三話

「次、スケールやります」

 一年生部員だけが集められた教室で、指導係が指示を出す。それに一年生たちはすぐさま返事を返した。今日の休日練習は、午前中は一年生のみで基礎合奏をした。今月は強化月間らしく、あがたサウンドの基礎を作り上げるというものだった。

 ちなみにスケールとは一般的には規模などを指すが、音楽では音階を指す。つまりは音階の練習だ。

「ワン、ツー」 

 指揮が上がると同時に、息を吸う音がこだまする。下から上へ音を一つずつ挙げていき、再び下降する。地味な練習に見えるが、結構大事な練習だ。スケール練習は曲の理解を深めるためにも、音を合わせるためにもどちらに関しても重要だ。一通り吹き終わり、楽器を下ろす。指揮台の上に乗った生徒はしばらく思案するように目を伏せた。亜美は一番端の席に座っているため、彼の横顔が見えた。

「皆さん、指を速く回そうとして音がおざなりになっています。スケールは音一つ一つに耳を傾ける練習であって、指を速く回すための練習ではありません。楽器によって鳴りづらい音、音域による音程のズレを解決するべく、僕たちはスケール練習に取り組んでいます。以上のことを踏まえてもう一度」

「はい」

 小学校の時に意識していなかった点を、彼らは平然と指摘する。中には小学校の頃の先輩もいるが、ここでの生活で全てが変わっているようだ。指揮が振られ、一年生部員たちは再び同じスケールを吹いた。合わせては止め、合わせては止めの繰り返し。午前の練習は、少し長引いて終了した。終わった頃には部員たちはバテており、生気を失っていた。

「じゃあ、昼食休憩なので解散」

 指導係の生徒が教室から出ていった。その足音が遠ざかって完全に聞こえなくなった瞬間、一年生部員たちは一気に肩の力を抜いた。空気の差に亜美は苦笑し、フルートをクロスで包んだ。この楽器は入学祝に母に買ってもらったものだ。県ノ坂では、フルート、クラリネット、トランペットはマイ楽器を買う規則になっている。買えるまでは、彼女たちは学校の備品を使うこととなる。今のところ未来は買ったらしいが、楓と華子はまだ買えていないようだった。まあ、それはともかく。親指が少し赤くなっている。数時間ぶっ続けでフルートを構えていたせいか、フルートだこを立派にこしらえてしまい、亜美はそっとため息を吐いた。

「やばい、指の筋肉ごつくなりそう」

 楓がそういって指を盛んにこすっている。大丈夫、ごつくはならないから。多分。

 昼食休憩は原則パートごとに食べることになっている。まあ、守っている部員は少ないのだが。そう思いながら亜美は席を立った。

「亜美、一緒に行かないの?」

 未来がこちらを見上げている。その後ろからは華子と楓が今か今かとこちらの回答を待っていた。どうやら、四人で行かないかと言っているらしい。亜美はそっと首を横に振った。

「ごめん、水筒の水くみたいから……先に行ってて」

「あー、分かった。じゃあまた後でね」

「うん、後で」

 やや眉尻を下げた未来を見て、心臓をぎゅっと握りしめられた気がした。なんで、この子はこんなに可愛いのだろう。神様に愛されていそうだ。いやいや、と内心首を振り、亜美は踵を返して音楽室を後にした。水道があるのは体育館の隣のピロティだ。音楽室は一階にあるので、そこまで歩かなくて済む。ひんやりとした廊下を抜け、ベランダからピロティを目指す。この校舎は大きすぎて、場所を全て覚えるのは難しい。柔らかな風が頬を撫で、おさげがふわりと持ち上がった。それを押さえながら進むと、目の前に水道が見えてくる。幸いサッカー部は陣取っていない。上履きのまま砂利の上を歩くのはやや抵抗があったが、思い切って水道まで歩く。蛇口をひねれば、ややぬるい水が流れ出した。そこに水筒を突っ込むと、口からやや水が溢れ出してしまった。今はタオルを持っていないから、ハンカチで拭かなければならない。最悪だ。

「お疲れ」

 ハンカチで水筒を拭いていたら突如後ろから声をかけられ、亜美はビクリと肩を震わせた。慌てて振り返ると、そこには直属の先輩がいた。

「あ、島先輩。お疲れ様です」

 島先輩こと島田覇瑠しまだはる。吹奏楽部では珍しい、フルート担当の男子部員だ。寡黙な性格のためか、彼のことは謎が多い。彼は亜美と距離をとると、白く骨張った大きな手で蛇口をひねる。見たところ手でも洗いに来たのだろう。恐らく校舎中の水道が混んでいると思えた。なんだか気まずい。ふと顔を横に向けると、水の反射で青く透き通った彼の瞳がキラキラと煌めいていた。率直に、綺麗だと思った。以前、ジュエリーショップで見たブルートパーズの色によく似ている。

「……何?」

 島田先輩が首を傾げている。そこで、自分が島田先輩を凝視してしまっていたことに気づいた。まあ、こうなったらどうとでもなれ。

「島先輩って……ハーフですか?」

 二重を縁取る長い睫毛がふわりと瞬きを繰り返す。無表情のままではあるが、予想外だという思考は読み取れた。

「ハーフじゃない、クォーター。祖母がアメリカ人」

「ああ、そうなんですね。初耳です」

「言ってないから当たり前でしょ」

「そう、ですね」

 曖昧に返事を返した亜美を横目に、彼は白猫の刺繍がされたハンカチで手を丁寧に拭いている。それを見つめる横顔は端整だ。ここにも神様に愛されていそうな人がいる。

「練習、ついていけてる?」

「えっ」

 てっきりもう話は終わっていると思っていたので、亜美は一瞬だけ戸惑ってしまった。水筒を人差し指でなぞって、亜美は平常心を保とうとした。大丈夫、この人も人間人間。ちょっとレベルが高い人間。

「まあ、ついていけてます」

「そう」

「はい」

「……」

「…………」

 会話が途切れがちなのは、恐らく島田先輩が寡黙なせいだろうか。それとも亜美がよく舌の回る人ではないせいだろうか。ちらり、と島田先輩の方を見ると、彼の目線は靴に縫い付けられていた。靴はせわしなく動いており、どうやら靴底の石が気になっているらしい。ますますこの先輩に限っては謎が深まるのみだ。

「佐藤は……、なんで吹部入ったの?」

「……はい?」

 話がよく読み込めなかった。彼の表情は無表情なままで、何を考えているのかはよく分からなかった。首を傾げてばかりいる亜美を見てか、島田先輩は面倒くさそうに前髪をかき上げる。真っ白な額が一瞬だけ露わになった。

「だから、どうして吹部に入ろうと思ったのかって聞いてんの」

 ああ、なるほど。なら考えるまでもなかった。

「私の小学校の吹奏楽部、弱小で。だから、中学校では全国大会行きたいなって。頑張って努力して、結果を出してみたいって思ったんです。小学校では、いくら頑張っても誰も練習してくれなくて。もっと練習すればきっと——」

「不要な努力が報われるわけないでしょ」

 亜美の言葉を、島田先輩が静かながらも力強い口調で遮った。苛つきさえも感じさせる声色に、亜美は怖気つく。先ほどのまでの無表情とは明らかに違う、不機嫌そうに眉を寄せた顔。怖い、そう思った。

「なんで、全国を目指してない奴らと自分の意思を無理やり同じにしようとしてるわけ?そんな努力普通に要らない。不要な努力。説得してる暇あったら自分の実力上げて、中学に備えて練習するのが妥当でしょ。それに数こなせばいいものでもないし。空気が崩壊してる空間で意見を通そうとしてる方が間違ってる。絶対に、そんな無駄な努力は要らない」

 饒舌になる目の前の先輩に、亜美の思考が停止した。今までの自分の考えの全否定。それを、彼は平然と言う。考えを脅かす存在に、亜美は自然と一歩引いた。その刹那、ぐらりと視界がゆがんだ。何これ、と目に手を当ててみれば、指先が僅かに濡れた。涙だ、と気づいた時には、既に止めるのは遅かった。不必要、妥当、間違い、無駄。亜美の頭の中で否定する言葉が渦巻く。頬を伝う涙を島田先輩に見られたくなくて、亜美は背を背けてその場から逃げた。

「え、ちょっと!」

 慌てた島田先輩の声を完全に遮断し、亜美は振り返らずに走る。走っている間、亜美はどうしようとしか思わなかった。今までの自分の選択は間違っていたのだろうか。

 ——今まで私は、無駄な努力を重ね続けていたのだろうか。

「——っ……、」

 階段の脇で座り込み、亜美は膝を目に押し付けた。気づいた時には声を殺して泣いていた。なんで泣いているのかも分からない。ただ、否定されたショックで、精神がボロボロだ。水筒を握りしめて、爪先をぎゅっと丸めて、歯を食いしばって、亜美はただただ泣くしかなかった。あの冷たい瞳が、今は恐ろしく怖く感じた。

「…こちゃん。あみこちゃん?どうしたの?」

 どのくらい泣いていただろう。あだ名が聞こえ、がばりと顔を上げた。そこにいたのは小春先輩だった。不思議そうに首を傾げる彼女を見て、亜美はうろたえた。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、亜美の目元に押し付けてきた。その優しさにじんわりと心が温かくなる。そう思うとなぜかまた涙が溢れ出してきた。そんな亜美にも彼女は面倒くさがらずに、ずっと微笑んでくれていた。一度落ち着くと、小春先輩は亜美の隣に腰を掛けた。彼女の頭の位置は、亜美よりも少しだけ高い。

「で、なんで泣いてたの?はっ、まさかいじめられてたとか⁉」

 小春先輩の大袈裟な言葉に、慌てて否定の言葉を口にする。

「ちっ、違います!……島先輩に、えっと…その」

「ああ、分かった。島さんがズバッと言っちゃったんだね。あの子、結構正直に言っちゃうからなあ。で、なんて言われたの?」

「それは——」

 訥々と、亜美は一つずつ事情を話した。彼女はそれをうなずきながら聞いていてくれた。

「——そっかあ。無駄な努力は要らない、ねえ。こりゃ誰でも泣くわ」

 困ったように眉を垂らした小春先輩の顔を、亜美はただただ見つめた。でも、その顔はひどく優しい。すると、突然小春先輩はこちらに目をしっかりと合わせるように、下の段から亜美を見上げた。その行動に、咄嗟に身を引きそうになる。でもそれは、彼女が亜美の肩をつかむことによって止められた。

「あみこちゃん。きっと、島さんはこう言いたかったんじゃないかな。『真面目じゃない人に構っていたら時間がもったいない。だからもっと自分のことに時間を割いた方が効率的』って。まあ、かなりオブラートに包むとこんな感じだね」

 小春先輩は一息つくと、肩から手を放した。

「あのね、あの子はそうやって強く言っちゃうけど、罵ってやろうとか、貶めてやろうとかは絶対に思ってない。きっと、さっきも良かれと思っていったんだと思う。絶対にあの子はそんなことはしない。あの子自身、相当た——」

 と、そこで小春が口に手を当てた。言ってはいけないことを言いそうになったのを、無理やり抑えるように。

「とにかく!島さんのこと嫌わないでもらえると嬉しい。あの子のためにも、あみこちゃんのためにも。あ、もちろんみんなのためにもね!」

「え、あ、はい」

 無理やり明るく取り繕った小春先輩に言及する気にはならなかった。だが、話したことで心が軽くなった。頬をゆるりと上げると、亜美は小春先輩をそっと見下ろした。

「ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げると、小春がガシガシと頭を撫でてきた。髪型が崩れてしまったが、特にそれを気にする感じもない。ずっと微笑んだままの顔が、一瞬だけ驚きの色に変わったのは、気にしないことにした。顔を上げると、小春は後味が悪そうに後方に振り返った。

「あと……、ほら。出てきなさい」

 母親のような口調に促されて階段の手すりから顔を見せたのは、紛れもない島田先輩だった。彼もまた少しだけ眉が垂れている。ゆっくりと階段を上がってくると、彼は勢い任せに頭を下げた。ブヴォンという効果音が聞こえてきそうなくらい勢いがあった。そこまで速くやらなくても、と小春先輩が呆れたように呟いた。顔を上げると、彼はさらに困ったような顔をしている。

「えっと、その。佐藤は基礎はできてるし。さっきは申し訳ございませんでした……?」

「敬語はともかく、なんで疑問形なの?そこはシャキッとせい!シャキシャキの島さん!ミョウガ!」

 もはや小春先輩が勢い任せになっているので、さすがの島田先輩も怪訝そうに首を傾げていた。今だけは彼の気持ちが分かった。それはともかく。真の意味を理解できたのは小春先輩のおかげだし、過去への鉄鎖を外してくれたのは島田先輩だ。

「いや、いいんです。私も過去を引きずるのはやめました。私、もっと上手くなります。で、全国目指します」

 そう言い切ると、島田先輩は驚いたように目を見開いた。すると小春先輩が島田先輩の肩をポンとたたいた。いささか強すぎる気もするが。

「良かったじゃん、伝わってる」

「ほとんど飯島先輩が言葉を丸ごと変えたようにしか思えませんが」

「島さんね、後輩泣かせちゃいましたって、私に言ってきたんだよ」

 その言葉に、島田先輩は分かりやすく赤面した。元が白いからもっと目立つ。彼は口をパクパクさせ、何かを言おうとしていた。だが、すぐにいつもの無表情に戻って、素っ気なく「そういうこと言わなくていいので」と吐き捨てた。でも、よかった。きっと、これで正解だったのだ。少なくとも、中学校に入ってからは。一つ一つ選択しながら、時に間違ってしまっても、それはいずれ人生の一部となる。県大会の日が自分の始まりではない。きっと、この否定こそが、自分の始まり。

 これは、紛れもない私の人生の選択だ。

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