九話

 その後もプログラム通りに司会は進んでいき、結果発表も目前に迫っていた。となるとやはり、周りの空気も緊迫としたものになる。何度このような場を体験しようと、やはり簡単になれるようなものではない。ふと、先ほど女性からもらったしおりをスカートの中から出した。星のような花びらを持つこの花の名を亜美は知らない。花芯の近くは濃いピンク色が散りばめられ、何とも可愛らしい花だ。

「ん?亜美誰からもらったの?それ」

 隣からひょっこりと未来が顔を出した。しおりをくるりと回し、顔に近づける。匂いはしなかった。ただかすかに古い本の香りがした。悪くない香りだ。

「本番前に、綺麗なお姉さんからもらったんだけど……何の花か分からなくて」

「……ふーん、なんか怪しいなあ。幽霊からもらったとかじゃないのー?」

「ええ!そんな……」

「えへへ、冗談だよ。それよりこの花はね『オドントグロッサム』っていうんだ」

「おど……何て?」

 なんだかうどんみたいな名前だ。可愛らしい見た目の割には、随分とごつい名前をしている。少しがっかりだ。未来がくすりと笑みをこぼす。

「オドントグロッサムね。ラン科の植物で、星型の花弁が特徴的なお花なんだ。比較的、中南米の標高が高いところで栽培されるから、日本ではあまり流通してなくてね。日本では見かけることが少ないらしい」

「へえ。未来お花に詳しいんだね。初めて知った……」

「いやいや、そういうわけではないよー。でね、このお花は和名が素敵でね『彗星蘭』っていわれてるんだ」

 彗星蘭、と口に出してみる。星のような見た目を持つそれにぴったりな名前だ。そういえば、このような花の形はあまり見たことが無い気がする。空にかざすと、日光に花弁が透け、ステンドグラスのように輝いた。美しい花だ。

「そういえば、花言葉ってあるの?これは」

「あるよ、素敵な物がねー」

 花言葉は、と未来は呟くと少し戸惑ったように一度口をつぐんだ。何か問題でもあるのだろうかとのぞき込むと、彼女は一気に言葉をまくしたてた。

「——『特別な存在』かな」

 隙間から風がびゅっと吹き込む。すっかり秋空が広がるこの季節だけあって、風も冷たい。「特別」。そういえば、あの女性はやたらと「特別」を誇張していた。

「あなたは世界の特別、特別は至高の価値。即ち特別こそ最大の武器なり」

 そうつぶやくと、未来はバッとこちらに視線をよこした。

「なんで、亜美がそれを……」

「しおりをくれた人が言ってた」

 そういうと、彼女は「ああ」とだけ呟き、空を見上げた。何かを決心したかのように、未来は静かに息を吐き出した。

「はは。あの人らしいな。特別を追求し続けた人だけあるよ」

「えっ、未来知り合いなの?」

 すくりと立ち上がると、未来をこちらを見下ろした。

「まあ、そんなものかもしれないねー」

「まあたごまかして……」

「言いたくない時もあるよ。そっか、亜美もずっと止まってるわけじゃないもんね。私も、今が『変わり時』か」

 はてなマークで頭が覆い隠された。と、その時、楓と華子がこちらに駆け寄ってきた。

「そろそろ席に座って待ってろだってさ!」

「いこー」

「あっ!分かった!」

 亜美が歩きだしても、未来は立ち止まったままだった。

「未来?」

 そう呼び掛けても反応がない。じれったくなったので、彼女の腕を引っ張った。そこでようやく気付いたのか、未来がハッと面を上げた。

「ご、ごめん」

「いいよ、とにかく早くいこ」

「うん」

 楓と華子は心配そうに首を傾げたが、そこまで重く捉えていなかったらしく、すぐさま踵を返した。ぴょんぴょんと跳ねる二人のポニーテールを見ていると、なんだかこちらまで心が跳ねてくる。二人の元気さが、今の亜美にはかなり羨ましかった。


 結果発表は大ホールにて、アナウンスで行われる。会場にいる全員が吹奏楽部に属していると思うと、世の中広いな、と思ってしまう。それぞれが、それぞれの吹奏楽でどんな経験をしたのだろう。そんなことを想像すると、なんだか背筋に温かいものが流れていくような気がする。

「これより、表彰式に入ります」

 役員がマイクを手に取り、スーテジ上で表彰を行っていた。それぞれの学校の幹部二名ずつが整列している。県ノ坂中学校はプログラムが早かったので、すぐに順番が回ってくるだろう。きらりと輝く、他のものよりも大ぶりなトロフィー三つは、全国への切符を手に入れた学校に贈呈される。全国大会に進むには、少なくとも金賞を取る必要がある。自然と握る両手に力が入った。

「プログラム一番、愛知県代表、名古屋市立木曽谷なごやしりつきそたに中学校、銀賞」

 どこかからか、残念がるような声が聞こえた。聞いたところ、やり切ったという所だろうか。いや、他校の心配をしている場合ではない。次は県ノ坂だ。思わず息を止める。

「プログラム二番、長野県代表、松本市立県ノ坂中学校、ゴールド金賞」

 周りから歓喜の声が飛ぶ。その声とともに、亜美は息をゆっくりと吐きだした。よかった、金賞だ。でも、まだまだ気は緩められない。金賞だからって、全国へ進めるわけではないからだ。その後着々と発表は続いていき、次の段階へと入った。

「続きまして10月に行われます、全国大会へ出場する団体を発表いたします。全部で三校です」

 発表はプログラムの速い順に行われる。つまり、一番最初に呼ばれなかった場合、県ノ坂は全国へ出場はできないのだ。咄嗟に未来と手を合わせる。手に力が入り、目をぎゅっと瞑る。頼む、入っていてくれ。

「——一校目、プログラム六番、金沢市立波かなざわしりつなみおか中学校」

 するり、と手の力が抜ける。遠くから、痛いほどに歓声が聞こえる。全身から嫌な汗が噴き出た。あまりもの一瞬の出来事に、亜美は頭ん処理が追い付かなかった。

「嘘、波中って去年銅賞だったじゃん」

「顧問が変わったらしいよ」

「うわマジ?顧問の力ってすごー」

「県ノ坂の時代も終わったのかね」

 ここだけ時が止まってしまったかのような、そんな感覚だった。悔しさも、悲しさも何も感じられず、そこにあるのは無だった。だが無情にも、発表は続いていった。

「二校目、プログラム十六番、浜松市立五里はままつしりついつさと中学校」

「三校目、プログラム十九番、諏訪市立信州大学付属諏訪すわしりつしんしゅうだいがくふぞくすわ中学校。以上三校です」

 他の二校はいつも通りだったらしい。その後、閉会式に入ったが、県ノ坂の雰囲気はそれどころではなかった。泣き崩れるもの、互いに励ましあうもの。間違いであってほしかった。ステージにもう一人役員が入ってきて、それらを修正してくる。ただそれは幻想にすぎず、役員も入ってはこなかった。まぎれもない、これが現実だ。

 こうして、県ノ坂中学校の夏は、終わりを告げた。


 パート内で帰り際に集まった。いつも元気さはまるでなく、ただ真ん中にある荷物を囲んで立ってるのみであった。何か言おうと口を開こうとしても、言葉が空振りしていく。ダメだ、自分では何もできない。その結果、異常に静かになってしまったのだ。

「ちょっと、何を囲んでるの?そんな顔してたら楽器が怖がるでしょ?」

 突如明るいトーンの声が響き渡る。振り向くと、ハンカチを握った小春先輩がこちらに歩み寄ってきていた。目元は赤く、無理やりぬぐった跡がくっきりと残っていた。

「確かにさ、全国に行こうって約束をしたのに行けなかったけど。でもさ、今までで一番の演奏をしたじゃん!先生も、最高だったって言ってた。しかもみんな聞いたでしょ?島さんのあのソロ!めっちゃ凄かったわ。その後の合わさるところも完璧で、私凄く感動した。こんなに凄い仲間を持てて、私幸せだなあって。もちろん、メンバーじゃなかった子たちも、陰でいっぱいフォローしてくれて心強かった。これで私たちは仮引退ではあるけど、これは来年への一歩だと思って。私達は、歩みを止めてはいけない。分かった?」

「……はい!」

「うん、その調子!」

 そんなあなたが一番すごいです、と亜美は思った。こんなにも空気を換える才能を持つなんて、誇るべきです。そう伝えたいが、彼女は恐らくもうすでに自負しているだろうから、伝える必要はなさそうだ。

「って、ことで。来年の正副パートリーダーを任命いたします!」

「ええっ!?」

 一年生組が思わず叫んでしまう。小春先輩はすすき先輩に首を傾げると「言ってなかったけ?」とつぶやいた。すすき先輩はぶんぶんと首を横に振った。それをみて、小春先輩がこほん、と口に手を当てた。

「これは県ノ坂の伝統なんだけど、最後のコンクールが終わったら、パートリーダーを指名するんだ。だから事前に副パートリーダーと相談しないといけないんだよねえ」

「まあ、今回はさほど決めるのに時間はかからなかったけど」

すすき先輩はそういうと、得意げに眼鏡をクイと持ち上げて腕を上下させた。いまだにその行動の意味を理解できない。再び小春先輩がこほんと咳払いし、全員に目配せした。

「来年はパートリーダーを島さん、副パートリーダーをゆりっちにやってもらいます。はい、みんな拍手~」

 拍手を抵抗なく二人に送った。まあ、妥当な配役だと思った。百合先輩は「ええっ」やら「そんな」やら戸惑いながらも結局は同意していた。島田先輩は……もはや反撃をあきらめているらしく、時の流れに身を置いているようだった。これではまるで遊びに付き合う父のようだ。ん?案外父と呼んでも違和感がないかもしれない。今度楓に言ってみよう。

 その後、ゆったりとした時間が続き、バスへ乗車する時間になった。そのときに、華子がこうつぶやいた。

「あれ、未来と島さんいなくないですか?」

 亜美は一度ぐるりと辺りを見渡した。確かにいないようだ。そこで、亜美はふと先ほどの言葉を思い出す。

―—私も、今が『変わり時』か。

 亜美はとっさに小春先輩に向き合った。

「私、探してきます」

「えっ?ああ、うん!じゃあ、あみこちゃんに任せた!時間通りに戻ってきなよ!」

「はい!」

 亜美は全力で走り出した。なんだか嫌な予感がしたのだ。そういえば、合宿の時から少し様子がおかしかった。よく言えば、未来と島田先輩は「混ぜるな危険」と呼べるほどの未知数な組み合わせだ。ホール裏の事務所玄関のところにもいない。こうなったら、場所はあそこしかない。

亜美は、広場で見つけた一部が外から見えない建物の方へかけていった。すると、そこに二人分の影ができていた。亜美は、近くの大木に身を隠した。この声は、確かに未来と島田先輩だった。

「大会、終わりましたね」

「……」

「ソロ素晴らしかったです。有意義な時間をありがとうございました」

「……それだけなら、もう帰る」

 くるり、と影が踵を返した次の瞬間、影が一つに重なった。バランスを崩したのか、影が大きく揺れた。

「ちょっと」

「……ごめんなさい」

「は?」

 怪訝そうな声が、建物の間で小さく反響した。

「私、ずっと本気を出さないのは部活内だけの要因だと思ってました。……でも、実際はそれだけじゃなかった」

「どういう意味?」

「エゼ兄さんのことも、関係していたんですね」

 ひゅっ、と息を吸う音が聞こえた。一呼吸あり、言葉をつづける。

「私、あの日エゼ兄さんと会っていました。あの方はいつも、笑っていましたね。でも、彼はいつもあなたの話をしてました。凄いやつなんだって、何度も、何度も」

 未来の口調は少しずつ強くなっていっていた。亜美は夢中で耳を澄ませた。

「それで、私拗ねたんです。「もう聞きたくない」って、私はたまらず飛び出しました。ところで、エゼ兄さんの死因はご存じですか」

「事故死って聞い……て、まさか」

「ええ、彼はちょうど突っ込んできた軽トラに、私を庇って亡くなりました。察しの良いあなたなら、もうわかりましたよね」

「つまり君は、自分は人殺しとでも言いたいの?」

「実際は同じものです。自分の軽はずみな行動で、一つの命を奪っているのですから。だから、私は馬鹿らしくなりました。あれだけ本当の音を聞きたいといったのに、言った本人がきっかけとなって演奏が崩れていっていただなんて」

 本当に、滑稽ですね。そう呟く未来の声は、酷く震えていた。何か言ってあげるべきではあるが、今は出るべきではない。本能がそう叫んでいた。

するとしばらく経ち、島田先輩が盛大にため息をついた。今まで聞いたことが無いほどの大きなため息だった。

「君って、最高に馬鹿だね」

「そりゃあ、エゼ兄さんも優秀なあなたに惹かれているんですから、対照的に私が馬鹿になりますよ」

「だから、そういうところが馬鹿だっつってんの」

 一つになっていた影が、再び二つになった。

「いい?いくらエゼが君を庇って亡くなろうが、俺は君を責めないし何とも思わない。ていうか、もしかして妹が君にやたら執着してたのってそれが目的だったの?こっちで始末はつけておくから、君は……エゼにお参りでもしに行ったら」

「そんなことしてもらうわけには……」

「いくら親同士が仲が悪くても、俺は君の従兄だから」

 そう島田先輩がいうと、次の瞬間割れんばかりの泣き声が響き渡った。

「はあ、なんで泣くの。面倒くさ」

 どうやら、あちらですべて解決したらしい。これならそのうち帰ってくるだろう。そう思って振り返ると、なぜか川本先輩がいた。亜美は盛大にしりもちをついた。

「な、なぜここに?」

「いえいえ、不審者がいるなと監視させていただいただけですよ」

 にこり、と営業スマイルを浮かべられ、思わず苦笑いを浮かべた。本当にこの人は神出鬼没だ。

「にしても、彼女もやりますね。覇瑠にもあんなことが言えるとは。新たな発見でした。大変興味深い」

 その時一瞬、視線が氷のように凍てついたのが分かった。目をこすると、もうすでにいつもの優等生に戻っていた。恐らく気のせいだろう。

「で、では、私はこれで戻りますね……」

「ええ、お気をつけて」

 亜美は、彼らに背を向けてバスへと走り戻った。

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