四話
合宿一日目の今日。部員たちはやや山奥の合宿所に来ていた。周りには本当に山以外はなく、吹奏楽の合宿にはうってつけの場所だった。部屋に荷物を置いたと同時に楽器を乗せたトラックも合宿所に到着したので、すぐさま駐車場へ向かう。主に運ばれてきたのは、バスの収納スペースに入りきらなかった打楽器やチューバなどの大型楽器だった。打楽器は小物などは軽いので一人で持っていけるが、ティンパニやハープなど、大型で重量のある楽器は複数人で持たなければならない。そして、亜美はたまたまチューブラーベルの骨組みを運ぶことになってしまった。管を抜いたとしても70㎏程ある。普段岩かと思うくらい表情が変わらない島田先輩や、はにかみ笑顔が素敵な百合先輩でさえも、ややきつそうな顔をしている程だ。まあ、それより驚いたのは二人の協調性の良さだった。
「あ、壁際寄って。先に小物行かせちゃお」
「ここからは転がして。段差に気を付けて」
「上の窓枠気を付けて。島さん少しかがめる?」
「分かった」
彼女らはおそらく、ペアを組むと本領を発揮する部類なのだろう。なんだか、小春先輩が二人を指導係として選んだ理由が分かった。そうこうしているうちに、エレベーターの前までたどり着いた。本体から手を離せば、真っ赤な手のひらが露わになった。すると、後ろから数人の三年生部員たちがやってきた。いずれもコンクールメンバーではない部員たちだった。
「ガーベル私たちが運んでおくよ。みんなは楽器の準備しておいで」
「え、あっ、ありがとうございます!」
「いいっていいって」
百合先輩の言葉に先輩たちは手をひらひらと振ると、そのままエレベーターに乗っていった。将来、ああいう人になれたらかっこいいのかもしれない。すると、隣にいたサックス担当の同級生がちょんちょんと袖を引いてきた。彼女は左手の薬指を小指を立ててこう耳打ちした。
「島田先輩の手当たったんだけど、一生洗わなくていいかな?」
「いや、トイレから出たときくらいは洗お?」
ここにも熱狂的な親衛隊がいて、亜美は少し苦笑した。その場を後にし、先輩の後を追いかける。——と、その時。見知った人物が目の前に現れた。
蛍光グリーンのシャツに白いジーパンといういかにもサッカーぽい服装をした誓先生だった。すぐさま挨拶をすると、彼はあははと苦笑いした。
「合奏まで秘密にしようと思ってたのに、会っちゃうんなんてな……」
「いや、来る予感はしてましたよ。去年も来てましたし」
「お、小山さん鋭いねえ。佐藤さんと島田君も三日間よろしく」
「あっ、よろしくお願いします!」
慌ててお辞儀をすると、なぜか島田先輩もまねてきた。その光景に誓先生は愉快そうに笑っただけだった。そのままホールのほうへ向かっていったので、亜美はただ茫然とした。本当に、不思議な人だ。
今日の合奏では主に課題曲を練習した。今回はサックスとオーボエが集中砲火を浴びており、常に一人のオーボエは大分疲れているようだった。コンクールメンバー外の部員たちは演奏会に向けての練習ということで、近くの体育館で合奏をしていたらしい。ただ、こちらが長引いていたのか夕食の時間には居なかった。
「はー、夕食ハンバーグかー。ちょっと重いなー」
「そんなこといって食べたいくせに。ほれほれ」
「ちょっと、催促しないでっ、桜助けて―—」
「水でも汲んで薄くすればいいんじゃない?」
「まあまあ……」
先輩三人の会話に百合先輩があたふたとしている。その反面、島田先輩はなぜか異常に多く盛られた夕食を無言で恐ろしい速さで食べ進めていた。おそらく男の子だからという理由だろうが、それにしても多い。一体その体のどこにその食べ物を収納してるのやら。サラダを食べながら、そんなことを考えた。
「あっ、そういえばあみこちゃん。何か大変なことあったりする?人間関係とかで」
「へ?」
小春先輩に突然話題を振られ、亜美は思わず唖然とした。とっさに首を横に振ると、目の前の三年生三人はとてもほっとしていた。もしかして、彼女たちは去年のことを見越してそのようなことを聞いたのだろうか。ただ、確証は持てないのではっきりと断言はできない。笑顔を固定させる先輩たちに、理由を聞く勇気など、亜美には到底なかった。
——と、なんだか金管パートのほうから何やら騒がしい声が聞こえてきた。声を聴くだけで声の主はわかる。
「腹筋本気でやるわけないでしょ!あんな賭けみたいなの」
「へー、約束破るんだー。それとも怖くなったの?」
案の定、夕食を終えた久保島先輩と金音先輩が言い争っていた。川本先輩のほうをちらりと見たが、気にしていない様子でもくもくと食べている。まあ、周りの人も慣れた様子でスルーしているので、合宿ではよくある光景なのだろう。。
「あんたといつ約束したよ」
「いーや、覇瑠という証言者がいる!」
指をさされた島田先輩はキョトンとした表情で首を横に振った。どうやら、聞いていなかったらしい。まあ、彼のことだから面倒ごとを避けたいがゆえに知らないふりをしているだけかもしれないが。ハンバーグを箸で切り分け口に運ぶ。個々の食堂の料理は、いささか亜美にとっては味が濃かった。
亜美が浴場から出たとき、すでに時計は九時を回っていた。だが、いつもはこの時間に寝てはいないので、目はぱっちりと開いている。明日は朝早めに起きて朝練してよう、と独り言ちると、目の前にバルコニーらしきものが見えた。休憩エリアなのだろうか。部屋に戻ることを忘れ、亜美はそこ一点に歩みを進めた。目の前まで来ると、やや扉が開いている。換気でもしてるのかな、と思い扉を開けると、何やら人がいた。慌てて亜美は柱の後ろに身を隠した。
「何か知ってるんじゃないの?言ってもらわないと困るんだけど」
「なんで言わないといけないわけ?これはパート内の問題でしょ?幹部が首を突っ込むことじゃない。それに私が知ってることもごく僅か。言っても解決できないでしょ」
「僕はただ単に、あの日彼に何が起きたのか。それを聞いてんの」
こは先輩、と心の中で独り言ちる。どうやら轟部長と何か揉めているらしい。まさか、島田先輩のことか。
「ていうかさ、パート内で解決できてないから聞いてるんだけど?戸田先輩に聞いても話をそらされるだけ。ていうことは、相当複雑になってるんじゃないの?」
「——っ!とにかく、この話はやめ。あんた、このあと幹部で話すんでしょ?早く行きなよ」
「はあ。今回はこのくらいにしておくけど、演奏変わってなかったら聞くからね」
扉が開く音が聞こえ、そちらの方向に目をやってみる。眼鏡をかけてはいないが、確かに轟部長だった。まあ、確かに「眼鏡を外せばイケメン」という説はあながち間違いではなさそうだった。
「あーみーこーちゃーん」
後ろから肩に手を置かれ、ゾワッと首回りが泡立った。振り返ってみると、小春先輩が満面の笑みを浮かべていた。バルコニーの外を指さすと、彼女は肩をすくめた。
「ちょっと、あっちで話そうか」
「は、はあ」
今日は、生きて帰れるのだろうか。ついていくと、小春先輩は手すりに腕を乗せた。慌ててその隣につくと、彼女の瞳がこちらに向く。その色は、至って真剣だった。
「どこから聞いてた?」
「えっと、何か知ってるんじゃない?っていうところから……」
「割と最後のところか。まあ、いっか」
ペットボトルのふたを開けて彼女は一口だけお茶を飲んだ。
「あみこちゃんには言っちゃおうかな。もう、全部」
「えっ、でもそれって」
不公平じゃないのか。そう言おうとして口をつぐむ。だって、心の中で聞きたいと叫ぶ自分がいたから。でも、小春先輩は首を傾げるだけだった。
「あのね。噂っていうのはいつの間にか全員に定着するものなの。だから、大丈夫」
「わ、わかりました」
それから彼女は、去年起きたことを話し始めた。要約するとこうだった。
去年の四月。入部当日に島田先輩は現れたらしい。周りの先輩が当惑の視線を向ける中、彼は誰よりも圧倒的な技術の差を見せつけた。先輩をも超えるその実力に、当時の三年生部員は怯える。最初はその容貌もありとても優遇されていたらしい。だが、オーディションを経て、全てが変わった。そう、彼がソリストになったのだ。それと、彼が音楽一家の息子であると同時に、等々力先生と面識があるということで贔屓説が勃発した。そこは島田先輩が強く否定したため、三年生が怯んで一応解決したらしい。でも、彼への小さないやがらせはずっと続いた。東海大会が行われる当日まで、ずっと。
「でね、当日彼はこう脅されてた。『もし全国行けなかったらお前のせいだからな』って。でも、島さんは一切表情を変えなかった。むしろ落ち着いてた……」
「でも、それだったよっぽどのことがない限り、そのままいつも通りに演奏するんじゃないですか?」
「うん、そうだね。でも、その『よっぽどのことがない限り』が起きてしまったの」
「それは―—」
彼女は一瞬うつむくと、手を強く握りしめた。
「あの日、一番の彼の親友が、亡くなったの」
え、と頭が真っ白になる。放心状態の亜美を見て、小春先輩は儚く微笑んだ。
「本番前に突然、受付当番をしてる島さんの両親が来てね。ホール内が騒然とする中、お母さんかな。必死に島さんにそのことを告げたの。あの時初めて、彼の悲鳴を聞いた。彼が泣き崩れるところを見て、私は怖くなった。彼にとって、親友の喪失がどれほどの絶望なのか。想像するだけで、自分まで絶望へと落ちそうになったから」
「こは先輩……」
どんどんか細くなっていく声に、亜美は彼女の肩にわずかに手を触れさせた。その指先に小春先輩は手を触れさせると、続きを話し始める。
「でも、そのあとすぐ本番だったから。彼はすぐにいつもどおりになった。リハーサルを終えて、そのまま本番を迎えて、演奏は全然いつも通りだった。でも、ソロだけ。全く違った。その音聞いた時、頭がおかしくなった。今まで聞いたことがないくらい音が叫んでて。あれこそ、悲鳴。聞いて聞いてって、なんども訴えてくるの。たった四小節で、全てが狂った。最後はなんとか着地したけど、それまでがめちゃくちゃだった。だから、結局銀賞という結果で終わった。だから島さん、三年生が引退するまでずっと言われて」
「それは、島先輩があまりにも可哀そうじゃ……」
誰だって、人が亡くなるの悲しい。そして、つかの間の虚無を味わった後、突然涙が溢れる。しかも、本番直前。そんな数十分で、その悲しみから抜けらるものなのだろうか。答えは否だと考える。
「でも、審査員にはそんなことわからない。島さんの自己中で起きたこと、この一言で処理されてしまうの。だから、講評用紙には彼のソロを批判するものが多かった。多分それから、島さんは今まで以上に演奏に表現を取り入れなくなった。それが、本当に悔しい。「もしあの時こうしてれば」とか、「もっと彼について理解してたら」とか、とにかくいっぱい後悔した。だからね、今回は間違えたくないの。どうやったら、彼がまた本気を出してくれるのか。それを私は探ってる」
そうですか、とやっとのことでつぶやく。そんなこと、全く知らなかった。だが、彼が話すわけないだろう。自分の親友が亡くなったなど。亜美でも言わない。すると、小春先輩が無理やりにこりと微笑んだ。
「ただ、これだけは言える。あの子は本当に強い。先輩にあんなこと言われたら、私だったら部活辞めるし」
小春先輩はくるりと踵を返すと、こちらへ少しだけ頭を下げた。
「こんなこと聞いてくれてありがとね。フルートパートのコンクールメンバーで、このこと知らないのあみこちゃんだけだから、どうしても聞いてほしくて。これからは、あみこちゃんも彼には気を使ってほしい。あ、でも。もうできてるか」
「えっ」
驚きを隠せずにいると、彼女はこちらにひらりと手を振った。
「じゃあ、良い夜を。おやすみー」
「あ、おやすみなさい。こは先輩」
下げた頭をゆっくりと上げて、亜美は少し逡巡したのちに部屋へ向かった。このことは未来へ言うべきか言うべきではないか。感情のこもっていない青い瞳を思い浮かべ、亜美は頭をぶんぶんと横に振った。おそらく、今は言うべきではないな。それが、亜美が下した判断だった。
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