第2話

午後、早速村長と村人達と共に彼女の元へ向かった。信州の山奥にあるこの村は3月下旬の今は道端に少しばかりの残雪。雲ひとつない快晴でも、厚い上着を着こまないと寒さには耐えられないほど冬の名残があった。ヤヨイ様の元へは「民宿たけだ」から歩いて片道30分はかかる。そこは村の外れにある山の中。山というと富士山みたいな壮大な山を想像するかもしれないが、ヤヨイ様がいる山は違う。もっと小さくて山というよりも丘といった方が正しいかもしれない。だから、片道30分の道のりを歩くことは特に辛くはなかった。


僕は足元の雪を踏みしめながら考えていた。村長からの依頼のことだ。彼は「思い出を作りたい」と言った。村長と村人達にとっての「思い出」とは果たしてどういう物だろう。彼の熱意に押されて引き受けたものの、具体的なことをまだ話し合ってはいない。僕はどうするべきか悩んでいた。とにかく、まずはヤヨイ様と話をしてみよう。彼女だってきっと、この村が消えてしまうことについて胸を痛めているに違いないのだ。僕に出来ることは村長と村人達、そして、ヤヨイ様、それぞれが考えていることをよく聞き、理解し、橋渡しをしてあげることなのだ。


雪が残る緩い坂道をやっとの思いで進むと、急に目の前が開け、広い丘に出た。その丘のてっぺんで彼女は僕達を待っていた。


『あんたはもしや……咲人かい?』


その声は僕が1年前に聞いた時に比べると、明らかに弱っているように感じた。人間ひとりひとりに「声色」があるように、桜にも「声色」がある。今の僕にはもう人間の「声色」を聞く事ができない。が、幼い頃、聴力を失う前に聞いた色々な「声色」は未だに僕の耳に残っている。その「声色の記憶」を辿って、彼女の声を人間に例えると「お婆さん」の声だ。少し高めで、掠れたような……それでいて温かみのある優しい声。僕は彼女の声を聞く度に、何だか祖母と対話をしているような気分になり温かい気持ちになる。


『ヤヨイ様、こんにちは。お久しぶりですね』


彼女と僕達の間にはまだ距離があったが、僕は丘にそびえ立つその姿を目にすると、すぐに言葉を返した。


本来なら耳は外の音を聞き分けるものだが、僕の耳はそれができない。だから、ヤヨイ様の声は僕の頭の中に直接響いている。例えるならば、頭の中に直接スピーカーを接続しているといったところだろうか。僕も声には出さずに頭の中でヤヨイ様に語り掛けている。


僕は村長や村人達に今、ヤヨイ様と会話をしている、という内容を軽いジェスチャーで伝えた。すると、村長や村人達の表情に笑顔が戻った。先頭を歩いていた村長が振り返り、笑みを浮かべながら僕の背中を押し、前へと促す。僕は先頭に立って彼女の元へ急いだ。自然と足が速くなり、小走りになった。まるで、夏休みに故郷に住むおばあちゃんに会いに行く小学生のようだ。


今はまだ雪が残っており、一面真っ白だ。けれど、この丘は春になるとたくさんの草花が咲き誇る。ヤヨイ様の咲かせる美しく壮大な桜の花と共に、まるで天国のような風景が楽しめるのだ。1年前に見たその美しい風景を思い出しながら、僕は彼女の前に立った。黒々とした太い幹には真っ白な雪がこびりつき、すぐ下の地面もまだ草や土が見えないほど雪に覆われている。村長が言った通り、雪の重みに耐えきれなくなったのか、細い枝や添え木が所々折れたり、倒れたりしている場所も目立っていた。


『……見ての通り、私はもうぼろぼろさ。ここに立っているのもやっとなんだよ』


彼女は溜息を吐きながら悲しそうにそう呟いた。その声はあまりにも弱々しく、彼女の命の灯が今にも消えかかっていることを感じ、僕の胸は強く締め付けられた。しかし、感情を表に出すまいと必死に笑顔を作る。


『何を言っているんです。あなたはこの日本で一番長生きの桜なんですから、これからも堂々と、美しい花を咲かせてもらわないと困りますよ!』


『ありがとう。咲人。あんたは本当に優しい子だねぇ。昔からちっとも変わらないよ』


『昔の話はよしてくださいよ。未来の話をしましょう。僕と……いいや、村長と村の皆さんとヤヨイ様のこれからのことを』


僕はそう言いながら、後ろで僕と彼女のことを静かに見守っている村長と村人達を振り返った。そして、彼女の様子と言葉を手話で簡単に伝えた。彼女が心身ともに弱っていることを伝えると、彼らは皆悲しそうな顔をした。その様子をじっと見守っていたヤヨイ様が、村長と村人達に言った。


『また来てくれたんだねぇ。こんな老いぼれの為にいつもありがとうね。私はあんた達のおかげでこうして何とか生きていられるんだよ』


それはとても優しく、まるで彼らを包み込むような声色だった。しかし、彼らには彼女の言葉を、声を、直接聞くことはできない。僕は彼女の言葉を一字一句間違えることなく伝えると、こう続けた。


(ヤヨイ様はまるで村長、そして皆さんを包み込むような優しい声でそう言われました。心の底から、皆さんへ感謝の思いを伝えたいのだと思います)


すると、村人達の表情が一斉にパッと明るくなった。村長が何事かを彼女に直接語り掛けた。彼女は嬉しそうに一言、分かった、と呟くと、今、村長が自分に対して語ってくれたことを僕に伝えてくれた。


『咲人、今、村長はこんなに嬉しいことを言ってくれたよ。わしらはこれからも皆であなたをお支えしていくつもりじゃ。例えこの村が無くなってしまっても、ずっと、一生、わしらはあなたをお支えてしていく。どうか、気をしっかり持っていつまでも長生きしてくだせぇ。だと……涙が出るよ。咲人、村長によろしく伝えておくれよ』


『分かりました。必ずお伝えしますよ』


僕は心を込めてそう返事をすると、ヤヨイ様の返答を村長に伝えた。僕には人間の声が聞こえないが、桜の声が聞こえる。桜は僕の言葉も人間の声も聞こえる。しかし、人間には桜の声が聞こえない。このトライアングルに僕は度々悩まされる。聴力を失ったことで桜の声が聞こえるようになったけれど、それは時にこうしてもどかしい気持ちにもなるのだ。人間の声も、桜の声も、両方聞こえたなら、どんなに幸せだろう。もっと沢山、人間と桜の「橋渡し」ができるのに。僕は常々、そう思っていた。しかし、それは到底叶わない夢のように思えた。


その後、村長と村人達はいつものように折れた小枝を拾い集めたり添え木を直したりと、ヤヨイ様の身の回りの世話に取り掛かった。一人一人に役割が与えられている事もあり、その手際はとても良く、あっという間に終わった。その間、僕も何か手伝えることはないかと村長に手話で尋ねたが、村長はにこりと笑って首を横に振った。


(わしらは一旦、村に戻るが構わないかの?さっきあんたに話をした例の件を皆で話し合おうと思ってな)


(はい、構いません。先ほどの件、ヤヨイ様には僕の方からお伝えします)


(ありがとう、よろしく頼んだぞ)


村長はにこりと微笑むと、ヤヨイ様に挨拶をした。他の村人達もそれぞれヤヨイ様に挨拶をし、村長と村人達は山を下りて行った。ヤヨイ様は彼ら一人一人の挨拶に対して、いつもありがとう、また来ておくれ、と優しい声色で返した。もちろん、僕はその言葉ひとつひとつを丁寧に彼らに伝えた。

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