第65話 脱出行

「マソンさん、食い物はどれほど残っとりますか?」

「水すら尽きました。これは補給を考える必要がありそうです」


 先を急いで歩きづめたガストンと従士マソンであったが、当然ながら歩けば腹も減るしノドも渇く。

 2人が携帯していた非常食は底をつき、水筒も空になっていた。


「ううむ、補給ですかい。とはいえ、ちょっくら狩りをするには難しい状況で」


 森に慣れたガストンが2人がかりで採取や狩猟を行えば食料は手に入るだろう。

 だが、今はそのようなヒマはない。彼らの目的は野営ではなく、一刻も早いビゼー伯爵領への帰還なのだ。


 もたもたして野盗に襲われてはたまらない。大戦があれば諸々のゴタゴタで治安は乱れるものなのだ。街道でも安心はできないだろう。


「そうなると押し込み強盗が手っ取り早いが……」

「いやあムリで。近くで戦が、それもあんな大戦があれば村人は門を閉じて縮こまっとるはずです。警戒中にヘタに近づいたら総出で石を投げられますわ」

「むう、ならば村から離れた森林官(森の管理人)の小屋などは……?」

「もぬけの殻でしょうなあ」


 行軍中の補給とは多くの場合、略奪に他ならない。

 盗みや強盗は武芸のうちであり、歴戦のガストンと従士マソンも手慣れたものではある。

 ただ、今は人数が足りない。

 戦に慣れた横の国の村落がいかなるものか、ガストンはよく知っていた。

 落ち武者の身で下手に近づけば狩られるのはむしろガストンと従士マソンになるだろう。


「さりとて、飲まず食わずで旅は続けられませぬ。離れ小屋に押し入り、もぬけの殻ならば身を休めてはどうでしょう?」


 従士マソンはなかなか判断がつかない様子だ。

 無補給での行軍とはそれだけ無謀なことなのである。


「なら見るのが早え。ちょいと高い木から物見ものみをしてみますかい? マソンさん木登りは?」

「やりましょう。得意でもありませんが心得はあります」


 2人はほど近くに生えていた手頃な立ち木を選び、するすると登る。

 するとそこには門を固く閉ざした村の様子が見て取れた。櫓には複数の見張りまでいるようだ。


「こりゃダメだ。うかつに近づくこともできんわい」


 ガストンはわざと従士マソンに聞こえるようにため息交じりの声をこぼした。

 これを見ても村を襲うと言うのならば顔を張ってでも止める心づもりである。


「これだけ警戒されては近づくのも骨ですわ。飯の心配なら、川を越えて北に向かえば俺の故郷もほど近い。腹減りは辛抱し、川の水で腹を埋めてこのまま向かうのもできますわな。川の水を生のままで飲むのは体に悪いが仕方ねえでしょう」


 従士マソンは「ふうむ」と考え込み、首を振った。


「いや、このまま伯爵の持城であるヌシャテル城に向かいたい。これだけの敗戦だ、もはや横の国は誰が敵であっても不思議はない」

「それは取り越し苦労ってもんで。故郷はリュイソーの殿様の領地です。あの殿様が敵に転ぶことは万に一つもねえ。俺はかつて仕えておりましたから詳しいのでさ」

「……リュイソー男爵か。しかし、それは男爵が無事なればでしょう? ガストンさんの旧主に対し不吉なことを口にしたくはないが――」

「な、な、なるほど。あの大負けだ。リュイソーの殿様が無事とは限らねえか……面目ねえ、まったく思いもよりませんで」


 この世界の外交や君臣関係は個人の関係性や感情に大きく左右される。

 たとえ当代のリュイソー男爵がビゼー伯爵に忠実であったとしても、後継者がビゼー伯爵と関係が悪ければガラリと方針が変わるなどざら・・にある話なのだ。

 このあたりの機微はガストンには分からない。


「失礼をいたしました。あくまで可能性の話です。私も村に押し入るのは諦めます。何ごとも慎重に行きましょう」

「へい、せっかくギユマンに見逃されたのに落ち武者狩りで死んではもうしわけねえ。慎重に行くのは賛成ですわ」


 2人は遠目に村を眺め、通過する。

 この時、ふとガストンは故郷の村での出来事を思い出した。


『妹は川向うに嫁がせました』


 かつてガストンが帰郷したおり、ポールが口にしていた言葉だ(43話)。

 川向こうの村は数あれど、ひょっとしたらポールの妹のポレットはこの村に嫁いだのかもしれない。


(もしそうなら、ひと目会ってみたかったもんだの)


 そんなことを考え、ガストンはすぐに「ばかな」と声を出して自嘲した。

 若いころの淡い思慕というのは美しい記憶だ。だが、今さら再会したところで相手は人妻である。よそ者と会話をするだけでおかしな噂をたてられるのがオチだ。

 村の社会がそうしたものであることをガストンはよく知っていた。


「どうなされた?」

「いやいや、故郷の知り合いが川向うに移ったと聞いとりまして、ひょっとしたらこの村かと考えたのですわ。こんな時にもうしわけねえ」

「それは心配です。この戦の影響が小さければよいのですが」


 ガストンは従士マソンの如才ない受け答えに「ホッ」と息をついた。

 従士マソンの相手の事情に立ち入らない姿勢は生来の気質か、それとも育ちの良さであろうか。

 今の状況では、さすがに『女のことを考えていました』とは言いづらい。この態度はガストンにはありがたかった。


「まあまあ、先を急ぐとしますかい」

「ええ、遅れた行軍に良いことなどありませんからね」


 こうしてガストンらは補給もせず先を急いだ。

 空腹を我慢して冷静な判断を下した2人は『欲しければ奪う』がまかり通る時代にあって非常に理性的であったと言ってよい。


 だが、冷静な判断が正解であるかは別の話だ。


 この後、がぶ飲みした川の生水が悪かったのか、それとも道すがら捕まえたカエルやカタツムリを焚き火で炙ったものに食あたりをしたか……とにかく2人は猛烈な吐き気と腹痛にみまわれた。

 その様子はあまりに汚らしく悲惨なために割愛するが、2人は生死に関わるレベルで憔悴しょうすいし、やつれはてた。


 戦場からの撤退で最も苦労したのが離脱後の帰路だというのは皮肉であるが、後年のガストンが『人生でも特別につらかった』と口にしたほどの災難だったのは間違いない。


 そこからはもう覚束おぼつかぬ足取りで、互いに支え合うように必死に歩き、なんとかヌシャテル城を望むころには2人揃って見るも無惨な姿であった。

 顔色悪く、眼窩は落ちくぼみ、頬はこけ、無精髭は伸び放題……もはや落ち武者というより弱り果てた浮浪者に近い。


 それは捕虜となりながらも陣破りをし、決死の逃走劇を繰り広げた勇者の姿としてはあまりに痛々しく、ギユマンと共謀した脱走という狂言に信憑性しんぴょうせいを与えるのには十分であったろう。

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