第3話

僕とヤヨイ様は深い縁で結ばれている。しかし、ヤヨイ様の前世が人間で、僕の先祖が彼女と恋人関係にあった、とかそういう壮大な縁ではない。実はヤヨイ様は僕が最初に声を聞いた桜なのだ。


僕には両親がいない。僕が退院してしばらく経った頃に事故で亡くなったからだ。学生時代を養護施設で過ごした僕にとって、ヤヨイ様はまさに祖母のような存在だった。彼女にとってはきっと僕は孫のような存在なのだろう。だから、彼女が弱っていること、寿命が近づいているということは、村長や村人達に限らず僕にとっても一大事なのだ。子供の頃から慕ってきた大好きなおばあちゃんがもうすぐ旅立ってしまうかもしれない、そういう悲しい、寂しい思いを経験した人はたくさんいるだろう。僕は今、まさにそんな気持ちなのだ。


『咲人、実はあんたに頼みがあるんだ』


意を決したようにそう言うヤヨイ様に、僕は少し緊張感を覚えながら返事をした。


『はい、なんでしょうか』


『あんたも知っているとは思うけど、この村はもうすぐ無くなってしまうんだ』


『はい、もちろん知っています』


『いつものように私の世話をしに来てくれた時、村長が教えてくれたんだよ。ヤヨイ様、この村が遂に無くなっちまう時が来ました。数年前からどんどん村から人が去っていく度にわしは、いつかこの村は誰もいなくなり、消えてしまうんじゃないか、と。それが現実になってしまった、と。


村長は私の足元に散らばっている折れた小枝を拾い集めながら、ポロポロと涙を流してねぇ。声を絞り出して泣いていたんだよ。あれはきっと村が消えることを知った日だったと思うんだ。私もそれを聞いた時は悲しかったよ。村長を始め、この村には長年、世話になったからねぇ。私は必死に村長に語り掛けたのさ。


泣かないでおくれ、と。村は消えてしまうかもしれない。でも、それは地図から名前が消えるってだけだ。例え、名前が無くなっても、村はずっとここにある。あんた達の存在だって絶対に消えることはないじゃないか。世界中の人々の記憶から消えてしまっても、ずっと長い間、この場所からあんた達を見てきた、あんた達が心を込めて世話してくれた、私は絶対に忘れない。だからどうか、悲しまないでおくれ、と。でも、私の声は村長の耳には届かない。どんなに必死に声を掛けてもね』


ヤヨイ様は悲しそうに溜息を吐きながらそう言った。


その時、彼女は一体どんな気持ちだったのだろう。嘆き悲しむ村長の姿を目の前にしながら、何もできない自分。とても悔しくて堪らなかったはずだ。僕がもし彼女だったなら、きっとそう思ったはずだ。その時、僕が彼女のそばにいてあげられたら、村長、そして彼女の心を通わせてあげることができたのに。僕がいくら桜の声を聞くことができると言っても、それには限度がある。ヤヨイ様だけではなく、きっと日本全国の桜が自分の周りの人々と上手く心を通わせることができずに同じような思いをしているはずだ。仕方のないことだとしても僕もまた、自分の無力さを思い知った。とても悔しかった。僕はやるせない思いで押し黙っていたが、ヤヨイ様は話を続けた。


『あんたもよく知っての通り、私はこの村の人々に沢山世話になった。だから、この村が無くなってしまう前に、彼らの為に何かしてやりたいんだ。私はもうきっと長くない。正直言ってこの春、花を咲かせられるかどうかも……』


今にも消え入りそうな彼女の声に僕は胸が張り裂けそうになった。


『ヤヨイ様、気をしっかり持ってください!あなたはまだ生きられる。こんなに生命力に溢れた桜はあなた以外にいないんです!』


『私は最後に彼らの力になりたい。恩返しがしたいんだ。今、やらなければきっと私はもう……』


『ヤヨイ様……』


彼女は泣いているようだった。声色からしか判断ができないが、声が微かに震えていた。様々な思いに揺れる彼女の姿は、先ほど僕に自身の思いを必死に訴える村長の姿と重なり、僕は胸が熱くなった。昨晩、僕の名前を呼んだのはやはりヤヨイ様だったのだ。彼女の強い思いが僕をここへ導いたのだ。ヤヨイ様、そして村長や村人達の強い思いを受け、僕は決心した。


『分かりました。ヤヨイ様、実は僕は、彼らの方からもある依頼を受けているんです』


『村長や村の人々からかい?』


『そうです。実は彼らも、この村が無くなってしまう前にあなたと素晴らしい思い出を作りたいと考えているんです』


『おやまぁ……!』


途端にヤヨイ様の声が明るくなった。彼女の弾んだ声がとても嬉しく、僕も彼女と同じ調子で明るく話を続けた。


『たった今、あなたのお気持ちをお聞きして、村長や村の皆さん、そしてヤヨイ様はやはり遥か昔から深い絆で結ばれているんだということを改めて実感して、僕はとても胸が熱くなりました。皆さんの橋渡しができることを僕は嬉しく思いますし、とても光栄です』


『咲人……』


『具体的なことはまだ何も決まっていませんので、これから僕が村長と村の皆さん、そしてヤヨイ様の双方のお気持ちを詳しく聞かせてもらいながら、素晴らしい思い出を作っていきたいと考えています』


『そうかい。ありがとうね、咲人。あんたにも本当に小さい頃から世話になって……この村で生きられて本当に良かったよ』


ヤヨイ様は安堵したような優しい声でそう言った。胸の奥でずっと思い続けていたことを打ち明けたことで少し心が軽くなったようだった。僕は話を続けた。


『ヤヨイ様、具体的にはどんな事を彼らにしてあげたいと思っているんですか?』


『そうだねぇ、私は人間ではないからねぇ。できることと言ったら花を咲かすことぐらいだよ。その花も咲かせられるかどうかは分からないがねぇ……』


『ヤヨイ様。人は誰かの為に、と思えば自分でも驚くぐらい大きな力が湧いてくるものなんですよ。僕もそうです。この仕事をしていると、とても思います。桜だって同じです。姿は違うけれど、僕達には命がある。同じ生き物です。どんな事でもいいから誰かの力になりたい、恩返しがしたい、と思うことはとても素晴らしいことです。


心の底から深く、強く、そう思えば、きっとヤヨイ様は今までとは比べものにならないぐらいの、素晴らしい満開の花を咲かせることができます。僕はそう思います。いや、絶対に、あなたなら咲かせられる』


僕はヤヨイ様にこれからもずっとずっと生きて欲しい。だから僕は、彼女の心に強く語り掛けた。いや、僕自身の、そして村長や村人達の熱い思いを訴えかけた。ヤヨイ様はしばらく黙って聞いていたが、やがて意を決したように声を上げた。


『よし、分かったよ、咲人。あんたの気持ちは凄く伝わったよ。そうだね、弱気になってちゃあいけないね。私はこの日本で一番息の長い桜だ。最期に盛大にひと花咲かせてみせようじゃないか』


『ヤヨイ様、ありがとうございます。村長と村の皆さんにしっかりとお伝えします』


『ああ、頼んだよ』


ヤヨイ様は嬉しそうにそう言ったのだった。


今、この世の中で「桜の声」を聞くことができる人間は僕しかいない。だから全ての桜の声を聞くことはとても難しい。全国から届けられる仕事の依頼の手紙を読み、その中から僕が重要と判断した桜を毎年ピックアップし、現地に赴いている。重要性のある桜とは、例えば、もうすぐ寿命を迎えそう、あるいは土地開発によって伐採されそう、といった危機感を覚える桜。あと、芽を出したばかりの若い桜などだ。


僕は耳が聞こえないので電話はできない。だから、手紙で依頼を受けて重要だと判断したら早々に現地に赴く。そして、実際に住人達に話を聞きながら、桜と対話をするのだ。もちろん届いた手紙には全て返事を出している。そうやって僕は一年中、全国を旅しているのだ。


僕はヤヨイ様に別れを告げた後、村に戻った。「民宿たけだ」に顔を出すと、食堂で村長や仁哉の家族、村人達が待っていた。僕は彼らに一礼をすると早速ヤヨイ様の要望と思いを手話で伝えた。


(ヤヨイ様も村長や皆さんと同じで、この村のために何かできることはないかと考えてくれていました。お世話になった皆さんにぜひ恩返しがしたいとのことです)


彼らの顔が一斉に明るくなった。村長にいたっては目に涙さえ浮かべている。


(皆さんの思いと要望を伝えたところ、とても感激していました。自分が花を咲かせられるのはこれで最後かもしれないから、立派な花を咲かせたいとも言っていて……ヤヨイ様にはこれからも長生きしてもらいたいのだということを強く伝えたのですが、決心は固いようで……)


彼らの顔が再び曇る。しばらくの間、誰も何も言わなかった。が、その沈黙を破ったのは仁哉だった。


(……花見だよ。昔やったようにさ、村を上げて盛大な花見しようぜ!)


(仁哉くん、それは名案じゃの!)


(ナイスアイデア!)


こうして仁哉のアイデアが満場一致で決まったのだった。昔、この村では盛大な花見を開催していた。「桜まつり」と題し、村を上げてのお祭りだ。ヤヨイ様がまだ元気だった頃のことである。

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