第57話 あらたな戦雲
ガストン27才。
ここしばらくバルビエ領の平和の中で、変わったことといえばアゴヒゲを伸ばしたくらいだろうか。
このヒゲが兜を固定する紐と噛み合い具合が良く、ガストンも気に入っていた。
まだジョアナとは子供はいない。
いや、正確には昨年息子が産まれたのだが間もなくして育たずに死んだ。
ガストンの生きる世界、乳幼児の死亡率は令和日本とは比べものにならぬほど高い。
ジョアナもガストンも初子の死にはガッカリしたが、すぐに諦めて受け入れたようだ。
子供がかわいくないわけではない。人情としてはたまらなく悲しい。
だが、死が身近な世界では幼児の死に対して非常にドライにならなければならない現実があるのだ。
さて、そんな失意の中ではあるが、バルビエ領主であるレオンのもとに陣触れが届いた。
「ほう、陣触れですかい。久しぶりですな」
「ええ、来月中には軍を率いてビゼー城へ着到せよと」
ここでガストンは「おや?」と疑問を感じた。
バルビエ領からビゼー城までの行軍を考慮しても2ヶ月近い準備期間は長すぎる。それに前線基地のヌシャテル城ではなく、わざわざビゼー城で集まるというのもまどろっこしい話だ。
「ずいぶんとのんびりした話ですな。集まるのもヌシャテル城じゃないので?」
「ええ、これは伯爵ではなく王国からの陣触れでしょう。大きな戦になりそうだ」
このレオンの言葉にガストンは「左様でしたかい」と曖昧に頷いた。
ガストンはあまり理解していないが、リオンクール王国全体で軍を動かすとなれば万余の軍が動員されるということだ。
そうなれば全軍が揃って動くことはありえない。ビゼー伯爵や諸侯は別々に動いて戦場で合流するのである。
トラックや鉄道はないのだ。数万人もの軍勢を賄うだけの輸送は基本的には無理である。
食料や水が不足すれば行く先々の土地は大軍勢による補給という名の略奪で荒廃は免れない。
敵地ならまだしも、自らの勢力圏内ではそれは避けるのが常道なのだ。
ある程度の単位でそれぞれの軍が動き、戦場で合流することになる。レオンはバルビエ領で兵を集め、ビゼー城で集合し、さらに伯爵は合流地点に向かう……非常に面倒だが、理由があることなのだ。
ゆえに全軍が集結するのは陣触れから数カ月後というのもざらにある話である。気の長い話だ。
「兵や糧食は私が。義兄上には出立まで兵士や志願した雑兵どもに訓練を施していただきたい」
「
実はガストン、ジョアナに『騎士たる言葉づかいを』と仕込まれている。
いつまでも方言丸出しのガストンではいられない――いさせてもらえない。身分のある女房をもらうのも良し悪しなのである。
「弓はジゴーさんに任せ、俺は槍とレスリングの稽古をつけます
とはいえ、人間のクセとはなかなか抜けるものでもない。
「そうですか、ジゴーも喜ぶでしょうが……訓練は義兄上の慣れたやりようでいいのですよ?」
「いやいや、当家の強みは飛び道具が多いことですわ。俺は弓が苦手ですから、そこはジゴーさんに任せる他はありません」
レオンはガストンのちぐはぐな言葉づかいを聞き「ではよろしくお願いします」と苦笑した。
彼も自らの姉がガストンに苦行を強いていることを知っているのだ。
「戦までにミサを行いますので、折を見て1度出陣する者らを集めましょう」
「承知しました。皆に声をかけときますわ」
数年も仕えればガストンとレオンの関係もできあがり、息も合ってくる。
レオンは良しも悪しくも常識的な若者であり、領民を大切にする心が強い(これはガストン夫妻が領民との距離が近いことも影響しているだろう)。
人格も奇矯なところがなく、非常に素直で接しやすい人柄といえる。
レオンは家督を継いで数年、何かを成したわけでもないが、いつの間にか領民の間では『名君だ』と名望を高めつつあった。
その日暮らしで懸命な家臣や領民にとって、名君とは戦上手や改革を進める主君ではない。
ただ、仕えやすい主君が名君なのだ。
●
「ええかっ! 槍は叩く、突く、払うだけのことだわ! 死にたくなければ毎日稽古せいっ!」
ガストンの訓練はバルビエ領でも変わらない。師であるペルラン仕込みのスパルタである。
槍の訓練ではまず叩きのめし、型を見せ、繰り返し稽古をさせるだけ。部下らがヘバればムリやり立たせ、動けなくなるまでしごき続けるのだ。
下手に弱音を吐けば「テメェは敵にも許しを乞うんかっ!!」とガストンに殴られるのだから部下らからすればたまらない。
「俺の初陣はいきなり戦で殺されかけたのだ! 稽古するだけありがてえと思えっ!!」
この調子の『苦労自慢』で怒鳴り散らす、まず部下から嫌われるタイプの上司である。
しかし、そこはペルランとは違う部分があった。ジョアナや家来たちの存在である。
ジョアナは面倒見が良く、ガストンにしごかれた雑兵などに食事をふるまっていた。
また、ドニは伯爵家で自らが無実の罪に問われたことを口にし、ガストンだけが自分のことをかばい続けてくれたと雑兵らに語った。
「ええか、お頭は手下を絶対に見捨てねえ。厳しくするのも戦で手下が死ぬのを憐れんでのことだ。戦で向かってくるのはお頭の怒鳴り声じゃねえ、本物の槍だぞ。ここで怯んでちゃ戦でものの役には立てっこねえ」
ドニはこう口にして自らが最もガストンに叩きのめされるのである。もはや博打やケンカに明け暮れた若者の姿はない。
トビー・マロも似たようなもので、ガストンから留守番を任せると伝えられてからは必死の稽古を続けた。
主君不在の家を守るのは名誉なことであり、マジメなトビーはそれに耐えられるようにと人一倍の努力を重ねている。
彼は彼でわざわざ呼び寄せてまで家来にしてくれたガストンに感謝をしていた。故郷の村で乙名を務めるトビーの実家は『末の息子が請われて従騎士の家来になった』ことで、大いに面目を施したのだ。
つまり、レオンの姉であるジョアナはいうまでもなく、ガストンの家来である彼らもバルビエ兵からは一目置かれるような扱いを受けてたのである。
そして、雑兵らは彼らが慕うガストンをなんとなく『えらい人なのだ』と尊敬した。
「いやいや、ヴァロン様のご家来衆も大した根性じゃねえか」
「ヴァロン様はしごきがキツいしおっかねえが、戦になりゃお味方よ。むしろ頼もしいぐれえだ」
「いやあ、痛いのはかなわねえが、飯を食わせてもらえりゃ文句はねえよ」
こうした声が多い中、面白くない顔をしている者もいないわけではない。
特に馬丁のイーヴは目に見えてドニやトビーのことを嫌っていた。
「なんでえ、又家来(家来の家来のこと)のくせに生意気な」
このように、ことあるごとに陰口を叩いている。
イーヴは軽輩なれどレオンの直臣でありガストンと同僚ともいえる立場なのは間違いない。
また、騎士にとって軍馬は大切な相棒であり財産でもある。それを管理する馬丁は騎士家にとっては特別な役職でもあった。
つまりイーヴには『自分はヴァロンさまの馬を世話をしているのだ』という誇りがあるらしい。
ガストンの評判が良くとも、すべての兵士から好かれるのは不可能である。イーヴはある意味で新入り嫌いたちの受け皿となっていた。
恨みの矛先が領主の身内であるガストンではなく、その家来のドニやトビーに向いているのも具合がいいのだろう。
だが、かなしいかなイーヴは風采がみすぼらしく、気質も愚鈍だ。イマイチ人望に乏しく仲間は少い。
ドニやトビーからしても悪感情を向けられればおもしろくない。
ともすれば『鳴り鼻め』『あのグズめ』となるのは自然な流れだった。
人が集まれば派閥を作り、いがみあう。これはどこでも同じだ。
吹けば飛ぶようなヴァロン家も例外ではない。
そしてガストンは人の感情の機微を察する気質ではなかった。
そのような派閥じみたいがみ合いが自らの足許で起きているなど想像もしたことがない。
ガストンはガストンで、油断なくご機嫌とりをしなければならない相手がいたのだ。
ジョアナである。
この日もガストンはジョアナが新調してくれた軍装を見て手を打って喜んでいた。
「やあ、これは立派なもんだ。すげえもんだ」
「ええ、ヴァロン家の当主がみすぼらしい軍装をしてはなりませんからね。人は見ていますよ」
「いやいや、鎧下が特にええ具合だわ。俺は鎧下など着たことがねえ」
「もう荒縄を巻いて戦をするなど許されません。当主の恥は家の恥でもあります。誇りのあるヴァロン家を盛り立ててください」
鼻当てのついた水滴型の鉄兜に
槍は新調しておらず、剣や盾はギユマンから奪ったものだ。
今のガストンは女房の化粧料から鎧を新調してもらうたいへん結構な身分だ。誰もがうらやむ待遇にはちがいない。
しかし、それゆえに気を使わねばならない部分もある。
今のガストンは女房の実家に世話になっている――昭和の日本風に言えば『マスオさん状態』なのだ。
ジョアナの機嫌を損ねたら、ひどく面倒なことになるのはここ数年で身にしみていた。
(へっ、何が誇りあるヴァロン家じゃい。俺が作った
内心ではこう皮肉を言ってみたくもあるが、決して口には出さない。
ジョアナはその手の軽口を許さないのだ。
「うん、この鎧で手柄を立ててやるわい」
「口調が」
「……手柄を立ててみせよう」
「お言葉を返すようですが、手柄よりも無事に帰ってきてください。そのための鎧ですから」
「うん、そうだな、無事に帰ろう」
二人の出自を思えば、この調子で尻に敷かれる程度は仕方のないことだろう。ガストンも納得ずくのことでもある。
(ほうじゃな、ジョアナが言うことももっともだわ。なにせジョアナは戦で旦那を亡くしとるのだからのう)
これもガストンは口にしない。
ジョアナは前夫の話になるとたいへんに機嫌を損ねるからだ。
「出陣前のミサにはこれを着て出よう。皆が驚くわ」
ガストンが鱗鎧をポンと軽くなでると、ジョアナは「ぜひに」と笑顔を見せた。
これでも夫婦仲は良好なのである。
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