彼らは食事のあとを片づけ、身支度を済ませる。そんな彼らの頭上から、よく澄んだ、アルトの声が降ってきた。


「ここ、いい場所ね」


 彼らはただちにジジドの木から離れ、声の先へと目をやった。

 全く気配を感じなかった。ジジドの木の、半分くらいの高さに生えた枝の上。十五、六の女の姿がそこにはあった。


 クリーム色のショートヘアーに、小さい輪郭。緑の瞳がとても大きく童顔だ。しかしあどけなさは感じない。顔つきからは世慣れた気配が漂っていた。黒い短衣の上に袖口の広い外套を羽織っている。外套は生成りの厚ぼったい生地で、袖と同じく広がった裾には複雑な刺繍があしらわれている。ズボンは七分丈の薄緑色だ。腰のベルトから長短二本の剣が下げられていた。


 その女は枝に腰掛け、微笑みながら彼らのことを見下ろしている。

 余裕の見える笑みだった。いや、というよりはどこか浮世離れをしているような、遠くを見ているかのようなそんな印象を受ける笑みだ。


「何者だ」


 シャルグは彼女をねめつけて、短く誰何した。すでに刀を抜き払い、鋭いまでの殺気を放って警戒している。


「リリアンよ」


 彼女はそんな殺気を向けられて、しかしそれでも平然と微笑んでいた。


「安心して、ちょっとお話がしたかっただけで、殺し合いなんてするつもりはないから」


 リリアンと名乗った女性は続けて言ったが、シャルグは黙し、その警戒を緩めない。


「お話って何? 僕たちに何か用?」


 ルックも背中にまわした鞘を下して、警戒しながらそう聞いた。彼の言葉にリリアンは透明感のある澄んだ声で答える。


「ええ、そう、ちょっとね。あなたたちが持ってる青の書を渡してほしいの」


 彼女の言葉に、ルックも剣を引き抜いた。


「よく考えてみて。カンやアーティスがどう思ってるのかは知らないけど、今のトップに青の書を持っていくことに意味はないわ。私は彼を知っているのよ。避けられる戦いは避けたいの。それはあなたたちも一緒でしょ? 私はあなたたちを殺すつもりはないけれど、何かのはずみでそうならないとも限らないわよ」


 随分と傲慢な発言だ。彼女は自分たちを殺さずに勝てると言っているのだ。

 ルックは彼女の言った、「青の書を持っていくことに意味がない」というのが気になった。だがシャルグはそれを無視し、あっけなく言い放つ。


「論外だ」

「私の強さを知れば気が変わるわ」


 彼女は呆れたように肩をすくめる。よほど自分の実力に自信があるのだろう。ルックは警戒心を強めた。

 シャルグはアーティスでも指折りの戦士だが、それでも絶対に勝てるという保証はない。ルックは用心しながら、探るように言う。敵の情報を引き出しつつ、剣のマナを溜める時間を作る狙いだ。


「それならリリアンだっけ? あなたはわざわざここまで出向いてくる必要はないんじゃないの? もし僕たちと、特にシャルグと殺さないようにしながら戦えるような戦士なら、カンに残ってやるべきこともあったんじゃない?」

「ふふ、そうじゃないのよ」


 ルックには、彼女の言葉はふざけているとしか思えなかった。事実彼女の言葉には、どこか皮肉な響きがあった。


「カンはそう思っていないの。トップ家が軍を出すかどうかが、あなたたちの行動次第だと思っているのよ。私はカンにアルテス金貨百枚で依頼を受けただけの旅のアレーだし、お金がもらえれば何でもいいの。カンでやることなんて一切ないわ。無理にあなたたちを殺さないといけない理由もね。

 まあ、国から直接依頼を受けてるあなたたちが、断れないのは分かっていたけど、物は試しね」


 言っても無駄だと判断したのか、彼女は腰の長剣を抜き、かなりの高さの枝の上から飛び降りた。


 下生えがカサっと鳴って、音がしたのはそれだけで、まるで羽でも生えているかのように彼女は地面に降りたった。

 彼女が付けている防具の類は、腕に輝く金の小手のみだった。剣もどこにでもある量産型のものに見える。例外者の可能性もあるが、髪の色からは水の魔法の使い手だと思われた。袖口の広い外套は動きやすそうではなく、その恰好から体術よりも魔法が得意な戦士に思えた。けれどわざわざ枝から飛び降りて彼らの近くに来たことからは、体術も使えるだろうと推測できる。


「ああ、論外だ」


 再びシャルグが同じ言葉を繰り返す。ここでライトも剣を取り身構える。

 彼女がマナを集める前に、シャルグが先手で打って出た。


 二十歩ほどの二人の距離がすぐになくなる。シャルグは無言のまま黒刀で喉を狙った突きを繰り出す。その攻撃をリリアンは左に飛んで難なく避ける。ルックには思わぬ素早い動きだった。シャルグの動きは眼で追うのがやっとのことだ。けれどリリアンもそれに負けず劣らず速かった。そしてそこから先は、ルックの目には追いきれない攻防が繰り広げられた。

 シャルグはかわされた瞬間に地を蹴って、その勢いをほとんど殺さず追いすがる。リリアンに向けシャルグの黒い刃が迫る。リリアンは今度はかわさずその長剣でシャルグの剣を受け止めた。


 二合目の突きを受け止められた瞬間、シャルグは下段に蹴りを放った。それをリリアンが軽く跳んでかわし、それと同時に横薙ぎにシャルグの首を狙う。足払いを囮にし、影の魔法を使おうとしたシャルグはやむなく飛びのく。シャルグの体のわずか手前をリリアンの剣がかすめる。避ける動作は危なげなかった。しかしシャルグは集めたマナを手放した。

 飛びのくシャルグを今度はリリアンがぴたりと追った。飛びのきながらもシャルグは、次々と繰り出される凶刃に対処せざるを得なくなった。


 ルックはどうにか援護をしようとマナを溜めていたが、速すぎてどう援護していいか決められなかった。隆地の魔法でリリアンが跳んだ先に壁を作ろうと狙うが、彼女はそれを読んでいるようで、なかなか好機は訪れない。


 魔法の使えないライトもただ見ているより他にない。


 怒濤のように続くリリアンの攻撃を受け流しつつ、シャルグは反撃の機を待った。

 厳しい性格の彼は、油断をするようなことはない。リリアンに対しても油断は全くなかった。しかし戦闘が始まって早々に形勢は不利になっていた。

 リリアンの攻撃は突きも薙ぎも命を奪うための攻撃ではない。どれも当たれば勝敗が決するのは疑いようもないが、致命傷になりそうな攻撃はしてこなかった。長剣を腕の延長線であるかのように操って、型の読めない細かい攻撃を繰り返す。大技は一つもなく、しかし全ての攻撃が、無駄なくこちらを倒せるものだった。まるでシャルグの動きを読んでいるかのように、どちらへ動こうと追い続けられる。わずかな時間で何十回もの攻撃が来たが、一度の隙も見いだせなかった。

 あれほどの余裕も頷ける。しかしそれでも、シャルグは虎視眈々とチャンスを待っていた。


 もう何回目かも分からないリリアンの突きが、わずかながら力を乗せきれなかったようだ。シャルグは見逃さずその突きをはじいて、今まで離れようとしていたのを一転、リリアンの懐に飛び入った。シャルグの剣はリリアンの剣よりかなり短い。間合いを縮めれば彼女の剣は小回りが利かなくなり、こちらに有利になると踏んだのだ。

 シャルグはリリアンの脇腹をめがけ、渾身の力で剣を薙ぐ。

 案の定、リリアンはそれを受けるのにかなり無理な体勢を取った。左手を剣から離し、右手を無理にひねって剣先を完全に地に向けシャルグの剣を受けたのだ。ただでさえ小回りの利に差がある。この体勢は決定的だった。シャルグはすかさず彼女の首をめがけて刃を繰り出す。


 シャルグはそれに確実な勝利を見いだしただろう。


 しかし、驚くべきことにこれで勝負は終わらなかった。

 リリアンはシャルグの刃を受けた一瞬の間を利用して、いやむしろ、その体勢こそ彼女の誘いだったのか、彼女はその一瞬の間に、剣から離した左手にマナを溜め魔法を放った。


「水砲!」


 リリアンの手に突然水の塊が生まれ、シャルグへ襲いかかった。


 とっさの判断で、シャルグは身をひねりその攻撃をかわした。しかも、リリアンの首を狙った攻撃を止めなかった。だが止めないまでも、その攻撃はとたんに力を失って、リリアンの金の小手に受け止められた。

 それを見届け、シャルグは大きく後ろへ跳躍し距離をとる。今度はリリアンは追いかけて来なかった。勝利を確信していた攻撃を防がれ、次に打つ手を判断しかねたのだろう。


 ルックはこの機に溜めていたマナを複数の石投にし放った。これは倒すどころか当たることすら望んでいなかったが、これで少しだけでも隙が生まれればと考えたのだ。だがその攻撃はリリアンの強さを見せつけただけに終わる。

 ルックが放った石投は散弾し、リリアンに襲いかかる。彼女はそれを見もせずに、右手をかざし、「水壁よ」と小声で呟く。すると分厚い水の層が生まれ、石投はそれに阻まれ威力をなくす。


「!」


 水壁は高密度の水の盾を生み出すため、水砲や石投よりも多くのマナが必要だ。これほど速くマナを集められるならば、先程の水砲よりも軽い魔法なら溜めの時間もなく放てるだろう。先ほどの激しい切り合いの中でも使えたかもしれない。もしそうなら、もうすでにシャルグの命はなかっただろう。

 圧倒的な差を見せつけられて、ルックは新たなマナを溜めるのも忘れて棒立ちをしていた。その間に、わずかにリリアンがマナを溜めた。いやそれは、数瞬の確かにわずかな時間だったが、彼女の実力でならけた違いな量のマナを溜めているだろう。


 彼女は途端に静かになった戦場で悠然と右の掌を地面に置いた。


 そのゆっくりとした動作を見て、シャルグは我に返ったようにはっとした顔をした。水の魔法師が地面に手を突いたなら、放たれる魔法は一つしかない。今まで立っていたジジドの木の下からすぐにシャルグは飛び離れる。


「水魔よ」


 リリアンは強く言葉を放った。その途端、たった今までシャルグの立っていた場所に巨大な水の柱が突き上がった。ゾッとするほど巨大な音を伴って、その水柱は空へと高く駆け登る。

 それは水の魔法の中で最も威力の高い魔法だ。それどころか、光の光矢や、木の毒霧に並んで最も殺傷能力の高い魔法でもある。壮大に佇んでいたジジドの木が、水魔に抉られてその半分をなくしてしまった。通常の五倍も太い巨木が、南西から見た半分を粉微塵に砕かれたのだ。


 ルックはその信じられない光景に、ただただ立ち呆けるしかなかった。

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