八話

「あ、山だ」

「そりゃ長野県だから」

「山イコール長野県といつから錯覚していた⁉」

「めんどくさ」

 中身のない楓と華子の会話に呆れながら、亜美はバスに身を任せていた。ついに今日は東海大会当日。大会が行われる場所は長野市で、目的地である文化ホールまでおよそ一時間。そう考えてみると、案外長野県は小さいんだなと思う。ほんとうに、世の中便利になった。なんだか我ながら年寄り臭いことを考えている気がする。

「亜美、緊張してるの?」

 隣に座っていた未来が、こちらを覗き込んできた。今日もきっちりと髪がセットされている。それを見ていたら髪型が崩れていないか心配になり、一つに結んだ髪束を二、三度触った。

「どうだろ。緊張もしてるけど、少し楽しみでもあるかな」

 膝の上で固く握りしめた両手は、酷く湿っている。それを一瞥し、亜美は付け足した。

「でも、やっぱり怖いかな」

「怖くなんかないよ。私たちは全国に行くんでしょ?」

「わあっ!」

 突然前から小春先輩が乗り出してきて、思い切り後ろにのけぞる。どきどきと暴れる心臓を落ち着かせるため深呼吸を繰り返していると、小春先輩はニヒヒと笑みを深めた。

「大丈夫、私たちなら行けるよ。ほら!指切りしよう。みらいも」

 こちらにグイッと両手の小指を突き立ててきた。もはやこちら側に拒否権はないのだろう。亜美と未来は顔を見合わせながら、その小指に自身の小指を絡めさせた。彼女はそれを思いっきり上下に振ると、満足げに笑った。

「約束」

 そう呟く小春先輩の隣で、すすき先輩はやれやれと首を振っていた。


 県ノ坂はプログラム番号が早く2番だ。そのため早くに会場へ入場していた。他にもちらほらと生徒は見えるが、やはりホールが異常に空いている。轟部長が運搬の指示を飛ばし、打楽器の部員たちが速やかに移動を始め、コンクールメンバー以外の生徒は会場の係のために散っていく。その間、管楽器の部員たちは、楽器を組み立てる。こうしていると、本番が近づいているのだと実感する。

フルートのメンバーは亜美を含めて六人。選ばれぬかれた、精鋭。やはり、責任感に駆られる。すると、百合先輩がふと両手を叩いた。

「そういえばこは先輩。今年は例の、やらないんですか?」

「例の?」

 なぜか去年やったであろう島田先輩が首を傾げる。それを見てか、百合先輩があわあわと両手を振り始めた。

「島さんあれだよ。二組に分かれてお互いを誉め散らかすっていう」

「あー、思い出した」

 島田先輩がかつての悪夢を思い出すかのように、どこか遠くを見つめている。だが、その気持ちはわかる。なんだそのこの上ないほどに恥ずかしそうなやつ!

「そういえばそんなのあったなあ。去年のメンツは気まずかったけど、今年のメンツでやったら面白そー」

 すすき先輩は、そう言いながら小春先輩の肩を叩く。その言葉にうなずく小春先輩を見ている限り、どうやらすでに決定事項らしい。その場から離れようとする桜先輩を、すすき先輩が強引に引き留めている。

「では私、飯島小春から再度説明を。代々フルートパートには大会当日に行う儀式というものがありまして、そのまんまだけど名を「褒め倒し」って言います。まあ、『褒めまくって自信を持たせる』っていう方向性で考案されたものです。さあ、いざ褒めまくるのだ!」

 じゃんけんの結果、亜美は島田先輩と百合先輩とともに行うことになった。なんというキャラの濃いメンツだろうか。

「は、はは。私褒めるの上手くないんだよなあ……」

 百合先輩がこちら側から目をそらす。視線の先には島田先輩がいたが、なんのことやらと言わんばかりに目を伏せた。

「俺よりはうまいでしょ」

「いやいや、遠回しに褒める天才でしょう島さんは」

「小山はストレートに褒める」

「気遣いの塊にそういわれてもちょっと……」

 ん?なんだかんだで、褒め散らかしてないか?と亜美は思い始めた。だが、なんだかじれったい褒め方だ。ムズムズとしたこの感覚を覚えると、衝動的に亜美は二人の先輩の手を固く握っていた。

「せ、先輩方はも凄いですよ!楽器が上手くて、後輩の扱いが上手くて、人をまとめるのも上手くて。私、先輩方のそういう所凄く尊敬してます。お二方は唯一無二の先輩ですから!」

 一気にまくしたて、ほっと息をついた。言い切った、と面を上げると、なんだか周りが静まり返っていた。どうやら周りの部員にまで聞こえていたらしい。恥ずかしさのあまりしゃがみ込むと、上から何やら聞こえてきた。

「なんだか、照れくさいなあ。でもなんかあみこちゃんらしくないというか」

「神尾っぽい」

「ああ、それだ」

「楓じゃないです!」

 がばりと面を上げると、百合先輩が頭に掌をポンと乗せてきた。

「冗談だよ。ありがとうね、自信出たよ」

 にっこりとはにかむ百合先輩を見て、なんだか心が救われた気がした。

「私、あみこちゃんのそうやってずばっと人の長所言えるところ凄いと思うよ」

「まあ否定はしない」

 顔を背けられながら言われたのは少し残念ではあったが、気持ちはうれしい。やはり、褒めは自信につながるのだろう。立ち上がると、奥の方で轟部長が号令をかけていた。どうやら、リハーサル室へ移動するらしい。——と、その時。急にホールがざわつき始めた。彼女たちの視線の先には、一人の女性がいた。白いバケットハットにブラウンのサングラスが相まって顔はわかりずらいが、随分と綺麗な女性というのは分かった。上品なジーンズワンピースを身にまとった女性は、コツコツとヒールを鳴らしながらこちらに近づいてきた。どうやら、身長が高いようだ。こちらに合わせてかがむと、彼女はサングラスを外してこう尋ねてきた。

「お嬢様方?青い目の男の子を見なかったかな?」

 アースアイの瞳をこちらに向けられ、思わず魅入ってしまう。恐らく、彼女が言っている人は島田先輩だろう。

「それならこちらに……っていない!?」

 先ほどまで隣にいたのに姿形も見当たらない。一体どこに行ったのだろうか。すると、目の前の女性がニンマリと笑みを深めた。

「大丈夫、もう見つけたから。っと、これから本番なのか。じゃあお姉さんがいいこと教えてあげる。『あなたは世界の特別、特別は至高の価値。即ち特別こそ最大の武器なり』。いい演奏を待ってるよ。頑張っといで!可愛いらしいお嬢様」

 こちらの手を握りながら意味深にそう吐き捨てて、彼女は去っていってしまった。なんだか謎の多い女性だ。掌を見ると、黄色い押し花の小さなしおりが握られていた。星のような形をしたそれは、不思議な力に包まれているような気がした。

「あれはあの人の口癖」

「うわあ!いつの間に!」

 急に現れた島田先輩に思わず退く。そんな亜美に構わず、彼は言葉をつづけた。

「まあ、つまりはひとりひとりが強みを持ってるとも言いたいんでしょ」

「そんな簡単に……」

「実際そうだろうからなんともねえ……」

 褒め散らかして満足してきたのか、すすき先輩の表情は晴れ晴れとしていた。

 気づけば、先ほどまで抱いていた不安は消えていた。


 舞台裏で待機していると、向こうからは一個前の団体が演奏している。この曲は知っている。去年の県ノ坂の自由曲「たなばた」だ。どうやら県ノ坂が演奏したきっかけで、演奏する団体が増えているようだ。なんだか、また緊張がぶり返してきたような気がする。自然と楽器を持つ手に力が入る。吸って、吐いて。繰り返していれば、少しは落ち着くだろうか。いや、大丈夫。今までさんざん練習してきたのだ。ここにいる50名なら、絶対にやり遂げられるだろう。

「本当に、信じられないなあ」

 目の前に立つ小春先輩がそう呟く。

「去年は、フルートパートの仲は険悪で今みたいに笑いあうことになるなんて想像もしてなかった。確かに今年も揉めることはあったけど、私はめちゃくちゃ幸せだった。今まで誰も欠けずにここまれ来れたこと、本当にうれしく思ってる。ほんとうにありがとうね」

「それ今言います?」

 百合先輩が小春先輩の方へ歩み寄る。

「私たちがここで終わるわけないじゃないですか。全国に行くんですから」

「あははっ。確かにそうだったね。ゆりっちも先輩らしくなったねえ」

「そ、そんなことっ」

 と、そこで、前の学校の演奏が終わったみたいだ。先輩たちの表情が真剣なものへと変わる。全国への切符を手に入れるためのリベンジが始まるのだ。県ノ坂中学校吹奏楽部は、ステージへ一歩を踏み出した。


「プログラム二番。長野県代表、県ノ坂中学校。課題曲Ⅲ番、自由曲は福松雅作曲『月へのオマージュ』。指揮は等々力雪乃です」

 アナウンスとともに、ステージは明るく照らされる。観客席は暗くなり、あそこに楓たちがいるのかななどと想像してみる。このドキドキは気持ち悪いものではない。かえって快感を感じるものであった。等々力先生が指揮棒を上げ、部員たちが楽器を構える。極限まで緊張が高まり、指揮棒が振り下ろされて演奏が始まった。時がたつのが早すぎる、と亜美は思った。今まで積み上げてきた時間は長いが、演奏する時間はたったの十二分間だ。春の楽し気な旋律が駆け抜けていく。あちらこちらでテーマが展開し、曲も終盤に近付く。ソロに躍り出たオーボエがリスのような飛び跳ねる旋律を奏で、一気に低音楽器が畳みかける。課題曲が終われば、次は自由曲だ。等々力先生は、再び指揮棒を振った。第一楽章『新月』は、低音楽器の優し気なメロディーから始まる。そこへ口を開いたのはホルンだ。揺れるように、静かな夜に一筋の光を導く。ソロの最後のロングトーンに続いて、ほかの楽器も加わっていき、全体がテーマを奏でる。ティンパニがクレシェンドをかけ、チューバが強くうなる。そして盛り上がりを見せたところで曲は次の章へと移り変わる。第二楽章『三日月』は三拍子の舞のような曲調だ。打楽器を主体としたメロディーに、木管は連符で駆け抜けていく。目が回るようなこの個所も、今や得意分野である。グロッケンの見せつけるような超絶技巧なソロに、フルートが相槌を打つ。普通なら苦戦するだろう細かい三連符を大人数で息ぴったりで合わせるクラリネット。これこそ、県ノ坂が誇るクラリネットパートである。チューブラーベルが華やかに打ち鳴らされ、第三楽章『満月』が始まった。トランペットの甘くしびれるようなソロがホール内を支配し、トロンボーンが盛大にグリッサンドを展開する。この章は木管や打楽器が主体の第二楽章とは対照的に、主に金管楽器が活躍する。休符だらけの楽譜に口からリッププレートを離す。満月の夜はとても明るい。そんな意味を込めたかのような明るい曲調に思わず笑みがこぼれる。だが、そんなものも長くは続かない。ユーフォニアムのデクレッシェンドののち、皆が一度楽器を下ろす。それと反対に、島田先輩が楽器を構える。第四楽章『朧月』が始まりは彼に全て委ねられている。一呼吸あり、曲は始まった。力強い一音目。フルートの低音がホール中に広がる。ゆったりとしたテンポではあるが、決して簡単なわけではない。それ相応の表現力がなければひどく単調なものになってしまうからだ。だが、島田先輩は違った。低音から高音へと駆けあがる。ここまで甘美で透き通った輝かしいソロを奏でられるものはいるだろうか。いや、いないだろう。人との別れはいずれやってくる。それでも、出会いは訪れる。別れは次への旅の始まり。その姿は島田先輩に重なった。フルートを構え、孤独なソロへと寄り添う。さざ波のようなクラリネットのトリルは徐々に音が増していき、曲はフィナーレへと向かう。ソロの力強いクレシェンドののち、爆発的にテーマをあちらこちらで奏で始める。チューブラーベルが反復し、サックスとホルンがユニゾンを奏でたのち、トランペットがファンファーレを歌い上げる。最後の一音を放ち、曲は終わりを告げた。等々力先生が上へ指揮棒をクイと上げたので、一同が起立する。その瞬間、割れんばかりの拍手が会場を渦巻いた。やりきった、と亜美は思った。あとはもう、結果を聞くのみであった。

 先輩たちを見ると、やり遂げたかのように自信に満ち溢れていた。

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