五話

 まだ薄暗く、やや寒いとき、亜美は目が覚めた。昨日部屋に戻った時は寝れるか心配だったが、思ったよりすぐに寝れたらしい。いつもだいたいこのような宿泊行事の時、亜美はふとした時に寝ている。自分では気づかなかったが、意外とどこでも寝れるんだなあ、といまさらながら自分に感心した。アラームがセットされた携帯端末を見ると、まだ四時手前だ。まあ、いっか、と内心呟き、布団と布団の間を縫って部屋を出る。辺りはしん、としていて、どこか異郷のような雰囲気を醸し出している。ホールのほうへ来てみるが、まだ誰もいないようで、楽器の音は聞こえない。一番乗りだ、と心を躍らし扉を引くと、急に何かが足元に倒れてきた。

「うわあっ!何っ?」

 突然の出来事に思わず大声が出た。よくわからない物体を避けるように後ずさり、恐る恐る視線を下に落とす。その生温かい物体は、廊下の上で、フードをかぶって寝息を立てていた。誰だと思いしゃがんでみると、なんだか覚えのある香りがした。この香りはまさか―—。

「えっ、覇瑠こんなところで寝てたの?通りで部屋に帰ってこないわけだ」

 そういって、廊下で丸くなる島田先輩の前に、ジャージ姿の川本先輩が座った。突然の登場に唖然としていると、川本先輩はこちらに完璧な笑顔を向けた。なんだか、とても眩しい。

「おや、佐藤さんおはようございます。朝、早いのですね。まさか、覇瑠に良からぬいたずらをしかけている最中でしたか?」

「いやいやいや!そんな下心なんてないですよ!」

「あはは、冗談ですよ」

 軽くからかわれ、居たたまれない気分に浸っていると、なんだか寝言が聞こえてきた。島田先輩から発された言葉は、明らかに日本語ではなかった。何語だこれ……。

「覇瑠は、寝言が英語なんです。恐らく昔からの癖でしょうね」

「昔から?」

「おや、まだ知っていないんですね。覇瑠はアメリカ生まれで、国籍も日本ではないんですよ。ですが、覇瑠が他人に話すわけありませんね」

「そ、そうなんですね」

 確か以前に島田先輩は、アメリカと日本のクォーター、ということを亜美に話してくれたはずだったから、そこまで不思議には思わない。かえってしっくりとくる。にしても、なんだか川本先輩に軽くけなされた気がしたが、気のせいだろうか。警戒気味に川本先輩をジトッと見つめていると、ひくりと島田先輩の肩が震えた。寝息も止まり、寝返りを打った体がこちらに向き、フードの隙間越しに半目の瞳と目が合う。なんだ、この気まずい瞬間。何事も起こっていなかったかのように目をそらすと、急に島田先輩が飛び起きた。

「……エゼ?」

「えぜ……?」

 突然の素っ頓狂な発言に首を傾げると、川本先輩が彼の肩をゆすった。

「ちょっと、まだ寝ぼけてるの?エゼキエルじゃなくて、この子は後輩の佐藤さんだけど」

「エゼ……佐藤………エゼが…佐藤?」

「だめだこりゃ」

 普段のあのキリッとした凛々しさ溢れる島田先輩が、こうも猫のようにふにゃふにゃになっているのはかなりレアだ。これは、きっと永久保存するべき姿だろう。それとも、寝起きはいつもこうなのだろうか。——と、その時、あるものが目に入った。よく見ると、島田先輩の右目から右頬にかけて一筋の跡が残っていた。涎にしては重力に逆らっているので、必然的に考えて涙跡だろう。まさか、泣いていたのだろうか。すると、突然川本先輩が島田先輩をおんぶした。体格はほぼ同じ、見た感じ体重もあるだろうに、彼は軽々と背負っていた。意外と、力持ちなのだろう。それにしてもこの光景は、とてもシュールだ。企業の令息が、音楽一家の新星をおんぶしている光景など、これから一切見れないだろう。

「では、覇瑠がご迷惑をおかけしました。失礼しますね」

「あ、はい。また後で」

 滑稽な姿を呆れて見送っていると、床にきらりと輝くものが落ちていた。よく見ると、蓮の花の形をした小さなペンダントネックレスだった。先ほどまで落ちていなかったので、おそらく彼ら二人のどちらかのものだろう。手に持つとやや重みがあり、なにやら半開きになっている。爪を間に差し込こんであけてみると、中に小さな写真がはめ込まれていた。そこに写る二人の少年は、楽しげに笑っている。片方は、恐らく島田先輩。そして、もう片方の少年は金髪でそばかすが濃いのが特徴的だった。まさか二人の距離感的に、これが亡くなった彼の一番の友達なのだろうか。そこで考えるのをやめ、ペンダントをパチンと閉じた。とりあえず、今日のうちに返さなくては。ペンダントをポケットに収め、亜美は深く深呼吸をした。


 今日の合奏は、常に島田先輩のタイミングを伺っていた。短い休憩時間の隙を狙っていたが、なぜこうも彼の周りには常に誰かがいるのだろうか。まあ、いつも特定の人物なのだが。その人に妨害され続け、ついに夕飯前の練習になってしまった。今度こそと思って、亜美は彼のほうへ目を向けた。

「し―—」

「なあ俺さ、衝撃の事実を知ってしまった。中指手の甲につくんだよ」

「気持悪」

「なっ、的確過ぎてぐうの音もでないわ」

「へえ」

 そう、久保島先輩が毎回話しかける前に割り込んでくるのだ。わざとかと思う程割って入ってくるので、呆れに近い感情がわいてきている。はあ、と諦めのため息を落とし、空になった水筒をもって水道へ向かった。割と水道は空いていて、亜美がくむ番になった時には、誰も周りにいなかった。蛇口をひねり、ぼーっと徐々に満たされていく水筒を眺めていると、突然何者かに左肩をたたかれた。左を向くが、誰もいない。すると、右側にぬっと島田先輩が現れた。

「ぎゃあっ!」

 驚きのあまり水筒を投げ出してしまったが、幸いに水道の中に落ちたようだった。

「しっ、心臓に悪いことはやめてください………」

 消え入るような声しか出なかった。水筒をそっと拾い上げ、再び水を注いでいく。全く、この先輩は何を考えているのか本当にわからない。

「で、何か用?」

「へ?」

 間抜けな声にもくすりと笑わず、彼は目を伏せる。

「さっきから、話しかけようとしてたから。言うことがあるなら言ってほしい」

「あ、えっと。実は話したいことがありまして」

 と、ふと時計を見たら、あと少しで練習開始時刻だった。それに彼も気づいたのか、思案するように耳を外側を撫でていた。

「じゃあ、10時に自販機のところにきて」

「え、夕飯のあとではダメなんでしょうか?」

「誓さんが話すことあるらしいから、無理」

「ああ、そうなんですね。なら分かりました」

「それでよろしく」

 彼は踵を返すと、そのままスタスタと早足に去っていった。手元を見ると、水筒の口から大量に水があふれだしていた。慌てて蛇口を止め、蓋をきつく締める。その時間は、恐らくあっという間にやってくるのだろう。


「見よ華子、花火二刀流!」

「うっわ、危ないじゃん。って楓!振り回さないでよー」

「ほれほれ」

「うぎゃー!」

 花火を浅く振る楓から華子が逃げている。相変わらず、仲がいい。と、向こうからスイカを持った未来が駆け寄ってきた。いびつな形を見るに、スイカ割りでもしたのだろう。

「はい、こっち」

「ありがとう」

 紙皿の上の真っ赤なスイカの破片を一つだけすくい取り、一口ほおばってみる。結構外側だったせいか、淡い酸味が広がっていった。少し離れたところでは、数少ない男子部員たちが吹き上げ花火を囲んでなにやら騒いでいた。その中に、島田先輩の姿はない。

「コンクール組はどう?演奏」

「うーん、仕上がってきてはいるかなあ。パレード組は?」

「こっちもぼちぼち。それより、聞きたいことがあるんだけど」

「え?」

 いつもに増して真剣な彼女の表情に、亜美は固まった。彼女はそっとため息をつくと、ふるりと頭を振った。

「なんで、教えてくれなかったの?去年のこと」

「……誰から聞いたの?」

 未来は手と手を固く結ぶと、淡々と話しだした。

「今日、こっちにOGの人が来たの。で、その人たちが陰でこそこそ話してるのを聞いた。私だけじゃない。一年生の子たちみんな」

―—あのね。噂っていうのはいつの間にか全員に定着するものなの。

 昨日、小春先輩が言ってたことを、亜美は思い出した。確かに本当だった。たとえ、亜美が口を開かなかったとしても、思わぬ形で事実を知ることとなる。まるで嵐のように、噂というものは無知という名の大地を物凄い勢いで吹き抜けていく。そしてもう一度、未来はつぶやいた。

「なんで、教えてくれなかったの?」

 目の前で、カラフルな火の花が吹き上げた。なんで教えなかったか。そんなの、最初から決まっている。彼女にショックを受けてほしくなかったから。これは、単なる亜美のエゴなのだろうか。でも、果たしてこの言葉を、彼女は望んでいるのだろうか。人の心は難しい。良かれと思ったことが、いつの間にか当の本人を深く傷つけてしまうから。焦りをごまかそうとスイカの破片を口に運ぶ。今度はかなり甘い。だが、おいしさは感じなかった。黙り込んだ亜美に、未来はため息交じりに独り言ちた。

「もし本当なら、全部、私のせいだ……」

「……え?」

 予想外の発言に、思わず紙皿を落としそうになる。しばらくして、自分の言ったことに気づいたのか、未来は慌てて口を塞いだ。今、確かに私のせいだといった。となると、なんらかの関係で、3人は結び付いているのだろう。今の空気に、彼女はいたたまれなくなったのか、その場ですくりと立ち上がる。

「ごめん、おかわりもらってくる」

「あ、うん」

 とぼとぼと去っていく未来の背中は、心なしか島田先輩に似ていた。


 湿った髪に手を通しながら、亜美はポケットからあのペンダントを取り出した。それは、薄暗い廊下の中でキラリと光った。腕時計を見ると、軽く10時を回っている。先輩を待たせるのは悪いので、小走り気味に廊下を突き進む。女子部員が多いため、いつもドライヤーは争奪戦になる。亜美のお人好しな一面が出てしまったせいか、ほとんど最後に髪を乾かすことになってしまったのだ。約束の場所に着くと、彼はこちらに背を向けて何かをしていた。よく見ると、イヤホンで両耳がふさがっていた。何をしているんだろうと、そっと覗いてみる。

「六分遅刻」

「ひゃいっ」

 聞こえていたのか、と亜美はバクバクと鳴り響く胸を強く押さえた。本当にこの人は心臓に悪い。島田先輩は立ち上がると、その氷のような眼差しをこちらに向けた。

「で、用件は?」

「えっと、実は朝先輩の落とし物を見つけて」

 そういって、亜美は握っていたものを島田先輩に見せた。彼はそれを見た瞬間、亜美から奪い取るように掌中にペンダントを収めた。どうやら、彼のもので合っていたらしい。

「ありがとう」

 安堵した表情で、島田先輩は礼を述べた。大切そうにそれをポケットにしまうと、その安堵した表情はすぐに溶け落ちていった。なんだか、この人と話すときは、いつも困ってしまう。なにせ、表情の寒暖差が激しいので会話が続かないのだ。その上、彼の目線は常につららのように鋭い。こんな人とまともに話せるあの人たちは、やはり相当の猛者なのだろう。

「そういえば、聞いたんだ」

「え?」

 ぱちくりと瞬きを数回繰り返すと、彼は一点を見つめたまま話し続ける。

「飯島先輩から聞いた。佐藤に全部話したって」

「あー……」

 これは言うべきか、言わないべきか。だが、恐らくこうして一対一で話せることはほとんどないだろう。疑問を口にしてみることにした。

「えっと、あの。質問なんですが」

「何」

「島先輩は、なんで吹奏楽部に入ったんですか?」

「入るなって言いたいの?」

「あ、違います!入部動機を知りたくて」

 これは、ずっと純粋に気になっていた。彼ほどの実力者が、素人に近い奏者たちの中に身を置く。そのことに、少しだけ違和感を覚えたのだ。

「特に理由はない。強いて言うなら、涼に誘われた」

「え、川本先輩がですか?」

「そう。あとは兄の影響もある。これが、多分動機」

 そこまで言って、彼は口をつぐんだ。どうやら、金賞を取りたいから、などという動機ではなかったらしい。恐らく、それまでは吹奏楽に興味はなかったのだろう。昨日の小春先輩の話によれば、入部日当日に突如現れた。つまりは、吹奏楽部にはそこまでの重要性は感じていなかったのかもしれない。そして、その行動には、彼の技術に対する相当な自信がうかがえる。

「もしかして、その方も関係あったりしますか?」

 亜美はペンダントのほうを指さした。彼は一瞬驚いたような顔をしたが、ややあって、こくりとうなずいた。

「この子は、特別な存在。初めて音楽を認めてもらえた。だから自分の音楽は、この子のためにある」

 なんだろう、この微妙な執着心は。そして、陰に潜む強い独占欲を、亜美はその言葉から感じた。そこまで考えて、一つの仮説が思い浮かんだ。もし本当なら、とても腹立たしい仮説ではある。だが、口に出さずにはいられなかった。

「もしかして、その方の前でしか本気で吹かないということですか。私たちでは、本気で吹くほどのものではないと」

 かなり踏み入った質問なのはわかっていた。でももしこの人が、周りの厚意を受け流しているとしたら、とても頭にきたのでつい言ってしまった。

「違う」

 彼は、否定した。そう、あまりにもあっさりと否定されたのだ。その顔には、呆れとほんの少しの哀れみが混じっていた。心の中でほっとする自分と、半信半疑でいる自分が混在しているのが気持ち悪い。

「えっと、ではなんでソロをあんな風に―—」

「そこまで君とは親しくなった覚えは無いんだけど」

 すぱんと、彼は語尾を遮った。その言葉に、あまりにも厚すぎる壁を感じた。いや、私たちの壁が厚すぎるんじゃない。彼にとっての特別な存在が、あまりにも島田先輩へ影響を与えているのだ。 

 そして、亜美は思い知ったのだ。この、分厚い氷の壁を突破しない限り、彼を変えることなど不可能ということを。

 月光に照らされた美しい青い瞳は、一切の揺れがなかった。

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