一話

 八月の上旬、県ノ坂中学校吹奏楽部の部員たちは、やや興奮気味だった。まあ、致し方ないことなのだが。亜美は先程ふと、音楽室に飾られている額縁を見上げた。去年の東海大会の写真の横に、新しく二つの額縁が並んでいた。

——中信大会金賞、県大会金賞。

 それに付け加え、東海大会への切符を手に入れたので、部員たちの気分はウハウハなのだ。と、そんな気分もつかの間。その翌日からは練習はさらにハードなものになった。せっかくの夏休みだが、松本の風物詩の松本ぼんぼんである今日も、もちろんと言わんばかりに練習だった。

「うっひゃぁ。本当に全然休み無いね」

 体操着の襟元をパタパタさせながら、楓が呟く。そのあまりもの親父臭さに、亜美はくすりと笑った。その日の昼休み、いつものメンバーで昼食をとっていた。少し離れた場所では、幼馴染四人組が何やら楽し気に口論をしている。

「せっかく松ぼんなのに、普通に練習あるんだもんなあ」

「まあまあ、パレードメンバーは五時には帰れるし良いじゃん」

「コンクールメンバーは六時まで合奏でしょ?めちゃ混んでるじゃんか」

 うっ、と思わずうめくと、華子はふんと微笑んで目を伏せた。確かに、あの歩行者天国の中帰るのは至難の業だ。そして、パレードメンバーというのは八月下旬に行われるパレードのメンバーの事だ。このメンバーは、コンクールメンバー以外で構成されている。松本市では毎年八月、有名な指揮者を招いてこの松本フェスティバルが行われる。その大目玉がそう、パレードだ。 小学生、中学生、高校生はもちろん、プロの団体も参加しており、とにかくにぎわう。そして最後は松本のシンボルにして、地元民がデートで行ったら破局すると有名な松本城で、参加者全員が一斉に合奏をするのだ。練習していたのは『星条旗よ永遠なれ』と『信濃の国』だったので、その二曲を合奏するのだろう。実際に招かれた指揮者が指揮をしてくれるとのことなので、ある意味そこでしか体験できないような夢の時間だ。

「いいなあ、パレード」

 ぽつりと亜美が呟くと、楓や華子、そして未来までもがとんでもない剣幕で近づいてきた。

「ちょっと亜美!普通にきついんだよ!先輩たち超スパルタだし!歩幅ちょっとでもズレるとやり直されるし!」

「そうそう、しかも途中でゆりっち先輩が様子見に来てさ、地獄だったんだよぉ」

「ああ、あれはやばかったねー。ゆりっち先輩、意外とスパルタだからなー」

「そうそう、この楓。ちょっと参ってらっしゃるぞ!」

 楓でさえがそういうのだから、よっぽど過酷なものだったのだろう。亜美はパレードには出たことがないので、そういうことはよくわからない。まあ、肌が赤い彼女たちを見てれば、きつい練習だということは一目瞭然だが。長野県は冷涼な気候と言いながらも、最高温度は三十度後半だ。その上、他の都道府県よりも標高が高く、紫外線ももちろん強い。なので、日焼け止めを塗らないと次の日とんでもないことになる。

「そういえば来週、すすきがわ花火大会じゃん」

 華子が、そうぽつりと呟く。そう言った途端、室内が面白いくらい静まり返った。え、と亜美は思わずきょろきょろと見まわした。すると、小春先輩が儚く微笑み返してきた。

「はなちゃんよ。その日は、合宿二日目ですぞ」

「え!そうなんですか?」

「先月のミーティングで言ってただろ」

 呆れ顔の久保島先輩の言葉に、華子はさらに顔を曇らせた。その表情を見るに、よっぽど楽しみにしていたのだろう。ここ、県ノ坂中学校の付近には、一本の川が流れている。この川を薄川すすきがわといい、毎年八月の中旬あたりに花火大会が行われるのだ。少ないながらも屋台もあり、松本市民にとっての松本ぼんぼんに並ぶ夏の風物詩とでもいおうか。だが、そんなイベントでさえも吹奏楽の行事で行けなくなってしまうのだから、華子が残念がる気持ちも分からなくもない。ただ、亜美には少しだけ合宿が楽しみだ、という気持ちがあった。まあ、きっと今以上にきついのだろうが。冷めた卵焼きを口に運び、亜美は少しだけ肩をすくめた。


 午後からは合奏となり、コンクールメンバーで音楽室は敷き詰められた。百人を超える風景に見慣れてしまっていたためか、今の五十人しかいない音楽室を殺風景だと思ってしまう。そして、今回の合奏は外部指導者が来るそうなのだが、先輩たちに聞いてもなかなか教えてもらえない。小春先輩とすすき先輩に聞けば「直にわかるさ」とはぐらかされ、百合先輩に聞けば「誰だっけな」ととぼけられ、ダメ押しの島田先輩に聞けば「他に当たれば」とあしらわれてしまった。そこまで隠す必要があるのかは謎だが、まあとりあえず現れるのを待つことにしておく。半分上の空でしばらく吹いていると、等々力先生は現れた。七分袖の紺色のシャツに、真っ白なストレートスカート。肩下の髪はお団子風にまとめ上げられ、その真っ白なうなじが露わになっていた。若くして、我が吹奏楽部を強豪にまで育て上げた、有力で美しい指導者。それが彼女の称号だ。轟部長の挨拶とともに、部員たちは挨拶を返す。彼女は微笑をたたえたまま挨拶をした。基礎練習の時などによく顔を出しているので知っているが、彼女は練習に移ると言動だけが厳しいものへと変わる。まあ、だからこそ全国大会の常連校にまで成長したのだが。

「今日は以前皆さんに連絡したとおり、外部指導の方が来ています。あ、どうぞ中へ」

 その指揮を振る手が、扉の向こうへと向く。その手を追いかけるように眼を動かすと、やや固い扉が開いた。そこに現れた人物は、一言で表すと滑稽だった。赤いシャツに白いズボンという、いかにもめでたそうな服装の男性に、亜美は苦笑いするしかない。ただ、顔だけはやけに端正で、服装がそれを台無しにしていた。彼は指揮台の横まで軽やかに歩いていくが、背中の「心技体」という筆書体のプリントが気になってしょうがなかった。

「どうも、等々力誓とどりきちかいといいます。ホルニスト・パーカショニストとして活動してます。いや、距離がって言われないことをますよ」

「それ、面白くありませんからね」

 等々力先生の真顔の突っ込みに、部員たちが笑い出す。どうやら、ずいぶんとユーモアな人らしい。って、苗字が同じ?と、いまさらながら亜美は困惑した。まさかとは思うが……。

「ああ、一年生は知らないかもだけど、一応夫婦です。まだ熱々のほやほやですが」

「ええ、少しは冷めてほしいものですね。とはいえ、彼はこう見えても優秀な指導者で―—」

 等々力先生の説明など上の空で、やはりそうか、と思っていると、誓先生の視線がフルートパートのほうへ向く。こちらは見ていない。もっと袖側、恐らく見ていたのは島田先輩だった。ただ、クラリネットの部員に隠れて、彼の表情は上手く伺えなかった。

「——ということで、彼には打楽器・金管パートの指導を主にしてもらおうかと思っています。私よりも厳しいかと思いますので、ご用心を」

「いやいや、それは無いでしょう。だって、さっきの挨拶軍隊みたいだったよ。やっぱ総司令官は厳しい?」

 偶然目が合ってしまったのか、クラリネットの二年生部員が固まる。そして圧に負けたのか、ものすごい勢いで首を縦に振っていた。まあ、確かに等々力先生にはその可憐な容姿とは裏腹に、総司令官というあだ名が相応しそうだ。もちろん、悪口ではない。すると、誓先生はスコアを手に取った。

「さっそくだけど、通してもらっていい?今がどんなクオリティか知りたい」

「そうですね、皆さん準備してください」

「はい」

 打楽器の部員たちの足音と共に、フルートに息を吹き込む。響いた音は、あまりにも無機質なものだった。


 合奏終了後、亜美は図書館へと向かう。未来がそこにいるからだ。亜美が一緒に帰りたいといったら、快く承諾してくれたものだから彼女は女神だと思う。だが、女神とはいえ数時間待たせている。自然と早足になりながら、まとわりつくような暑さの中を進む。すると、あっという間に紙の装飾が施された図書室の扉が見えた。昇降口の近くに位置するこの図書室は、夏はよく冷房が効いていて涼しい。図書館の扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。室内の空気が廊下に漏れ出て、それはそれで涼しかった。未来は、一番手前の席に座っており、やや分厚い本を読んでいた。ブックカバーのせいで裏表紙しか見えないので、タイトルはわからない。未来はこちらの存在に気付くと、手を小さく振りながらこちらに駆け寄ってきた。

「その本何?」

「うーん、家にあった本」

「面白かった?」

「微妙かなー」

 なんともふわっとした感想だ。まあ、それも彼女らしいと言おうか。彼女が本を鞄に収めたのを確認し、ゆっくり歩き出した。横髪を耳にかけながら、そういえば、と未来がつぶやく。

「外部指導の先生って誓さんだったんだね。私さっき話しかけられたんだけど、びっくりしちゃった」

「え、未来は面識あったりするの?」

 驚きで口に手を当てると、彼女は小さくうなずいた。

「誓さんが大学時代にね、島田先輩のお祖父さんに師事してたんだって。だから、私も顔見知り程度なら面識がある。島田先輩とかは親しい知り合いなんじゃないかなー」

 そうなんだ、と一言だけ落とし、亜美は思考に耽る。それならば、先ほどの不自然な行動にも合点がいく。だが、何をもってそれをしたのかは、自分にはわからない。うーん、と腕を組むと、未来がくすくすと笑いだした。意図がつかめず首をかしげると、未来は涙をぬぐってこちらを見た。

「ほんと、亜美ってシンカーだよね」

「しんかぁ?」

 突然飛び出したカタカナ用語に声が裏返った。残念ながら、亜美はそういった用語は得意ではない。

「解説を求める」

「私の造語ではあるけど、thinkにerをつけて『考える人』っていうことで『thinker』。なんかかっこよくない?『考える人・亜美』より『シンカー・亜美』のほうが」

「うーん、否定はできない」

「でしょ?」

 満足そうに息を吐きだした未来を見て、なんだか気が抜けた。靴を履きながら彼女のほうを見れば、機嫌良さげに鼻歌を歌っている。今日も平和だ。

そして、学校にいても松本ぼんぼんの曲は聞こえてきた。お祭りに行けなかった虚しさも込み上げてはくるが、それは吹奏楽部に入ってしまった時点で宿命だったのだろう。だが、先輩たちはそれを乗り越えてきたのだから、自分も乗り越えなくてはならないかもしれない。それから、他愛のない話をしながら住宅街を歩き、別れる道まで歩いた。といっても、道を挟むだけだが。けれど、そのときその人物は現れた。

「あれ、未来さん?」

 ぼんやりとした暗闇の中、一人の少女が目の前から現れる。真っ白なワンピースに、もっちりとした雪肌。さらさらと黒髪が揺れるその少女は、溢れんばかりの美しさを身にまとっていた。片手にはバイオリンケースが提げてある。ちらり、と隣を見ると、未来の表情が一瞬だけ強張っていた。

「る、瑠花るかちゃん。久しぶり」

「はい、お久しぶりです。とはいっても教室ぶりですね」

 よく見ると、その少女の瞳は青く澄んでいた。にこにことした会話の圧にきょろきょろしていると、未来がいろいろと補足してくれた。

「あ、この子は瑠花ちゃんって言って、島田先輩の妹さん。今年で五年生」

「はい。今は教室から帰っていたところです」

 えええええ!と夜の住宅街に自身の声が響く。確かに、以前から妹がいることは知っていたが、それにしても出会うタイミングが唐突すぎる。

「初めまして。島田瑠花といいます。兄が部活でお世話になっています」

「ええっと、お世話されてるかもだけどお世話してます」

 日本語が完全におかしい。あまりの恥ずかしさに赤面していると、瑠花さんはくすくすと肩を震わせていた。確かに、容姿を見てみれば島田先輩によく似ている。ただ、性格は言っては悪いが全く違う。なんというか、笑顔が満ち溢れていて、雰囲気が柔らかい。その雰囲気に癒されていると、彼女はバイオリンケースを持ち替えた。

「そういえば最近、未来さんおうちに来てくれないですよね。もしかして、まだあの件——」

「大丈夫、もう考えてない」

 力強く、未来が言葉を遮った。その言葉には、棘さえも感じられた。びくり、と瑠花さんは身を震わせたが、すぐさま笑みを浮かべた。

「すみません。そうですよね。でも、いつでも待ってますから」

 その言葉に、未来は弾かれたように顔を上げた。そのまま黙り込んでしまったが、ややあってこくりとうなずいた。それを見届けてから、瑠花さんはそのまま住宅街の奥へと消えていった。謎の美少女、と亜美の中では名付けた。と、そんなことはどうでもいい。未来は唇を噛みしめ、こちらの視線に気づくとすぐさま笑みを作る。

「あの子は、私の脅威なの」

「え?」

 そんな笑顔で言うかとは思ったが、それは彼女の自由だ。自分が言及していいことではない。

「どういうこと?」

「うーん。脅威ってことかなあ。じゃあ、こっちだから」

「え?ああ、うん。ばいばい」

「また明日」

 ひらりと手を振ると、彼女は家の中へと入っていった。それを見届けて、亜美は胸中で叫ぶ。

 本当に何なんだ島田家と白井家!彼らは、どんどん亜美の頭を難航させていった。とりあえず、汗臭いのでお風呂に入ろう。考えるのはそれからだ。そして、鍵をくるりと回した。

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