第8話

翌朝、部屋の中の異常な寒さで目が覚めた。時計を見るとまだ明け方だった。部屋のカーテンを開けた僕はそこで目にした光景に愕然とした。猛吹雪で何も見えない。明け方でまだ薄暗いということもあるが、それ以上に吹雪で視界が遮られているためだった。


(ヤヨイ様……!)


居ても立っても居られなくなった僕は部屋を飛び出した。民宿のロビーに行くと、仁哉と彼の両親が既に起きていた。おじさんは電話で誰かと話をしていた。僕の姿を見ると、仁哉は不安そうな表情を浮かべた。


(咲人、おはよう。酷い雪だな。今、親父が村長と電話してる)


(そうなんだ……ヤヨイ様の所へ行くの?)


そう尋ねると仁哉は、首を振って何かをゆっくりと口にした。まだ分からないと言っていた。やがておじさんが電話を切って僕に向かって言った。


(村長はヤヨイ様の元へ行くと言っている。止めたんだがどうしても行くと聞かなくてだな……)


(村長の気持ちはよく分かります。僕も今すぐヤヨイ様の元へ行きたい。だけど……この吹雪の中を歩くにはご高齢の村長には厳しいのではないですか?)


おじさんは僕の言葉に大きく頷くと続けた。


(他の者にあたってみる。だが、この天気では行ける人は限られているだろうな)


(そうですね……とにかく、僕は先に行っていますね。必要なものがあったら一緒に持っていきます。木を支える頑丈なものがあれば一番良いのですが……)


そう言うと、おじさんよりも先に仁哉が驚いて言った。


(咲人、お前1人で行く気かよ⁈)


(うん。でも大丈夫だよ)


おばさんが心配そうに尋ねる。


(倒れても誰も助けてくれないのよ⁈)


僕は大きく頷いた。そして、3人に一礼をすると、準備をしに一旦部屋に戻った。外はだいぶ明るくなっていたが、それがかえって外の惨状を浮き彫りにしていた。横殴りの雨、ではなく横殴りの雪、である。真っ白で何も見えない。雪国でよく言われるホワイトアウトというやつだ。この中を歩いて行くのかと思うと身の危険を感じて背筋が寒くなった。しかし、ヤヨイ様は今頃たった1人でこの風雪の中に立たされているのだ。桜の旅人として行かない訳にはいかなかった。僕はありったけの防寒と身支度をして、民宿を出た。


(咲人、これ持ってけ)


仁哉が差し出したのは、登山用のストックだった。


(気休め程度にしかならないかもしれないけど、ないよりはマシだろ)


仁哉は他にも、ブルーシートや木を支える道具、幹を保護する包帯などを持たせてくれた。


(こんな天気だからな。これがヤヨイ様の役に立つか分かんねえけど、とりあえず持っていけよ。俺達もすぐに後から行くからさ)


僕は頭を下げると、荷物を受け取った。


民宿の入り口の扉を開けた瞬間、強風に体を持っていかれそうになった。驚いたのか3人が急いで駆け付けて来て、体を支えてくれた。


(本当に行くのか?)


心配そうに尋ねる仁哉に僕は大きく頷いた。


(行くよ。ヤヨイ様を放っておけない)


すると、仁哉が苦笑いをして言った。


(お前らしいけど……死ぬなよ、咲人)


飛ばされないように全身に力を入れてゆっくりと歩を進める。仁哉が貸してくれた登山用のストックがとても役に立っている。体を支えるのに十分だ。しかし、歩き慣れた道が今は全く別の道に見える。真っ白で何も分からないが、僅かに視界に入る建物や木などで自分の位置を確認した。僕はこの村で生まれ育ったんだ。例え目印なんか何もなくてもヤヨイ様の元へ辿り着ける自信がある。


(桜の旅人をなめんなよ……!)


僕は心の中で叫んだ。ヤヨイ様のいる丘へ辿り着くのにいつもの倍以上の時間がかかった。長い時間、風雪に晒されたせいで体力は大幅に削られており、僕はフラフラになりながら何とか力を振り絞って丘の上へ辿り着いた。真っ白な視界の中、僅かにヤヨイ様の黒々とした大木が見えた。


『ヤヨイ様!大丈夫ですか⁈』


しかし、返事はない。僕は胸騒ぎがした。来るのが遅かったのかもしれない。僕は何度もヤヨイ様の名前を呼びながら、前へ進んだ。雪で下半身が埋まってしまっても、何とか前へ前へと進んだ。そして、ようやくヤヨイ様の元へ辿り着いた。大木は全身、雪に覆われてしまっている。ところどころ僅かに黒々とした幹が見える。僕はその幹に力いっぱい両手を回した。


『ヤヨイ様!しっかりしてください!起きて!ヤヨイ様!』


しかし、一向に返事はない。僕は幹に両手を回したまま、木の枝を見回した。冬の間に村人達が施した添え木は殆ど崩れていたが、まだ僅かに残っているところもある。細い枝もところどころ折れてしまっている。しかし、何とか保っているように見えた。僕は持ってきた道具をバッグから取り出そうとしたが、酷い風のせいで上手く扱えない。何とかブルーシートを取り出して広げてようとしたが、猛烈な風に煽られて、自分の体まで飛んで行ってしまいそうになった。悔しくて思わず涙が滲んだ。まさかこの年になって涙なんか流すとは。ヤヨイ様を目の前にしながら何もできない自分に腹が立って仕方がなかった。


『ヤヨイ様!起きてください!どうしたんですか⁈まさか死んじゃったんですか⁈村の皆さんはあなたとの桜まつりをとても楽しみにしてるんですよ!もちろん僕だってそうです!だから、ヤヨイ様!こんなところで死んではダメです!』


僕は普段、桜の木を優しく扱いようにしている。しかし、この時ばかりはそうも言っていられなかった。目の前にある大きな幹を必死に叩いた。


その時、不意に両親が死んだ時のことが脳裏に蘇ってきた。授業中に学校へ連絡が入り、病院へ駆けつけた時には2人は既に帰らぬ人になっていた。しかし、僕は2人の体を思い切り揺さぶった。


「お父さん!お母さん!いやだ!おきてよ!」


自分の声が聞こえないのできちんと言葉を発しているのか分からなかった。けれど、そんなことどうでも良かった。両親はきっと自分の呼びかけに応じてくれる。そう信じてひたすら呼び掛けた。しかし、2人が目を覚ますことはなかった。


ヤヨイ様まで突然、目の前からいなくなってしまったら……そう思うと酷く胸が苦しくなった。僕は必死に大きな幹を叩いた。すると、その時だった。


『……その声は咲人かい……?』


か細い声が脳裏に響き渡った。僕は驚きと嬉しさのあまり再び泣きそうになった。


『ヤヨイ様!良かった!やっと気が付いた!』


『暖かい場所にいたんだよ……咲人と村人達と大きな草原でね……ひなたぼっこをしていたんだよ……』


『ヤヨイ様、それは……』


僕が言い終わらない内にヤヨイ様は言葉を続けた。


『でも、どこからか私を呼ぶ叫び声が聞こえたんだ……すごく必死な声でね。ずっと温かい場所にいたかったんだけど、あまりにも必死なもんだからさ、ついつい戻ってきてしまったよ……』


自身の目から大粒の涙が溢れた。雪にまみれて涙なのか雪なのか分からなかったけれど。ヤヨイ様は力尽きてしまったのだ。しかし、再び戻ってきた。僕の声で。言葉にならないくらい嬉しかった。


『驚かせないでくださいよ……』


『すまないねえ。それよりもこんな酷い吹雪の日によく来てくれたもんだ。私はてっきりもう咲人に会えないままこのまま死ぬのかと思っていたよ』


『僕がヤヨイ様を放っておく訳ないでしょう?僕は雨が降ろうが槍が降ろうが必ず来ます』


『咲人……でもあんた、そんな体で……もう持たないよ。早く帰った方がいい。私はもう大丈夫だから……』


『嫌です。帰りません!』


『咲人……』


まるで田舎に住むおばあちゃんと孫の会話だ。僕はヤヨイ様の幹に両手を回したまま離すつもりはなかった。ヤヨイ様が困り果てたその時だった。後ろから突然、誰かに思い切り肩を叩かれた。驚いて振り向く。そこには村長と村人達がいた。仁哉と彼の父親もいる。


(皆さん……!って村長、大丈夫なんですか⁈)


僕の肩を叩いたのは村長だった。彼は大きく頷いて僕の目を真っ直ぐに見つめた。それはとても力強く生命力に溢れた眼差しだった。村長のような高齢者がこんな酷い吹雪の日に外を出歩くなど死に行くようなものだ。しかし、彼は自分の命を懸けてヤヨイ様を守りに来たのだ。


(ヤヨイ様は生還しました。僕が駆け付けた時は意識がなかったんですが、何度も呼び掛けていたら、答えてくれたんです。ですが、かなり弱っているようで……)


僕の言葉に村長は涙ぐんだ。


(そうじゃったか……野樹くん、ヤヨイ様を呼び戻してくれてありがとう)


村長は弱っているヤヨイ様の姿を見ると、震える手を伸ばして何かを嘆いた。口の動きを読み取ろうとしたものの、酷い天気のせいで見えない。すると、村長の言葉に何かを感じたのか村人達が皆、手を合わせ始めた。村長を始め彼らは皆、ヤヨイ様の無事を心から祈っているようだった。仁哉が決死の表情で何かを叫んでいた。


『皆、こんなに悪天候な日に、本当にありがとうねぇ。咲人、彼らは私のために天に祈ってくれているんだ。早くおさまってくれ、雪よ、やんでくれと……本当にありがたいよ』


ヤヨイ様は慈愛に溢れる声で言った。僕は大きく頷き、涙を拭いながら村長と村人達に心を込めてヤヨイ様の気持ちを伝えた。


その後、僕達は皆で協力し、ヤヨイ様の応急処置をした。僕が1人では広げられなかったブルーシートを複数人で広げ、枝に被せたり、傷んだ幹に包帯を巻くなどした。その間に天気は少しづつ回復。作業が進むにつれて、吹雪も治まってきて緩やかに粉雪が舞う程度になった。


(吹雪、治まって良かったですね。村長と皆さんが一生懸命ヤヨイ様のために祈ったから、きっと天の神様に思いが通じたのでしょう)


僕がそう言うと、村長はとても嬉しそうに微笑んだ。


その後、応急処置を終えた僕達はヤヨイ様に一旦別れを告げ、村に戻った。民宿に一旦集まり皆、一斉に暖を取った。


「へっくしゅん!」


大きなくしゃみをした僕の顔を村長が心配そうに覗き込む。


(野樹くん、風邪を引いたんじゃないかね?)


(何だか寒気がするので、もしかしたらそうかもしれません)


(こりゃあ、いかん。しっかり食べてよく眠って体を休めなさい)


(おいおい咲人!風邪引いたのか?これ使えよ)


その時、仁哉がやってきて大きくて分厚い毛布を肩に掛けてくれた。とても暖かい。僕はそれに包まった。


(ありがとう、仁哉)


仁哉と両親は僕達に暖かい朝食を用意してくれた。焼き鮭、野菜たっぷりの豚汁、お茶碗一杯に盛り付けられた白いご飯。それに味のりと漬物、ほうれん草のお浸しやひじきなどの副菜が複数の小鉢に盛り付けられている。


(こ、こんなに沢山……いいの?)


(遠慮すんな!特にお前には早く元気になってもらわないといけねえんだからさ!沢山食べろよ!)


仁哉はそう言ってにこりと笑った。僕は頭を下げると、豚汁のお椀をそっと持った。温かさがじんわりと手の平から広がり、冷え切った体に沁み込んでいくようだった。白い湯気が立ち上るその豚汁にそっと口を付けると、野菜や豚肉の旨味が染み込んだ汁が口いっぱいに広がり、幸せな気分になった。


(美味しい……)


僕は夢中で朝食を口に運び、10分も経たない内に完食した。


(咲人くん、もう食べたのかい⁈)


(やっぱり若者は食べるのも早いわね)


(おいおい親父も母さんも違うだろ。咲人はあの悪天候の中、いち早くヤヨイ様の元へ駆けつけたんだから!俺達なんかよりもずっと疲れてるに決まってんだろ!)


(そうだったな。咲人くん、ありがとうな)


僕は何だか恥ずかしくなった。目を覚まさないヤヨイ様に驚き、取り乱して、まるで子供のように泣き、駄々をこねてしまったことを思い出したからだ。仁哉やおじさん達が僕のあの姿は見ていないといいんだけど。僕はとりあえず微笑んで軽く会釈をすることにした。


(僕、少し休みますね)


寒気と急激に襲ってきた眠気の所為で僕の意識は薄らいでいた。村人達に挨拶をすると、自分の部屋へ戻り、布団に潜り込んだ。寒気で体がガタガタと震え、熱の所為で体は酷くダルい。しばらくすると、仁哉が来て、氷枕や飲み物、体温計と風邪薬を持ってきてくれた。熱を測ってみると、38度。しっかり熱が出てしまっている。


(仁哉、こんな大事な時にごめんね……)


(なんでお前が謝るんだよ。お前がヤヨイ様をあの大雪から救ったんじゃないか。何も気にせず、とにかく今はゆっくり休め。な?)


仁哉は僕の枕を氷枕に替えてくれた。そして続けて言った。少し悪戯っぽい笑顔を浮かべながら。


(咲人がいないと桜まつりもできねえんだからさ!)


(ああ、そうだよね。しっかり治すよ!)


僕もハハハと笑って返した。仁哉はにこりと笑うと部屋を出て行った。ふと窓の外に目をやると、雪はやみ、淡い陽の光が差し込んでいた。僕は心の底からホッとした。


(良かった……ヤヨイ様もきっと安心してるだろうな……)


僕はまどろんだ。意識が遠のいていく。そっと目を閉じると、そのまま深い眠りの底へ沈んでいったのだった。

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