第4話
僕は11歳の頃、ある病をきっかけに聴力を失った。それまで聞こえていた音が一切失われてしまったことは幼かった僕にとって恐怖だった。それでも何とか両親や周りの人達に支えられて生きてきた。が、その両親はある日突然、交通事故で亡くなってしまった。健常者だった両親は耳が聞こえなくなってしまった僕の為に、手話を取得して僕に教えてくれたり、沢山の愛情を注いでくれた。ショックを受ける暇もなく、僕は隣町の養護施設に預けられた。僕がヤヨイ様と初めて言葉を交わしたのはその頃のことだ。
ある日、僕は一人で「桜まつり」に出かけた。村の外れにある山をせっせと登った。僕がヤヨイ様に会うのはこの時が初めてではない。「桜まつり」は僕が物心ついた時には既に行われていたので、両親は幼い頃、僕をまつりに連れて行ってくれた。その頃の僕はまだ耳が聞こえていたのでヤヨイ様の声を聞くことはできなかった。闘病中はずっと病院にいたのでまつりに足を運ぶことはできなかった。だから僕にとってはこの時が久しぶりの「桜まつり」だったのだ。
山の上に辿り着くと、真っ青な空の下で満開の桜を咲かせるヤヨイ様の姿が見えた。その姿はとても雄大で堂々としていて、とても美しかった。普通の人なら木々を揺らす風の音や鳥のさえずる声など自然の音が聞えて更に心を打たれるかもしれない。しかし、僕にはヤヨイ様のその姿だけで十分だった。何の音も響かない静寂の中で見るヤヨイ様の壮大な姿。音がないからこそ視覚がより研ぎ澄まされて鮮明に見えるのかもしれない。久しぶりに見たその姿に僕は幼いながらも一瞬で心を奪われた。4月の半ば。温かい陽気が心地よかった。僕の心もじんわりと温かくなったのだった。
ヤヨイ様の周りにはお祭りの屋台や縁日が沢山並んでいた。ヤヨイ様と共に楽しみたいと村の人々が積極的に用意し、開いた店達だ。多くの子供達は皆、屋台や縁日の前で瞳を輝かせていた。ヤヨイ様の桜も素晴らしいけれど、子供ならばそちらに目が行ってしまうのは当然だろう。しかし、僕は違った。気が付いたらヤヨイ様の大きな木の下にいた。まるで何かに導かれるように。すると、その時。
『坊や、そんなところに突っ立って、一体どうしたんだい?』
(⁈)
僕は驚いて辺りを見回した。聞こえないはずの声が僕の頭に響いてきたからだ。きょろきょろと辺りを見回して、耳を澄ませてみた。しかし何も変わったところはない。ただ静寂が広がっているだけだ。
『坊や、喋ってるのは私だよ。あんたのすぐ目の前にいる』
僕は辺りを見回すのをやめ、振り向いて正面を見た。そこにはヤヨイ様がいる。黒々とした太くてどっしりとした幹が目の前にある。僕はその時、気づいた。この声の主の正体に。
『……もしかして、ヤヨイさま?』
『そうだよ! ようやく気付いてくれたね! あぁ、まさか人間と話ができる日が来るなんて……!』
ヤヨイ様はとても喜んでいた。桜の木が人間の言葉を話す。そのことに僕は信じられない気持ちでいっぱいだった。が、頭の中ではヤヨイ様の明るい声が響き渡っている。これが夢ではなく現実であることを物語っていた。ヤヨイ様の声は今でこそすっかりおばあちゃんの声になってしまったけれど、この時はまだ若々しかった。中年女性のような声、といったら伝わるだろうか。
『私の声に反応してくれたのは坊や、あんただけだよ』
『ほかの人には聞こえないの?』
『どうやらそうみたいだよ。ここに来る人間達に話し掛けているんだけどねぇ。誰一人答えてくれた人はいないよ』
ヤヨイ様はそう言うと悲しそうにため息を吐いたが、言葉を続けた。
『ところで坊やはあっちの屋台や縁日なんかは見に行かないのかい?』
『……うん。だってボク、耳がきこえないから』
僕がそう言うと、ヤヨイ様が一瞬息を飲んだ気配がした。しかし、彼女はすぐに言葉を続けた。
『……そうかい。じゃあ、もしかすると、あんたが私の声を聞くことができるのはあんたの聴力と引き換えに神様がくれた力なのかもしれないね』
ヤヨイ様の言葉に僕はハッとした。神様がくれた力。信じられないけど、そうなのかもしれない。そう思うと少し明るい気持ちになった。
『そうかもしれないね』
僕はその時、ヤヨイ様に自分のことを打ち明けるべきなのか悩んだ。しかし、彼女は僕にとって唯一言葉で会話ができる相手。それに、彼女の言う通り本当にこれが神様がくれた出会いならきっと良いことなんだろう、そう思ったのだ。ヤヨイ様は僕が何かを考え込んでいることを察したのか、何も言わずにじっと待っていてくれていた。
『……ボクは病気で耳がきこえなくなっちゃったんだ』
僕はその後、ヤヨイ様に簡単に身の上話をした。自分は小学5年生だが、両親を事故で亡くして養護施設で暮らしていること。普通の学校ではなく難聴者のための学校に通っていること。そして、自分は人と違うということに悩んでいることなど。
『しせつの人も学校の友だちも、みんなよくしてくれるんだ。だから、なにも不安なんかない。けど……こうやって村の中とか、町の中でまわりを見るとやっぱり自分はみんなとはちがうんだって思っちゃって……』
僕はそう打ち明けながらも段々と胸の中に抱えた不安が大きくなっていくのが分かった。すると、何かを察したヤヨイ様が言った。
『坊や、名前は?』
『……野樹咲人だよ。花が咲くの咲くに人って書くんだ』
『まぁ! 良い名前だね! 咲人って名前の子が桜と言葉を交わせる。素晴らしいじゃないか。これは間違いなく神様があんただからこそ与えてくれた力だよ、咲人』
ヤヨイ様はとても嬉しそうにそう言った。それは僕を励まそうとしてくれているのはもちろん、彼女自身も心から喜んでくれているのが伝わってきた。
『そっか。そうだよね!』
『ああ、きっとそうだよ。さぁ、咲人。私とあんたの出会いをお祝いしよう』
『うん!』
こうして僕とヤヨイ様の交流は始まった。手話を使わずに誰かと会話をすることが楽しくて、僕は毎日学校が終わるとヤヨイ様の元へ走った。しかし、その頃からだろうか。楽しさを見つけた僕の日常生活に再び暗雲が立ち込めるようになったのは。
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