七話
壊れた、と亜美は思った。だって、島田先輩はどんな時でも冷静で、このように意見を強要するような人ではないからだ。それに、普段は亜美に全く話しかけてこないのにすがってくるこの状況、明らかにおかしかった。亜美は思い返してみる。今まで、彼が無以外の感情を露わにしたこと。
空気が崩壊している場で、自分の意志を通そうとした過去を話した時、家族のことが新入部員に知れ渡った時、そして亡くなってしまった親友の話を投げかけた時。これらの中で共通することは―—。
「あの、もしかして」
亜美は恐る恐る口を開いた。
「先輩の内面に、誰かが踏み入れようとしてきたんですか」
その言葉に、島田先輩の瞳が同様に揺れた。曖昧な言葉から、何かをくみ取ったのだろうか。彼は、亜美から手を離した。一瞬だけ手が真っ白になり、じわじわと朱を帯びてくる。やはり大分強く握っていたらしい。島田先輩はしばらく目を伏せていたが、しばらくしてフッと諦めのような笑みを浮かべた。
「君は、不思議な子だな」
「と、いいますと……」
「穏やかな雰囲気の割に、相手の心理を探る力がずば抜けてる。涼とは違って確信的なものは感じ取れないけど」
「それほどでも……って、いやいや!そんなことはいいんですよ。良ければ、いきさつを伺いたくて」
「それを知って、君はどうすんの。慰めるの、それとも説得するの」
「そ、それは」
この人のこの話し方は苦手だ。相手を追い込んで、悩ませるこの感じ。と、半開きになっていた扉がガラッと勢いよく開いた。そこに立っていたのは、息を切らして胸を押さえる久保島先輩だった。
「覇瑠、何、してんだよ……」
「久保島、なんで」
動揺する島田先輩をキッと睨みつけ、久保島先輩がツカツカとこちらまで歩み寄る。もともと身長が高いせいか、なんだか威圧感がある。
「ったく、こんな離れたとこ。そりゃあ、いっくら音楽室付近探してても見つかるはずないわ。ただでさえ逃げ足速いのに。しかも後輩いじめてなにしてんの」
「別にいじめてない」
「言い訳禁止!ていうか、轟部長めっちゃ焦ってたけど、何かあった?でなきゃ、お前がここまで取り乱すことなんてないだろ」
「それは」
と、島田先輩の瞳がちらり、とこちらを捉えた。その意図を察し、亜美は慌てて立ち上がった。
「あ、えっと。し、失礼しました……」
静かに廊下へと後ずさった。と、そこで右下あたりに違和感を覚えた。そこに目をやると、うずくまる形で話を盗み聞きしている川本先輩と目が合った。
「なっ、かっ」
慌てふためていていると、川本先輩がジト目で自身の口元に右手の人差し指を当てた。両手で口を手でふさぐと、彼の左手が手招きしていた。こっちへ来いということだろうか。いや、彼の口調に合わせれば「こちらへどうぞ」だろうか。彼の後ろに並び、小声で問いかける。
「いつからいたんですか?」
「そうですね。佐藤さんが『先輩の内面に、誰かが踏み入れようとしてきたんですか』と、名推理を叩き出したところからでしょうか」
「よく久保島先輩にバレませんでしたね」
「そこは裏技ですよ」
「はい。涼様はいつでも周りに気を配ってらっしゃいますからね」
「……!」
突然背後から第三者の声が聞こえ、肩を跳び上がらせる。振り返ると、スーツを着こなした赤メガネの女性がいた。川本先輩が呆れた声でつぶやく。
「
「それは失礼いたしました。しばらく離れていますね」
次の瞬間、消え去っていた。何者だこの朝日奈とかいう女性。
「それより、お話聞かないんですか」
「聞きます」
扉は半開きになっており、少し聞き取りづらい。壁に耳を当てると、いくらか聞き取りやすくなった。
「部長に、なんか言われた?」
「……さっき、楽器吹いてたら轟部長に話しかけられて。『ソロのモチーフと自分を重ね合わせてるんじゃないか』って。確かにそう。どうしても、あの事を思い出すと、あの大会での演奏になってしまう。でもあの演奏は
だから、と彼は言葉をつづけた。
「もう、期待されない方が楽なのかもしれない」
そう聞こえた瞬間、あたりの空気が一気に変わった。なんだか非常にとげとげしい、張り詰めた空気だった。
「何だよ、それ」
その空気を打ち破ったのは、久保島先輩の一声だった。それから、彼は言葉をまくし上げた。
「意味わかんねえよ!期待から逃げれば楽になるなんて思ってんじゃねえよ!なんで、そう簡単に諦め切れるだ?今までなんのために頑張ってきたんだよ。毎日毎日朝から晩まで苦手な箇所をできるまで練習したのは、家族をいつかへなちょこに見えるようになるまで上達したいって言ったのは、去年の三年生を見返してやりたいって言ったのは、大事な親友のためにずっと奏で続けたいって言ったのは、一体どうなるんだよ!そんなちっこい夢だったのか?違うだろ?全部お前が叶えたいって思った、でっかい夢だろうが!」
と、そこでやや取っ組み合う音がした。一体何が起こっているんだ。しばらくして、床が揺れた。恐らく、床か壁にでも押し倒したのだろう。
「痛いっ」
「いいか。期待から逃げた先に待ってるのは後悔なんだよ。俺は、そんなお前なんて見たくない。もちろん涼も、金音も、吹部のみんなも。あと、お前はあのソロを悲観的に考えずぎ。もっと明るく考えろよ。作曲者さんは奥さんと過ごした思い出を曲につめこんでる、つまり、死後のことなんて記しちゃいないんだよ。あっただろ?楽しかった思い出」
「でも、もし拒絶されたら!」
「はあ?今そんなこと言ってるのかよ。思い返してみろよ。今年、お前に対して陰口言った奴なんていたか?ていうか、いるわけねえよ」
「え……」
一呼吸あった後、再び言葉が紡がれた。
「だって、毎日朝早く来て、誰よりも努力して、音楽に誠実な覇瑠を、嫌いになる奴なんているかよ。まあ、性格に難ありなところは認めざるを得ないけど。でもさ、だから、そんなに上手く吹けるんだろ?今まで何があっても練習し続けたから、人をハッとさせるような演奏ができるんだろ?もうとっくにみんな、理解してるわ」
島田先輩が息を呑む音が聞こえた。ひどく穏やかな雰囲気だった。
「覇瑠は、認められてるから。な、分かったら笑って」
が、次の瞬間聞こえてきたのは笑い声でもなんでもなく、張り詰めた糸が切れたかのような泣き声だった。明らかに、久保島先輩が慌てていた。
「ちょ、おまっ、なんで泣くんだよ!俺がいじめたみたいになるじゃねえか!」
「あー、凜桜が覇瑠いじめてるー。いけないんだー」
「って、おい!涼、お前いつからそこにっ!」
いつの間にか川本先輩が準備室の中へ入っていた。しばらく島田先輩をなだめているようだった。と、そのとき目の前からフルートを持った金音先輩と轟部長が走ってきた。和やかな雰囲気であることに、少し驚いているようだ。が、そこで二人と目が合う。今の亜美の体勢は、身を低くして壁に耳を引っ付けて、大変にやにやしている。つまり、ただの不審者である。
「佐藤ちゃん何をしてるの?」
「佐藤さん何をしてるんだ?」
同時に名指しを受け、亜美は冷や汗をただただかいた。室内から「佐藤もいるのかよ」という久保島先輩の悲鳴が聞こえた。結局バレてしまった。ひょっこりと覗かすと、久保島先輩にジトッと睨まれた。すると、轟先輩が少し落ち着いた島田先輩の方へ歩み寄る。
「さっきは、いきなりごめんな。悪いことをした」
「いえ、そんな。考えを改められましたので、大丈夫です」
「そっか、なら良かった」
轟先輩が胸をなでおろし、ほっと息をついた。彼のことだ、かなり心配していたのだろう。金音先輩は島田先輩にフルートを差し出した。
「今なら吹けるんじゃない?今のアンタなら、きっと上手くいくはず」
こくり、と島田先輩は頷いた。一瞬笑ったような気がしたが、気のせいだろうか。そこで、金音先輩が亜美達を押し出した。
「今は、一人にさせてあげましょう。そのほうが、考えがまとまると思うんです」
しばらくして、美しい旋律が聞こえてきた。その音は、夕暮れ色に染まる校舎の隅々にまで届いているのではないかと思う程、きらきらと透き通っていた。今まで聞いたどんな演奏よりも、心に響いた。
「覇瑠さん……」
隣にいた未来が、感極まったといわんばかりに微笑んだ。きっと未来は、この時を待ちわびていたのだろう。だが、今回のことで明らかになっていないことが一つある。あの二日目の合宿の晩、未来が言ったあの言葉。そう、島田先輩とその亡き親友、そして未来が取り巻く関係性だ。おそらく、直接演奏に直結しているわけではなかったようだが。それが明らかになっていないのが、酷くもやもやとした。未来のほうを見つめてみたが、彼女はにこりと笑みを浮かべるだけだった。
「いやあ、よくなったねえ」
東海大会の前日というときに、誓先生がそう呟いた。確かに、随分と合宿を経て上達したという実感はある。そして、なによりも―—。
「特に、フルートソロ、コンクール関係なく評価してほしいくらい。ここだけの話、覇瑠君なにか刺激的なことでもあった?」
「ありました」
「お、クールな覇瑠君が嬉しそうってことは、よっぽどよかったんだねえ。良かった良かった」
誓先生が話し終わったところで、等々力先生が一歩前へ歩み出る。
「本当に、皆さんよく頑張ってきました。明日は、ついに東海大会本番です。この夏、皆さんの音楽を、全国へ響かせましょう!」
「はい!」
ああ、と亜美は思った。これこそ、亜美が求めてきたものなんだなと。
県ノ坂中学校吹奏楽部の、全国へのリベンジと挑戦は、明日果たされるのだろうか。興奮と緊張と不安が混ざり合った、この何とも言えない高揚感。
なぜだろう、ずっと味わっていたかった。
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