第9話
僕は丘の上に立っていた。目の前にはヤヨイ様がいる。しかし、その周りには大きな重機と作業服を着た大勢の男性がいた。
『咲人、あんたとはもうお別れだよ』
『そんな……ヤヨイ様!』
重機が動き出した。ヤヨイ様の太い幹に容赦なく襲い掛かるその巨体に、僕は叫んだ。
「待って!」
しかし、僕の声は届かない。その内にヤヨイ様は大きく横倒しになった。僕はヤヨイ様に駆け寄った。切り倒された太い幹から真っ赤な血が流れる。
『ヤヨイ様!しっかりして!』
しかし、ヤヨイ様は何も答えない。作業服を着た男性達が僕の体を羽交い絞めにした。何事かを喚きながら僕をヤヨイ様から引き離そうとした。
「離せよ!」
僕は必死に抵抗した。しかし、複数人の男達に体の自由を奪われ、身動きが取れない。男達は僕を引きずって丘から立ち去ろうとしていた。横倒しになり物言わないヤヨイ様がどんどん遠ざかっていく。
「ヤヨイ様―!」
その時、視界がグラっと揺れた。驚いて目を瞑る。そして、目を開けた。視線の先には見慣れた木造の天井があった。
(夢か……)
僕はゆっくりと体を起こした。眠ったのは朝だったのに、部屋の中はもう薄暗くなっている。時計の針は夕方の4時を指していた。随分と長いこと眠っていたようだ。窓の外を見ると、太陽は今にも山へ沈んでいくところだ。服は汗でびっしょりだったが、体はかなり楽になっていた。体温計で熱を測ると平熱に下がっていた。僕は服を脱ぐと体を入念に拭き、着替えた。仁哉が持ってきてくれたお茶は冷え切っていたが、汗を掻いて水分不足の体にはとても心地良く、美味しかった。
(ヤヨイ様、大丈夫かな……)
それにしても嫌な夢を見たものだ。ヤヨイ様が切り倒され、真っ赤な血を流すなんて。現実にはあり得ない現象。だが、それは僕の心に不安が広がっている証拠だ。無理もない。だって僕は死にかかっているヤヨイ様を目の当たりにしたのだから。今すぐにでもヤヨイ様に会いたい。しかし、今また外に出ればせっかく下がった熱がまた上がってしまうだろう。僕はグッと堪えた。
(ヤヨイ様、どうか……どうか無事でいてください……)
食堂に行くと、村長が早めの夕食を取っていた。僕の顔を見ると、にこりと微笑んだ。
(野樹くん、もう体は大丈夫かの?)
(はい。おかげ様で良くなりました。もう少し静養すれば治ると思います)
村長は大きく頷いた。
(あの後、皆でヤヨイ様の様子を見に行ったんじゃが……)
僕は村長の言葉にハッとして姿勢を正した。
(ヤヨイ様は何とか大丈夫そうだ。会話はできないから詳しいことは分からんが、太い幹からは生命力が溢れておってな。意志の強さがわしらに伝わってきたのだよ)
村長は安心したように、にこりと笑った。その様子に僕もホッと胸を撫で下ろした。
(それなら良かったです)
(だがな、野樹くん)
急に村長が深刻な顔をしたので、僕はドキリとした。
(……なんでしょうか)
(ヤヨイ様が亡くなられるのは時間の問題かもしれん。正直、桜まつりまで持つかどうか……)
(そ、そんな……)
僕は締め付けられるような痛みを覚え、自身の服の胸元をぎゅっと掴んだ。
(枝が更に折れてしまってな。養分を吸収するはずの根っこも所々死んでおった。やはりあの吹雪はヤヨイ様のお体に相当応えたようじゃ……)
村長は俯いて涙を零した。
(ヤヨイ様……どうか、どうか生きてくだせえ……)
僕も涙が零れそうになったが、懸命に堪えた。
(……村長、大丈夫ですよ!ヤヨイ様は最後の最後まで一生懸命に生きようとしています。最後の使命である桜まつりを前に死ぬなんて、絶対にありません)
(咲人くん……)
(ヤヨイ様は村長と村の方々に恩返しがしたいと強く思っています。その強い思いがヤヨイ様を突き動かしているんです。その思いが彼女の中にある限り、必ずヤヨイ様は桜まつりに見事な花を咲かせます。だから、ヤヨイ様を信じましょう)
僕は桜まつりの約束をした時のヤヨイ様のことを思い出していた。彼女はきっと村長と村人達の為に最後まで自分の寿命と闘うだろう。
(そうじゃな。野樹くん、ありがとう)
村長はにこりと笑った。
* * * * *
4月下旬。村には春が訪れた。菜の花が咲き誇り、つくしやたんぽぽ、かたくり、ふきのとうなど春の草花が、毎日のように真っ青な空の元で風に揺られていた。その様子はとても心地良いものだった。きっとヤヨイ様ももうすぐ花を咲かせるだろう。僕は心を躍らせながら彼女の元へと向かった。
あの吹雪の日以来、僕はなかなか風邪が完治せず、思うように動くことができなかった。熱は引いたものの、咳や喉の痛みがいつまでも残っていた。あの日、僕は決死の覚悟で猛吹雪の中を懸命に進んだ。あの時の過酷さを思えば、風邪が治り切らないことなど何でもない。僕は3日間静養した後、再びヤヨイ様の元へ向かおうとした。しかし、村長や村人達に止められてしまった。
(ヤヨイ様のことは心配いらない。俺達が全力で守る。だから、お前はしっかり自分の体を休めろ。分かったな?)
険しい表情を浮かべた仁哉にそう言われ、僕は大人しく従うしかなかった。仁哉は僕のためにあえて厳しく諭してくれたのだ。僕にはそれが良く分かったし、その気持ちがとても嬉しかった。
ヤヨイ様に会えないのは辛かったけれど、これも全て彼女のため、そして、桜まつりを成功させるため。そう自分に言い聞かせた。静養している間は自宅から持ってきた桜関係の書籍を読んだり、民宿に置いてある各新聞を入念に読むなどして過ごした。
それから約半月後、僕の風邪はようやく完治した。僕が静養している間、村長や村人達は懸命にヤヨイ様のお世話を行っていた。言葉での励ましはもちろん、幹や枝の保全や修繕など、あらゆる手を尽くした。その甲斐あってかヤヨイ様はみるみる元気を取り戻した。
久しぶりに会ったヤヨイ様はこの間のことが嘘のように生き生きとしていた。あの悪夢のようにならなくて本当に良かったと僕はホッと胸を撫で下ろしたのだった。それと同時に、ヤヨイ様のために全力で手を尽くしてくれる村長や村人達に改めて感謝の思いでいっぱいになった。
『村長に聞いたよ。咲人、体調を崩していたんだってねえ。あの日、無理をしたからだね……身を
『心配かけてしまってごめんなさい。でもこの通り。すっかり良くなったので!ヤヨイ様もお元気そうで本当に良かったです』
『あんたも元気になって良かったよ。咲人、私は桜まつりをやるまで絶対に死なないからね。あんたと村人達と一緒に過ごすのを楽しみにしてるんだよ』
ヤヨイ様は嬉しそうにそう言った。「桜まつり」は今や彼女の生きる糧になっているのだ。僕はそれが嬉しくて堪らなかった。
村長や村人達が懸命に修繕したものの、あの吹雪によりもうすぐ芽吹きそうなつぼみがいくつか駄目になってしまった。僕も村人達もショックを隠せなかった。一番ショックを受けているのはヤヨイ様のはず。それなのに、ヤヨイ様は元気に笑っていた。
『がっかりしなさんな。まだこんなに枝が残ってるんだ。大丈夫さ』
ヤヨイ様の言う通り、吹雪に耐え抜いて残った枝からは花びらが顔を覗かせていた。添え木に支えられて、元気に咲いている。全体的にまだ満開とまではいかないが、少しづつ花開いているようだった。
『ヤヨイ様、もうすぐですね!』
『ああ、そうだね。順調に花が開いているからかこのところ調子が良いんだよ』
『それは良かったです』
『咲人、見てな。あと一週間ほどで満開になるよ』
『本当ですか⁈』
『ああ、私は嘘は吐かないさ』
『はい、それはもちろん知っていますよ。村長や村の皆さんにもお伝えしますね』
『ああ、頼んだよ』
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