二十名のアレーが、その水壁に目を見張る。

 リリアンは間を置かず水砲を放つ。グランはこれを右へ跳んでかわす。しかしそれを見越していたかのように、もう一発の水砲が彼を襲った。彼はかなり無理な態勢で避けることを強いられる。だが彼が隙を見せたのは一瞬だ。もっと大きな隙が生まれると予想し踏み込んでいたリリアンは、グランの力強い反撃に驚いた。


 この試合で初めて、二人の剣がぶつかった。布を巻いた木刀とはいえ、物凄い迫力だ。布にはどうやら衝撃を和らげる魔法が籠められているようだ。もしもそれがなければ、木刀など木っ端微塵に砕かれていただろう。


 その一撃は虚を突かれていたとはいえ、体術の優れていたリリアンに分があった。グランは思いもよらない激しい力に押され、剣を引く。リリアンはその機を逃さずもう一度打ち付ける。グランはこらえきれずに剣を落とした。


 勝負あったかと思われたが、グランは身を屈め回し蹴りを繰り出す。リリアンは軽く垂直に跳びそれをかわしたが、リリアンが攻撃に転じる間もなく、グランの拳が彼女めがけて突き上がってくる。リリアンは木刀でその拳を受けようとした。しかしグランは木刀にぶつかる寸前に拳を開き、木刀を掴んで思いっきり引き寄せた。その反動を利用してもう一方の拳がリリアンに迫る。剣ごと体を寄せられたリリアンは、この攻撃を避けられない。リリアンの体に鍛え上げられたグランの拳が決まった。


 ルック以外のすべての見物人は、そう見えただろう。視力強化のコツをわずかながらに掴みかけていたルックだけが真実を見た。


 リリアンに達しようかとしていた拳は、リリアンの体のわずか手前で突如現れた水壁に阻まれていた。リリアンは大きく後ろへ飛び退いた。ルック以外の者の目にはリリアンが突き飛ばされたように見えただろう。ひらりとリリアンは着地をし、剣を構え直す。


 グランもこの身のこなしには驚いたようだった。追い討ちはかけず、リリアンの様子を見張る。リリアンもしかしすぐには仕掛けようとせず、その場で動かない。しばらく沈黙が続いて、グランが口を開いた。


「ひでぇな。俺には最初から本気で来いと言っておいて、そっちは手抜きかい?」


 リリアンは自分の強さを示すため、すぐに勝負をつけるのを避けたのだ。リリアンは不敵に笑んで謝った。


「ごめんなさいね。あなたは剣と格闘どっちが得意? もしも剣ならそれを拾うといいわ」


 リリアンは目線で落ちたグランの木刀を指す。


「どっちかって言うと格闘の方が得意だ」

「そう。それならそのままでいいわね。……本気で行くわ」


 もしも彼女が最初から本気を出していたら、ここにいるアレーは誰一人として何も理解できなかっただろう。ルックですらそう、分からなかった。一体いつリリアンは地を蹴ったのだろうか、一体いつ両手に持つ木刀を片手に持ち替えたのだろうか。ルックにはアラレルの突進よりも速い気がした。ただそれよりずっと軽やかに、いつの間にかリリアンの木刀は男の喉元に突き付けられていた。


「な、な、」


 最も状況を意外に思ったのは、敗北した男だった。正面から見ていた彼が、相手の姿を見失うなど考えられないだろう。十歩ほどもあった彼女との距離が、ほんの瞬きをする間になくなったのだ。そして何より、彼は何の気配も感じなかった。

 男は敗北を悟り、睨み合いの間に溜めていたマナを手放した。そこでふと、男は気付いた。ルックもようやく何が起こったのかに思い至った。はっとした顔を見せたグランに対して、リリアンは静かに言った。


「あなたの負けよ」


 水の魔法に、非常に複雑で難解な、水鏡という魔法がある。本当の姿を消し、空気中に偽りの自分を映す魔法だ。本来ならば人一人分の水鏡を作るのに、一時間近くかかるという、マナの無駄使いと言われる魔法だ。一般的な魔法師では使うこともできない。

 しかしほとんど使用する人はいないが、この魔法は今でもとても有名だ。水鏡は大賢者ルーカファスが編み出した、最初の水の魔法なのだ。

 リリアンなら、あの沈黙の間中マナを集めていたとするなら、確かに使えてもおかしくはないのだろう。加えて彼女は、速さを殺せば全く気配を立てずに行動できる。そうとしか考えられない。それ以外にはこの奇跡のような早技を説明する手だてはないのだ。


 ルックは初めて水鏡を見たのだが、八方を二十人の人間に囲まれ、正面に真剣勝負で対峙する相手、さらには俯瞰から眺めるルックまでも欺けるとは、恐ろしいほどの魔法だと思った。


 中庭中が水を打ったように静まり返る。結果だけなら予想していたトップですら何も言えない。リリアンは静かに剣を収める。

 次に巻き起こったのは、割れんばかりの大歓声だった。特に先ほどまではリリアンに対して批判的だった若いアレーを中心に、彼女を褒め称える声が上がる。


 現金な様だが、これがティナの人々の良いところでもある。普段はおしゃべりで考えなしに発言をすることも多々あるのに、自分の意見を訂正する事をいとわない。頑固者の多いヨーテス人には軽率なようにも映るが、それでもそれは彼らの美徳だった。


「そうだな、俺の負けだ。俺はあんたが指揮官になるのを認める」


 潔くグランはそう宣言した。




 ひと段落がついたあと、ルックとリリアンはティナ北部の街中の安宿の前にいた。ここがリリアンが仲間のアレーと落ち合う予定の場所だったのだ。夜ももう更け始めていたが、まだ街中には多くの人の行き来があった。


「ごめんなさいね。本当はアーティスまで送っていきたかったんだけど、こんな風になってしまって」

「まあ、帰りは襲われる心配もないしね。大丈夫だよ」


 リリアンはこれからティナの軍を統率するため、トップの屋敷に残るのだ。当然、ルックとはもうすぐ別れなければならない。短い間だったが、二人の間は確実に深い絆で結ばれていた。

 しかしこれからアーティスは戦場になる。また会えるとは言いきれない。ルックは少しでもリリアンのそばに長くいたいと思い、彼女の後を付いてきたのだ。リリアンもルックと同じ思いだったのか、ルックが来ることを嬉しく思ってくれたようだった。


「けどルック、水鏡に気付いてたのね。もっと驚いてくれると思ったのに」

「充分すぎるくらい驚いたよ。水鏡の魔法を実戦で使う人なんて他にいないんじゃない?」

「そうね、私もいろんな人を見てきたけど、そんな人見たことないわ。まあ、私がそれだけすごいってことね。どう? 尊敬した?」


 リリアンが不敵に笑んで言う。


「もし僕ら二人ともこの戦争で生き残れたらさ」


 その軽口に自分も何か返そうかとも思ったが、ルックはここで真剣な目でリリアンを見据える。もしも今を逃したら、二度と言えない気がしたのだ。


「僕もリリアンのチームに入れてよ」


 シュールのチームを抜けたあとどうするかなど、今までルックは思ったこともなかった。むしろ、その考えを遠ざけていた。けれどルックはこのとき本気で、リリアンと一緒に旅をしてみたいと思ったのだ。多少の罪悪感を感じながらも、もしそうなるならばそれが待ち遠しいような気もした。

 リリアンもルックの言葉に顔をほころばせたが、すぐに真顔になった。


「旅のアレーなんていいことないわよ」


 ルックを諭すというよりは、それでもいいのかと確認をするようだった。ルックは固く頷いた。


「じゃあお互い、なんとしても生き残りましょう。まだ本格的な戦争は少し先でしょうから、私の教えたことをものにしておいてね。あと、国のために命を投げ捨てるのなんてやめてね。ちっとも勇敢だとは思わないから」


 リリアンは言う。とてもとても、真剣な声だ。ルックは再び固く頷く。リリアンはルックの肩に手を置いて彼の体を引き寄せた。ほとんど背の変わらないルックに、リリアンは額を合わせる。ヨーテス流の約束の交わしかたなのだろうかと、ルックは少し戸惑ったけれど、悪い気持ちではなかった。


 二人は安宿に入り、姿の見えないリリアンの仲間へ宛てて宿の主人に伝言を依頼した。宿を出てから、二人はルックが十五になった日に、最初に会ったジジドの木のある広場で会おうと約束をした。


 それからは二人とも無言のまま、トップの屋敷に戻っていった。ルックは次の日の朝早くトップの屋敷を後にした。リリアンとトップはルックの見送りに出てきて、短い別れの挨拶を交わす。


 あっさりとした別れだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る