四話

 五月の上旬、吹奏楽部員たちは音楽室に召集されていた。部員数は約百二十名。

 音楽室は他の教室よりは広いはずなのだが、部員数が多いせいでとても窮屈に感じる。前列のクラリネットパートの密集加減にやや引きながら、亜美は左に顔を向けた。未来は指揮台の方をぼーっと見ていて、その奥では楓と華子が音楽室に対しての愚痴を吐いていた。

「はあ、暑い。先月の寒さどこ行ったの?」

「しかも音楽室に集合とか、人の熱でもっと熱いじゃん」

「ねー。早くクーラー解放しようや」

「それな。なんで解放しないだぁ?」

「おお、ハナコサン信州弁を出していくぅ」

「嘘。私言ってたっけ?」

 華子の長野県民にありがちな信州なまりに、楓がちょっとした茶々を入れている。楓も時々言っているが、気付いているのだろうか。にしても、夏服から冬服に変わるだけで、ここまで雰囲気が変わるものなのだろうか。県ノ坂の制服は年中セーラー服だ。冬服は灰色、夏服は白色。上着の色が変わるだけなのに、見た目は一気に涼し気になる。そう思っていた刹那、音楽室の扉が開いた。入ってきた生徒は五幹の部員たちだった。彼らはこれでもかと分厚い紙束を抱いている。

「はい、静粛に。これからミーティング始めます。お願いします」

「お願いします」

 黒板の前に立ったのは轟部長だった。清潔感を覚える短髪に黒縁の眼鏡が特徴の、我が校の吹奏楽部部長だ。眼鏡をとるとイケメンという談は、甚だ本当かは怪しい。だがまあ、統率力があるのは本物だろう。

「まず今年の自由曲と課題曲を一年生に配布します。人数分のスコアとパート専用の音源はあとでパートリーダーに渡すので、パートごと配布してください」

「はい」

 副部長二人が、パートごとに楽譜を配っていく。亜美の手元にわたってきたのは、フルートのセカンドの楽譜だった。ちなみにセカンドというのはパート楽譜内の役割分担のようなものだ。フルートは、ピッコロ・フルートファースト・フルートセカンドなどが主流だ。 ファーストは音域が広かったり、連符が多かったりなど技術を要するものが多く、技術の優れたプレイヤーが演奏することが多い。その反面セカンドは音域が狭く、そこまで難しい符はあまり出てこないので、やや簡単な譜だ。まあ、どちらにしろ難しいが。ピッコロがフルートに持ち替えたり、アルトフルートが出てきたりすることも稀にあるようだ。それはともかく、表題を確認した。課題曲Ⅲ『エイプリルマーチ』、自由曲『月へのオマージュ」。連符の数の多さ、取りづらい拍の連続。小学校の時の難易度を大きく上回る難しさだ。楽譜が部員全員に回ったことを確認すると、轟部長が小さく咳払いをした。

「今年の課題曲は課題曲Ⅲ、明坂和己あきさかかずみ作曲『エイプリル・マーチ』。自由曲は、福松雅ふくまつまさし作曲の『月へのオマージュ』です。課題曲にはオーボエのソロ、自由曲にはホルン、グロッケン、トランペット、フルートの順に、各楽章ごとにソロがあります。いずれも難しいですが、県ノ坂は全国大会金賞を目指して日々練習しています。だからこの曲で、絶対に全国大会で金賞を取りましょう」

「はい!」

 部員全員の声が、音楽室にこだまする。なんだろう、この雰囲気。凄く、わくわくする。そう思うと、口がにやけそうになった。小学校時代、目指すことさえ諦めていた全国大会。だが、ここは違う。みんな、本気で全国を目指している。その事実だけで、亜美の心は高揚した。

「で、ここからが本題です」

 いつもにまして真剣な面持ちの轟部長に、空気が張り詰めたのが分かる。思わず唾を飲み込んだ。

「県ノ坂では毎年、コンクールメンバーはオーディションで決めています。メンバーの上限は五十名。で、現在の部員数が百二十一名です。最低七十一名、つまり過半数はオーディションに落ちます」

 オーディション。その一言で、一年生たちは現実を突き付けられただろう。亜美は頭の中でフルートのメンバーを思い浮かべる。全十五名のフルートパートには優れた奏者がいる。首席は紛れもなく二年生の島田先輩。そして、次席は野山桜のやまさくらという三年生部員だ。小春先輩とすすき先輩は入るのは確実として考えてみる。去年の県ノ坂のフルートのコンクールの人数は六名。つまり、この二名にいかに滑り込めるかが問題だ。だが、ここは強豪校だ。みんなそこそこの実力もある。

「そこで、僕から忠告しておきます。県ノ坂でのオーディションは公正に行われていて、等々力先生は絶対的な耳を持っています。いくら不満があったとしても、それが県ノ坂のベストな状態です。贔屓は存在しません。絶対に。あるわけがない」

 やけに厳重だな、と轟部長を見つめる。その瞳は反論を許さない色で燃えている。ふと隣を見ると、三人も不思議そうに見つめていた。その反面、目の前のクラリネットの先輩部員は、平然とした表情をしていた。まあ、こういうものなのかな。そう、今ばかりは無理やり疑問を飲み込んだ。


 ミーティング終了後はパート練習となり、フルートパートの部員たちは東校舎の一番隅っこ、三年六組に移動した。フルートは軽い楽器だから、という理由で音楽室から一番遠い教室にされているが、逆に体力が持たない。合奏の際も早めに移動しないと、合奏に遅れて連帯責任を取らされるという短所も存在し、色々と理不尽なパート練習場所だ。

「どんな曲かは知らないけど、なんかドキドキしてきた」

 楓が興奮したように腕を上下に振り、それに華子が深くうなずく。

「でも、楽譜見てる限り、セカンドのくせしてかなり難易度高くない?ね、亜美」

 突然話を振られ、反応が数テンポ遅れてしまった。慌ててそちらに向き合う。

「確かにそうだね。第三楽章とか連符の嵐だし。コンクールまでにできるようになるかな」

「その前にオーディションでしょ?あみこ」

 肩に手を置いてきたすすき先輩が、呆れ顔で言葉を紡いだ。確かにそうだった。

 オーディションに受からなければ、本番に演奏することはできない。とりあえず、今はオーディションに向けて練習すべきだろう。すると、先ほどまで楓と何やら話していた華子が、コテンと小首を傾げた。

「そういえばつきみ先輩って、ずっとピッコロなんですか?」

「ん?今年からだよ。先輩に頼まれちったんでねぇ」

「てことは、ピッコロは先輩が直談判して、後輩に継承していくものなんですね」

「そそ。ま、君らも二年になったら特殊管認定式あるからお楽しみにー」

 冗談めかしたすすき先輩の言動に、華子が何故か目を輝かせる。特殊管という言葉に目を惹かれたのかもしれない。というか、特殊管って何だろう。亜美が頭を悩ませていると、教室の扉が勢いよく開いた。

「ごめん、遅れた!スコアこれから配ります!」

 遅れてやってきた小春先輩は、一年生部員一人一人にスコアを渡していく。自由曲のスコアである水色の冊子は、思っていたよりすべすべとしていた。教卓に備えつけのラジオを置いた二年生部員にお礼を言うと、小春先輩がおっほんとわざとらしく咳払いをした。

「よし、みんないるね。じゃ、突然だけど一年生でこの二曲について知ってる人ー!」

 室内がしんと静まり返る。いや、元々静かではあったのだが、空気が微動だにしない感じがした。そんな空気を破った部員がいた。数秒遅れで手を上げた島田先輩だった。小春先輩はふう、と息をつくと、教卓をバンと叩く。

「島さん一年生だっけ?」

「時間の無駄なので。模造紙貼りますか?」

「さすが、その道に精通しているだけあるね。じゃあ、模造紙を張ってもらおうか⁈」

「これ書けって言ったの飯島先輩ですよね」

 小春のボケを華麗にスルーした島田先輩は、相当の大物だなと思う。しかも無表情なものだから、少しも響いていないように見える。島田先輩が模造紙を黒板に貼る横で、「まあそうだけどさ」と小春先輩が片頬を膨らまして小言を投げかけているが、彼はどこ吹く風だった。横に座る未来に視線を送ると、未来もまた複雑そうな面持ちで眺めている。黒板に貼られた模造紙は二枚あった。カラフルなデザインで、所々にイラストらしきものが描かれている。クールな印象を与える島田先輩にしては意外だった。同じことを思ったのか、楓が机に乗り出した。

「へえ、島先輩って字綺麗ですね。ていうか、この絵誰が描いたんですか?」

 楓が指さしているのは『月へのオマージュ』の横に描かれた、月の耳飾りを付けた猫のイラストだった。少し幼い作画だ。島田先輩はあまり深堀してほしくなかったのか、面倒くさそうに眉間を寄せた。

「弟と妹」

「へえ!兄弟いるんですね!羨ましいです」

「そう」

 心底どうでもよさそうに相槌を打つ島田先輩に、楓は一瞬だけ頬を強張らせる。その表情はどこか悲しげだ。だがそれも一瞬で、さらに言葉を畳みかけ始めた。楓のこういうところは真似できないと思う。にしても、兄である島田先輩でさえ綺麗なのだから、弟や妹もさぞや美しい容姿をしているのだろう。見てみたい。

「もう、こっちに注目してくれぇ」

 教卓の前で駄々をこねる小春先輩に、二年生部員たちが慌てて小春先輩に目を向けた。亜美もそれにならう。全員の目が自分に向いたことを確認し、小春先輩が課題曲を再生させる。

「まず課題曲から。表題からわかるように、春がテーマの曲です。ね、ほら。めっちゃ明るい曲でしょ?そのくせ、技巧が優れてないと曲が崩壊するという技巧的要素もあります!特に最後のオーボエのカデンツァ表示のソロ!聞きごたえたっぷりですよねえ」

 小春先輩のセリフに、華子が小首を傾げた。

「カデンツァってなんですか?」

「ああ、それは——」

「ソリストが楽曲の最後に伴奏なしの自由な即興演奏をすること」

 小春先輩が答える前に、隣にいた未来がしれっと答えた。即答した内容をよく聞き取れなかったのか、華子が瞬いている。未来はえっと、と言葉を濁すと、身振り手振りで説明し始めた。

「詳しく言うと、曲の最後辺りにソロを吹く人が、自由に演奏することかな。この曲の場合は即興風だけど」

「ああ、つまり難しいってことか!」

「え?まあ、そうだね。そういう認識でいいと思う」

 さすが未来、と内心で称賛の言葉を投げかけた。実は未来の母親はバイオリニストで、彼女自身様々な楽器を習っていた。聞いたところの話、ピアノやバイオリンなどのメジャーな習い事から、尺八や筝などのマイナーな習い事もしていた気がする。

 しかし今は、ピアノとビオラに絞っているようだ。まあ、そんな音楽に精通した彼女なら、基本的な音楽用語を知っていても何ら違和感もないだろう。未来の説明を聞いていたのか、小春先輩が「その通り!」と教卓を再び叩いた。いい加減、教卓にたんこぶができそうだ。

「今みっくーが言ったとおり、カデンツァは難しい!まあ、県ノ坂のオーボエパートは優秀な人ばっかりなので期待しましょー」

 まだあまり先輩と一緒に合奏はできていないが、確かにオーボエパートのレベルは高いようだ。同級生のオーボエ担当の生徒二人は、そのレベルに一生懸命追いつこうと必死らしい。精鋭パートも大変だな、と亜美は他人事のように思う。

 そう考えているうちに、小春先輩が再びラジオを操作した。流れ出したのは低音のメロディーだ。課題曲とうって変わって、なんだか穏やかな曲だ。

「今聞いてもらってるのは自由曲の『月へのオマージュ」ね。全部で4楽章あって、フルで演奏すると十五分だから、カットが必要です。各楽章表題があって、第一楽章「新月」、第二楽章「三日月」、第三楽章「満月」、第四楽章「朧月おぼろづき」となっています」

 そういうと、小春先輩は曲をスキップし、第四楽章を再生し始めた。フルートの低音が、静かな世界でただ一つ響いている。

「しかも、各章ごとにソロがあって、その上第四楽章のほとんどはフルートソロです!ファーストの人たち頑張ってー!」

 ファースト担当の部員たちが口々に返事をした。中にはやはり島田先輩もいた。

「あと島さん情報だとこの曲は、作曲者の福松雅さんが奥さんと過ごした最後の一か月をテーマにしているとのことです。超ロマンチックですよねえ。いくら調べてもそんな情報なかったから、ほんとありがとね島さんよ」

「別に。親戚から聞いたので」

 親戚とは?と、亜美は内心思ったが、表情を見るに彼は言及を許していないようだったので、今は受け流すことにした。彼なりの冗談かもしれない。ふと、未来の方を盗み見ると、彼女の顔が僅かに強張っていた。どうしたのだろうと、思わずまじまじと見つめた。しかし目線に気づくと、その表情は笑みへと変わった。気のせいかな、と亜美は手元のスコアの表題を指先でなぞった。

「あ、忘れてた」

 小春先輩はくるりと踵を返すと、黒板に何かを書き始めた。カツカツと無機質な音が教室に響く。黒板には丸っぽい字が書かれていた。それをドンと叩くと、小春先輩はハキハキと話し始めた。

「さっき部長に言われたんだけど、オーディションについて不足がありました。県ノ坂では、大会ごとにソロのオーディションがあります。それに加えて、この人のほうがファーストに適していると先生がみなした場合、メンバー内またはメンバー外で入れ替えが行われる場合があります。あと、メンバー落ちした場合、小さいホールでの演奏会に出場してもらいます。全員だと定員オーバーしちゃうからね」

 それ、めっちゃ重要じゃないですか!内心亜美は叫んだ。やはり、ずっと固定なわけではないようだ。もしメンバーになっても入れ替えになる可能性はあるし、メンバーから落ちてもメンバー入りする可能性もある。にしても、強豪なだけあってコンクール期間でも演奏会はあるようだ。全員が主役、そんな言葉が亜美の頭に浮かんだ。

 よし、と小春先輩が教卓を叩くと、ニッと微笑んだ。その表情に、何故か高揚感を覚えずにはいられなかった。

「じゃあ、練習しましょっか」

「はい」

 教室で、十五人分の声が響いた。その事実に、亜美は感動せずにはいられなかった。

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