六話

 その後、島田先輩はこちらからの言及を許さないといわんばかりにイヤホンをしてしまった。なので、おとなしく部屋に帰ることにした。歩きながら、亜美は先ほどのことを思い返す。親友のことを、特別、と彼は言った。音楽はたった一人特別な人のためにある、そのことから感じ取れるのは、異常なまでの執着心と独占欲だ。つまり、そんなに大きな存在を突然亡くしたのだから、それはそれはショックを受けたのは想像できる。だから、亜美は「特別な存在を失った今、本気で演奏などしなくなった」と推測したのだ。ただ、彼はそれを否定した。違う、と。そうなると、別の理由を探さなければならないが、推測するには判断材料が少なすぎた。

「あれ、亜美ちゃん?」

 目の前から、聞き覚えのある声がした。よく見てみると、髪を下ろした金音先輩がこちらに指をさしていた。薄暗くても、可憐な容姿はよく見えた。「おっと、そんな可愛い子に見つめられちゃ照れてしまう」

「いやいやいや!先輩のほうが可愛らしいですから!」

「謙遜するの?自分の価値に気づかないなんてもったいないなあ」

 それはあなたもでは、と思ったが、言っても無駄だと思い口をつぐんだ。とりあえず、話を変えなければ。

「そういえば、なぜ先輩はここに?」

「あー、待ち伏せ?」

「まちぶせ?」

 予想外の反応に首を傾げると、金音先輩は毛先を指に絡みつけた。

「いやさ覇瑠君がね、後輩と話してくるから、とか言ってたから、ピーンときてね。あいつがわざわざ時間を取るような後輩亜美ちゃんくらいしかいないし」

「いや、ピーンといわれても」

「で、私も亜美ちゃんと話したいから待ってたわけ。よろしくて?」

「凄いですね、先輩は……」

 そう呟くと、目の前の先輩は得意げに鼻を鳴らした。なぜ、普段こんなに可愛らしいのに、男子を前にするとあんなにも男勝りになるのだろうか。まあ、一部を除くが。彼女は辺りを見回すと、ちょいちょいと手招きをした。

「まあ、立ち話しもあれだから、風に当たりながら話そう」

 そうやって連れてこられたのは、以前小春先輩と話していたところだった。今夜は一段と、星空がきれいだ。手すりにもたれかかると、金音先輩は大きくため息をついた。

「まったく。あいつも話すならこういうところにすればいいのにね。ロマンのかけらもない」

「告白とかならいいんじゃないですかね。ただ、落とし物を届けただけなので」

「はあ。あいつに彼女ができるか今から心配だよ。そうだな、やっぱああいうやつには癒される存在が合うかな!ウサギみたいな!」

「先輩、なんやかんやいって島先輩に対してお節介ですよね」

 そう言えば、金音先輩は勢いよく首を振り始めた。勢いのあまり、髪が飛んでいきそうだ。

「ないないない!あんな頑固野郎なんて、世話焼き対象でもない!」

「あはは……」

 露骨に拒絶され、亜美は苦笑いした。そこまでいうということは、世話を焼いているという自覚はあったのだろう。全く、素直な先輩だ。すると、不意に金音先輩と目が合った。その大きな瞳に、亜美はドキッとした。

「どうしたの?そんな人生に不満を抱いてそうな顔をして。あ!もしかして、あいつに変なことでも言われたの?」

 その通りである。図星過ぎて、動揺を隠せずにいると、彼女はジトッとこちらに詰め寄った。

「全く、困ったやつだなーあいつは。ほら言ってみなさい、今すぐに」

 あまりもの圧に負け、亜美は口を割ることにした。話している間、彼女はフクロウのごとく「ほうほう」と相槌を打っていた。そのまま夜空にフクロウとなって飛んで行ってしまいそうだったが、そんなことはなかった。一通り話し終わると、彼女はゆったりと足を組み、

「特別、ね」

 とだけつぶやいた。その声色からは、どこか理解したような甘い響きが込められていた。

「で、佐藤ちゃんはそれを聞いて、どう思った?」

 そんなの、悔しいに決まってるじゃないですか。そう言おうとしたが、亜美は踏み止まった。小春先輩と言い、悔しがっているのはみんな同じだ。それを、口に出すのはあまりにも軽率な気がする。だが、金音先輩は亜美の表情からなんらか察したらしい。なるほどね、と一つ呟くと、彼女は目を細めた。

「もしかして、あいつに相手にもされてないと思ってる?」

「そうなのかなあとは、思ったりはします。かなちゃん先輩とか、普通に話せている感じがするので」

「いや、まあそれは幼馴染だからね。他の子よりは親しく話せるよ。まあ、涼君までとはいかないけど……って、それは置いといて!」

 惚気でも始まるのか、と身構えていたが、どうやら本題へ視点をずらしてくれた。そこら辺のモラルはあるらしい。

「ひとつ、良いこと教えてあげるよ。あ、覇瑠君には秘密だよ?多分、拗ねて面倒くさいことになるから」

「は、はい」

 正直言って、あの先輩が拗ねているところを見てみたい気持ちが強かったが、ここは素直に従うのが筋だろう。

「あの子はさ、ああ見えてめちゃくちゃ面倒見がいい。ほら、あいつにはいっぱい兄弟がいるでしょ?だから、人の扱い方が結構うまいのよ。ま、どうしても冷たい一面は出ちゃうんだけどね。ちなみに、君たち四人が後輩として入ってきたとき、あいつ私にこう言ってきたんだよ。『どうしたら、効率的に教えられると思う?』って。で、ノートに一人一人記録していくのを勧めたんだ。そうしたら次の日ノートどっさり買ってきて、本当に実行してた。多分、今もやってるんじゃない?」

「実行力の塊みたいな人ですね……」

 学校ではそんな姿は一度も見なかったが、恐らく隠れてやっていたのだろう。にしても、一人一人ということは、もちろん自分の分もあるということ。どうしよう、なんだか気になってきた。ああ、そうか。隠れてやっていたとすれば、バレたらよっぽど恥ずかしいものなのだろう。確かにコツコツと書き溜めていた個人情報を他人に見られたりしたら、恥ずかしさを通り越して拗ねてしまいそうだ。楓や華子あたりには言わないでおこう。

「にしても、なんでそこまで……」

 そう首を傾げると、彼女ははあ、と一つため息を落とした。

「あいつはさ、最初っから今みたいに吹けたわけじゃないんだ。四歳から始めたはいいけど、肺活量が足りなくて音さえも出なくて、実際に才能が開花したのは七歳くらいだったみたいだし。つまり、三年間ずっと満足に吹けてなかったわけ。だから、吹けなくて左折して、音楽を嫌いになってほしくなかったんじゃないかな。あいつはさ、人一倍音楽を愛してるからね。まあ、今はどうかは知らないけどさ」

 そういって彼女はぐいっと伸びをした。腕の隙間からこちらを見下ろすと、彼女は愉快気に瞳を伏せた。

「そういえば佐藤ちゃん。入部当初に覇瑠君に泣かされたらしいじゃん」

「ちょっ!なっ!なんで知ってるんですか!?」

 今となっては一種の黒歴史的なイベントだったというのに、なぜ今更掘り上げられたのだろうか。顔の熱が体中に広がり、もはやパニックを引き起こしていた。

「いや知ってるも何も、あいつが泣きそうな顔してすがってきたからさ。『後輩泣かした!どうしよう!』みたいなこと言ってた気がするなあ。そこに小春先輩が来たから大分パニックも収まったけど。まあ、見ものではあったね」

 金音先輩は儚い笑みを浮かべると、自分の肩に手を置いた。じんわりと、手のぬくもりが伝わってきた。

「言っておくけど、あいつは後輩に、佐藤ちゃんに大いに期待してる。あいつは人を傷つけることを嫌ってる。だから、そんな相手にされてないとか思わなくてもいいんだよ。分かった?」

 金音先輩の瞳は、酷く優しい瞳をしていた。なんだか、泣きそうになった。ただ、いまだけは涙をこらえることにした。

「分かりました。私、もう少し頑張ってみます」

 何を頑張ればいいのかは、分からなかった。


 「では一時間後、こちらに楽器運搬用のトラックが来ますので、それまでに楽器を運び出すようにしてください」

 轟部長の指示に、部員たちが従順に返事を返す。この三日間、実に情報量が多かった。曲の指導ももちろん、人間関係にも深く踏み入った自覚がある。どうしたものか、と手元のフルートを眺めながらため息をついた。

「椅子片付けるから、早く楽器しまいな。ぼーっとしてる時間は無し!」

「す、すみません!」 

 慌ててフルートの片づけを始めると、クラリネットの先輩に落ち着いてね、と注意された。そうだ、とにかく今はコンクールに向けてしっかり気を持たなくては。ケースのくぼみに合わせてフルートをしまい、蝶番をパチンと締める。譜面台をテキパキとたたみ、ファイルの上において腕で抱え込む。ホールから出て部屋に向かっていると、なにやら階段の裏側から声がした。息を殺し耳を澄ませれば、それは聞き覚えのある声だった。

「まだ、怖いかな?」

「はい」

 島先輩、と亜美は心の中で独り言ちた。どうやら、誓先生と話しているようだった。

「大丈夫、少なくとも今の子たちは、君のことを認めてるよ。だから、一回吹いてみよう」

 息を呑む音が聞こえる。ちらりとのぞき込んでみると、彼の瞳に、うっすらと水膜が浮かんでいた。一体どうしてしまったんだろうか。だが、これ以上聞いてはいけなさそうだったので、亜美は踵を返した。

―—きっと、私が聞いていいものではない。

「あ、亜美!お疲れ様ー!」

 目の前から弾丸のように、楓が突っ込んできた。抱きしめる力は強く、思わずカエルのような声を出してしまった。

「楓!亜美が苦しそうなんですけど」

「まあまあ。楓、亜美にあまり会えなくて寂しそうだったし、今は抱きしめさせておこ?」

「そうだね」

 そうだったのか。とりあえず頭をなでてやると、彼女は猫のように目を細めて、さらに強く抱きしめてきた。

「ぐ、ぐる゛じい゛……」

 さすがに哀れに思ったのか、未来と華子が楓を引きはがしてくれた。ただ、楓は少しだけ不満のようだった。

「まだ亜美が足りないんだけどぉ!」

「いや、私死んじゃうんだけどね」

「え!それならいいや!死なれちゃ困る」

 本当に明るい子だ。この明るさに、いつも亜美は救われる。自然と笑みがこぼれ、口元に手を添える。今だけは、この幸せに浸っていたかった。


「なんで、私が私に行かないといけないんだ」

 夏休みが明けて早一週間。東海大会も目前で、放課後練習に精を入れようとしていた時に、例の野球部員の委員に原稿を先生に私に行くことを頼まれた。これで二回目、まあこれが宿命だったのだろう。委員会の担当は理科の教師だ。確か理科準備室にいるはずなので、扉に貼ってある指示通りにしてみる。一、扉を二回叩く。二、年組名前と目的を告げる。中から反応はない。三、もう一度扉を二回叩き、先生の名前を呼ぶ。……反応はない。四、扉を開けて、先生を呼ぶ。いなかったら出張の可能性あり。ガラッと開けてみる。そこには先生が買っている金魚がゆらりと泳ぎ、周りに実験道具が整頓して置かれていた。どうやら、今日はいないらしい。金魚がぷくぷくと泡を吐き出している姿が可愛らしかったので、思わずそこまで駆け寄った。近くにはエサが置いてある。その小瓶を開け、五粒ほど落とす。金魚は餌に気づいたのか、それらを吸い込んでいった。はあ、これほどの癒しはないだろう。いや、これはしろまるへの浮気になってしまうのだろうか。ぐるぐる迷っている場合ではない。とりあえず、また明日来よう。と、机の上に山積みにされた問題集に目がいった。一番上に置かれた問題集は、島田先輩のものだった。なんだか、ほかのものに比べて厚いような気がする。本当は開いてはいけないのだろうが、この時は好奇心のほうが勝っていた。開いてみると、1ページ毎に要点がぎっしりと書かれたプリントが問題の上から張られていた。単元プリントに教科書の印刷された切り抜き。まさに優等生の問題集だった。最後のページには『excellent!!』とデカデカ書かれている。楽器の練習も怠らず、勉学も怠らない。うん、次元が違うな。冊子を戻して、引き返そうとしたその時、廊下の方からけたたましい足音が聞こえてきた。なんだろう、とても嫌な予感がする。ひょっこりと廊下をのぞいてみると、突然目の前に影ができた。え、とつぶやく間もなく、亜美はその影に押されてしりもちをついた。

「いったぁ……」

 お尻をさすりながら、原稿を手繰り寄せ立ち上がろうとすると、目の前の影に手を強くつかまれた。

「ちょっ、何をっ」

 睨みつけようとその影の顔を捉えようとしたその時、亜美は酷く動揺した。だってそこには、気を乱して冷静さを欠いた、島田先輩がいたのだから。髪は乱れ、呼吸も乱れている。何があったのかと問いかけようとすると、彼が顔を上げた。その瞳の青に、一瞬紅が走った気がした。

「なあ」

「はっはい」

「本当って、何なの?」

 声の圧に身震いした。何を求めているのかわからない、そんな恐怖が亜美を襲った。

「どうしたらいいの」

 詰め寄られ、亜美はとっさに身を引いた。殺される、と思った。馬鹿みたいに大袈裟だと思われるかもしれないが、真剣に殺されてしまうのではないかと思った。最悪な事態は、幕を開けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る