二話
次の日音楽室に向かうと、いつものフルートの音は聞こえなかった。代わりに聞こえてきた音は、トランペットとトロンボーンの愉快な旋律と、それをガン無視したピアノの音だった。はっきりと鳴る金管楽器とは異なる、ピアノ特有の転がるような音が、ここ昇降口まで響いていることに我ながら驚いた。ただ、何という曲かは分からない。思わず未来と顔を見合わせるも、彼女はにこりとはにかむだけだった。それらの旋律は、音楽室に近づくに従って大きくなっていく。静かに音楽室の扉を開けると、ピアノの周辺に二人の生徒がいた。
「はい。ということで、ミス数がピカイチだった下市金音さんには、合宿で腹筋百回やってもらいまーす」
「何言ってんのほんっとばっかじゃないのばかばかなの!?ねえ?」
「はいはいノンブレスエクセレントー」
「一回死ぬ?君」
「狂暴女だなあ、怖い怖い」
どうやら楽器を吹いていたのは久保島先輩と金音先輩だったらしい。朝っぱらから何をやっているのやら、と呆れ顔を浮かべていると、不意にピアノの音が途切れた。ピアノ屋根からかがむように顔を見せたのは、今日も今日とて麗しい島田先輩だった。彼はこちらの存在に気づくと、淡白な響きをまとった声でおはようとだけ言った。慌てて挨拶をすると、ようやく二人もこちらの存在に気づいたらしい。
「おー、二人とも早いね。おはよー」
「後ろの二人もな」
後ろの二人?と、思った刹那、後ろから抱き着かれた。見下ろしてみれば、不服そうな表情をした楓が、腰元からこちらを見ていた。未来にも抱き着いている。そのすぐ後ろでは、呆れた様子で腕を組む華子もいた。
「二人とも先輩たちに熱視線送ってたから、気づいてもらえなかったあぁ」
「そりゃあ、楓より先輩たちのほうが色気あるから仕方ない」
「華子酷いよぉ。確かに色気むんむんしてるけどさぁ」
認めるんかい、と内心突っ込んでしまう自分は冷たいだろうか。まあ、それはともかく。
「そういえば、松本ぼんぼんどうだった?私たちはいかなかったけど」
そう言うと、楓と華子が食いついた。
「行ったよ。浴衣着て、屋台行って、踊って。松本ぼんぼん城のまち~ってね」
「楓、かき氷落としてたよね。もったいなかったわー」
「だって急に大きいハエが飛んできたんだもん。華子だって怖いでしょ?急に来たら」
「まあ、分からなくはないかなぁ」
「でしょでしょ?あ、そういえば先輩たちは行きました?」
楓が突然先輩たちへと話題を振る。彼らは顔を見合わせると、曖昧そうな表情を浮かべた。
「私は家でお店の手伝いやってたかな。お祭りでも菓子屋には予約は来るんでね」
「俺は覇瑠ん家で夕飯食べてたわ。坦々つけ麺美味かった」
「それはどうも」
そこで、私は何かを忘れていることに気づいた。
「川本先輩は、何をしていたんでしょうか」
「あー、それ私も気になってた。どうなんですか?」
亜美の発言に、華子も同意を示してきた。その言葉に三人は少し顔を曇らすと、やや時間があって、外なことにも島田先輩が口を開いた。
「涼の家は規則が厳しいから、お祭りには行けない」
「そうなんですか」
そう、やっと一言落とした。そういえば、どこぞのお偉いさんの令息だったか。そうなるとやはり監視の目も厳しいのか。そこで、川本先輩のある日の不可解な言動を思い出した。
―—確かに、彼らにはかくれんぼがお似合いですね。
もしかしたら、これは監視している人のことを指していたのかもしれない。そして、金音先輩が同意していたのは、散々見慣れていたからだろうか。そうなるとここにいる二人の先輩、彼らもそのことには気づいているのではないのか……。
「ちょっと、またシンカー亜美になってるよ」
ハッ、と意識をそらせば、未来がくすくすと笑っていた。すると、楓たちまでもが笑い出した。
「おっ?シンカー亜美ってかっこいいね!私も今日からそう呼ぼうかなぁ?華子も呼ぶでしょ?」
「うん、面白そう」
「ちょっと、ええ……」
困り果てていると、島田先輩が再びピアノを弾き始めた。上手くもなく下手でもない。どちらかと言えば上手いのかもしれないが、フルートまでとは言えない。でも、その可もなく不可もない旋律が、少しだけ安心する。先ほどと同じ曲のようだが、なんという曲だろうか。
「クロード・ドビュッシーの『2つのアラベスクより第一番』かな」
未来がしれっと曲名を述べる。こちらの心情を読み取られたのかと思って身構えると、控えめにピースされただけだった。誰だ、その人。そしてアラベスクというと、初めてのピアノの発表会で弾くことが多い方の旋律が、自動的に頭の中で再生される。なんだか、混乱してきた。そんな亜美の混乱をよそに、曲は進んでいく。川を流れていく水のような落ち着いた旋律は、早朝にぴったりだった。そんなBGMを聞きながら、楽器を組み立てていく。
「あ、川本といえば、お前最近どうなの?」
「はい?」
久保島先輩の言葉に、金音先輩が素っ頓狂な声を上げた。そしてさらに、久保島先輩が追求する。
「だから、関係上手くいってんの?」
そして、再び上がった声は、今まで聞いたこともないくらいの甲高い叫び声だった。なんだか、耳がキンキンする。
「ちょっと、なんで後輩ちゃんがいる前で言うの?ほんっと馬鹿だよねアンタ」
「いや、もう全員知ってると思うよ。な?」
久保島先輩がこちらを見ると、え、マジで、と金音先輩の視線もこちらに向く。微妙に圧があったので、素直にこくこくとうなずいた。そっか、と一言落とすと、金音先輩は久保島先輩の襟元をつかんだ。
「アンタでしょ。絶対」
「名探偵下市には分かっちゃうか」
「おい、ふざけんな」
「すみません……」
目の前で起きている修羅場に、後輩四人が固まる。それと反面に、島田先輩の手は淡々と鍵盤を舞い続ける。オクターブを軽々のように行き来するその魔法の手に、僅かに憧れた。すると、空いた窓から僅かに雨音がした。
ふと、窓の方へ目を向けると、霧吹きのようなものが見えた。霧雨だ。
「Drizzle」
一瞬、島田先輩が口を開いた。だが、なんと言ったかは分からない。みんなが首をかしげていると、彼も無意識だったのかキョトンとしていた。一体何が言いたかったのかは、この時分かるはずもなかった。
この日は、一日合奏だった。午前中は課題曲、そして午後の今は自由曲を指導していた。
「トランペット、そこはもっと小さく。それでは木管の音が埋もれてしまいます」
トランペットの部員たちは、繰り返しその部分を吹かされていた。ハイトーンなので、見るからにきつそうだ。
「いいですね」
等々力先生が息を落とすと、スコアを片手に、誓先生も指示を飛ばす。
「ちょっとちょっと。ホルンさ、そこのユニゾンは音程合わせよ。正直かっこ悪い。折角見せ場なんだから、お互い合わせていこ」
「はい」
後ろからホルンの四人組が返事が飛んだ。さすが等々力先生の旦那さんといったところだろうか。彼女と引けを取らないほど指導が厳しい。だが、圧倒的に曲は仕上がってきていた。
「よし、じゃあ最後に第四楽章いこうか」
「そうですね。では、島田さんのタイミングで」
誓さんは島田先輩から少し離れた場所で様子を伺っていた。息をわずかに吸い込む音が聞こえ、第四楽章は始まった。このフルートソロは、決して超絶技巧なわけではないが、スローテンポなため表現力にすべてがかかってくる。この学校で、一番優秀なフルート奏者は間違いなく島田先輩だ。でも、未来は顔を曇らせた。亜美にはまだ、彼女の言っていることが、よく分かっていなかった。音は少しづつ加わっていき、盛大なフィナーレを迎える。トランペットのファンファーレののち、曲は音をつぐんだ。楽器を下ろすと、誓先生が島田先輩の前に立つ。その顔は、大変険しいものだった。あの時の、未来と同じ顔。それでも、島田先輩の視線は楽器に縫い付けられていた。
「覇瑠君さ、だいぶ音変わったね。去年そんな音してたっけ?」
その言葉に、やっと彼は恐る恐る誓先生と目を合わせた。その表情は、あまりに儚すぎた。そして、誓先生は言った。
「はっきり言って、今の君の演奏はめちゃくちゃつまらない。もちろん、楽譜通りに吹けてるし、ピッチもあってるし、音質も全然いい。でも、それは君の演奏じゃない。ただ、音源をコピーしてるだけでしょ?前はもっと、伸び伸び吹けてなかったっけ?」
「そんなこと―—」
「ないって言いきれる?」
そう誓先生が言うと、彼は弾かれたように目を見開いた。初めて見た、不安げな表情。音楽室に異様な空気が広がり始める。目の前にいる川本先輩が、島田先輩のほうを心配そうに眺めていた。すると、誓先生はごめんごめんと少し頭を下げた。
「あまりにも覇瑠君らしくなかったから。でも、少しづつでもいいから自分を出していこうか」
「はい」
彼は相変わらずの無表情で、全く何を考えているのか分からない。それから、何度か第四楽章を通していたが、彼の演奏は変わることがなかった。彼は楽譜通りに、美しくフルートを奏でていた。そう、楽譜通りに。そして、亜美にはようやく未来の言葉が理解できた。
―—あんなの、違う。もっと、飛べていたのに。
あの日の、悲鳴じみた声が脳裏に蘇る。今思えば、なぜ気づかなかったのだろう。「表現の幅が狭まった」ということを。そう、自分はまだ彼の本気の音を知らない。だから、ずっと分からなかった。でも、聞かなくても普通に気づけたのだろう。彼の音をよく聞いていれば。この時ほど、自分を愚かだと思ったことはないかもしれない。それから、彼のソロが耳に引っかかってしょうがなかった。
その日のうちに、亜美は未来に島田先輩の演奏しているものはないか聞いてみた。彼女は少し逡巡したのち、亜美をとある楽器店へ連れて行ってくれた。中ではバラード調のトランペットが流れており、かなりの品揃えがあった。トロンボーンのベルがずらりと並べられているのに興味をそそられていると、奥から汚れたエプロンを身に着けた中年近い女性が出てきた。
「あら、未来ちゃんじゃない。どうしたの?こっちはお友達?」
「はい。今日はあのブルーレイを見せてあげたくて。出せますか?」
「もちろんいいけど、どうしたの?普段は絶対他の子に見せないのに」
「——っ!いいですから早く!」
なぜか顔を真っ赤にさせて慌てる未来を見て、亜美は笑ってしまった。しばらくすると、休憩室に連れってってもらえ、その中にはレトロチックな箱型テレビが一つちょこんと置かれていた。画質は少し古いが、どうやら数年か前のソロコンテストの様子らしい。画面に映る島田先輩は少し幼く、ほかの出場者に比べて背丈が低かった。
「この映像、結構音楽界だとレアものでね、でもたまたま抽選に当たったのよ。本当にこれだけが誇りね」
「またそんなこといって」
そんな未来と店員さんのやりとりを聞いていれば、彼の演奏は始まった。どうやら、小六の時の演奏らしい。演奏曲はオリヴィエ・メシアン作曲の『黒つぐみ』だった。店員さんによれば、『黒つぐみ』 は1950年年にパリ音楽院卒業試験の課題曲として作曲されたらしい。フルートの表現の多様さを鳥の鳴き声を通じてアピールした名作で、ファンタジーを伴った鳥の鳴き声の模倣が試みられ、フィナーレにあたる部分では、ピアノの右手と左手が厳密な展開を繰り広げる上でフルートのさえずりが、最高潮を迎える効果的な構成を取っているらしい。亜美の脳には理解ができない。まあ、とにかく凄い曲ということはわかった。ちなみにこの曲は上級者向けらしく、かなりの技術を用するらしい。画面内では拍手を浴び、僅かに頭を下げる島田先輩が見える。彼が伴奏者と目配せをすると、演奏は始まった。最初の一音目を聞いた瞬間、亜美の頭で衝撃が走った。何これ、と心の中で独り言ちる。画面越しでもわかる、圧倒的な実力。フラッターが垣間見えるごとに演奏は白熱していく。こちらに考える暇さえ与えない。そう、言うなら無意識に引き付けられるのだ。きっと、意識を遮断しても、彼の演奏は届くのだろう。小六にして、桜先輩の演奏を上回っている。その事実に、亜美は化け物だと思った。そう考えると、確かに音が変わっているのかもしれない。確かに今のも魅力的だが、きっと封じ込めてしまっているのだろう。最後の一音を聞き終えると、画面内では拍手の嵐が引き起っていた。未来の視線に気づきそちらを見ると、彼女は少し悲しそうにはにかんだ。
「ね、変わっちゃってるでしょ?」
その言葉に、こくりとうなずいた。この時、初めて未来の気持ちがわかったのだった。本当の音を聞けないもどかしさ、だけど無口なままの先輩……。一体、彼の固いままの口は、鉄鎖はいつ砕け散るのだろうか。それだけが、心のしこりとなって亜美を悩ませる。画面の中の無表情な小さな天才を眺めながら、亜美はため息を落とした。
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