竜門橋

水無瀬 了

「竜門橋」

国民学校の行き帰り、桃子はいつもその羊を見ながらその場を通っていた。

内川の堤の土手に打たれた杭に紐で繋がれ、うまそうに草を喰っている一匹の羊。

羊のいる場所は日によって違った。

杭を打たれている場所が変わるのである。

杭を中心とした円内の草を食い尽くせば、飼い主が杭の場所を移動させるのだ。

草を喰っている羊の顔を飽きることなく桃子は眺めた。

羊顔という言葉があるのかどうか桃子は知らなかったが、もしあればそれはこの羊のような顔だろうと思った。

優しげな穏やか顔。

体を覆っている毛は、もふもふとして柔らかそうだ。

触ってみたいな、あの毛の中に顔を埋めてみたいな、あの毛を抱き締めてみたいな。

羊に乗って駆けている自分を想像することもあった。

堤はその上が道になっていて東西に真っ直ぐ伸びている。

その道を羊に乗ってまっしぐらに走れば、どんなに気持ちがいいだろう。

羊を眺めながら桃子の妄想は果てることなく膨らんでいくのだった。


その日桃子はいつものように羊のいる堤の道を帰っていた。

近所の同級生の梅子と一緒だった。

羊のいる場所まで来たときだった。

桃子は大変なことに気づいた。

羊が、いない。

杭は、朝見た場所に確かに打たれている。

どうしたんかな?

今日はもう飼い主が連れて帰ったんかな?

梅子ときょろきょろ辺りを見回してみたが、羊はどこにもいなかった。

やっぱり連れて帰られたんだと思った時だった。

「あんなとこにいてるー。」

梅子が指さして叫んだ。

梅子が指さしているところは、桃子が探していたのとは反対側の土手だった。

羊はいつも内川に面した側の土手に繋がれている。

だから桃子は内川側の土手ばかり眺めながら学校に通っているのだった。

学校から帰るときも内川側の土手を眺めながら帰る。

羊がそこにいると思っているからだった。

しかし今、羊は杭だけを内川側に残し、ひもを引きずった自由な体になって内川と反対側の土手にいたのだ。

つまりは、逃げた?

これはチャンスや!

桃子は小躍りしたいほどの興奮状態だった。

桃子はランドセルを梅子に預けて走った。

乗れるぞ。

羊に乗れるんだ!

桃子は反対側の土手を勢いよく駆け降りていった。

勢い余って草に足を取られズテーンっと転んでしまって、起き上がったところがすでに羊の足元だった。

手足といい、顔といい、あちこち草で切り傷だらけになっていたが、そんなことは構っている場合ではなかった。

羊に逃げられてしまっては何にもならない。

まずはしっかりと羊のひもを握りしめた。

突然現れた変な娘に驚くこともなく、羊は相変わらずのんびりと草を食べている。

その様子を見た桃子は、まずはあいさつと思って羊の顔をのぞき見た。

「えへへ、羊さん。こんにちは。今日はどうしたん? こっちの草を食べたくてひもを外したん?」

そんなことが羊にできるはずはない。

おそらく何かの弾みでひもが解けてしまったのだろう。

しかし、そんなことは桃子にはどうでもよかった。

ただ単に我が身に舞い込んだ幸運に感謝したいだけの気持ちだった。

「羊さん。桃子がお家に連れていってあげるね。」

なんて勝手なことを言いながら、やおら羊にまたがってしまった。

堤の上では梅子が目を丸くして驚いている。

「ももこおー。何してるんよおー。」

しかし、そんな梅子の声は、今の桃子の耳には届かない。

なにせ念願の羊についにまたがったのだ。

「うわあー、気持ちいいー。もふもふやあー。雲の中にいるみたいー。」

桃子は夢中だった。

羊はというと、そんな桃子に驚くでもなく相変わらずモグモグ草を食べている。

「ねえ、ちょっと。動いてよ。走ってッ!」

桃子がいくら頼んでも羊は動いてくれない。

「ももこおー。なにやってんのお? もう帰ろう。」

「だってえー。羊に乗って走りたあーい。」

そのとき、堤の向こうから農夫のおじさんがこちらにやってくるのが見えた。

「ももこおー。おじさん来たよおー。」

しかし、梅子の声は羊を動かそうと懸命に取り組んでいる桃子には届いていなかった。

おじさんが梅子の近くにやってきた。

「こらあー! お前ら! 何やってる!」

おじさんの大きな一喝が辺りに響いた。

(ほら、いわんこっちゃない)

梅子はばつの悪そうな顔をしておじさんを見たが、桃子はそこどころではないといった感じで羊にくらいついている最中だった。

仕方なく梅子はおじさんに嘘をついた。

羊が逃げていたので友達が捕まえたんやけど、あの通りで羊が動いてくれないんやと。

梅子の言葉を聞いたおじさんは急に態度を変えて機嫌が良くなった。

「そうか。そうやったんか。それはすまんかったな。怒鳴って悪かったな。」

おじさんは土手を下って羊と桃子の所に近づいていった。

(やれやれ。ほんまに桃子は世話の焼ける)

梅子のため息が堤の風に吹かれていった。


桃子が家に帰ってしばらくして先ほどの農夫が現れた。

(うわッ!)

庭で遊んでいた桃子は思わず納屋に隠れようとした。

「ももこおー。かくれやんでええって。」

家にランドセルを置いてから遊びに来ていた梅子が言った。

「だってえー。」

「いいから。いいから。おじさん怒りに来たんとちゃうって。」

農夫は長屋門から庭に入ってきた。

「おまんらさっきはすまなんだな。ありがとうやで。お母さんはおるかえ。」

「にっ西の、はっ畑に、いてる。」

桃子がかろうじてそう言うと、

「そうかえ。ほんなら、ちょっと行ってくるかな。」

農夫は長屋門から出て行った。


「梅ちゃあーん。ありがとうなあ。おかげで助かったわ。」

桃子はガクッと首を垂れて梅子にお礼を言った。

「いいって、いいって。でももう、二度とやったらあかんよ。桃子は何するかわからんなあ。気いつけてよ。」

「すんません。」

桃子は素直にまた頭を下げていた。

そういう桃子のことが梅子は好きだった。

「でもなあ。あのおじさんはだませたけど、うちのおかんは無理やろなあ。トホホ。」

「そうやなあ。桃子のお母さんは何でもお見通しやさかえなあ。まあそこは自分で何とかするしかないなあ。」

「そんなあ。梅ちゃあーん。助けてー。」

「もう。困ったなあ。でも、桃子の家の中のことまであたしには無理よ。やっぱり自分でなんとかしい。」


桃子の家は竜門山の真下にあった。竜門山はここらでは紀州富士と呼ばれている。

(いったいどこが富士なんや!)

小学校で本物の富士山を学んだときに桃子は竜門山のことをそう思った。

家の庭から見上げれば、ずんぐりむっくりとしたまるで牡牛の背中のような形をしている。

小学校の遠足といえば決まって竜門山登山だった。

(やりきれやんわ。毎年こればっかり。もっとほかのとこに行きたいわ)

桃子が行きたかった所は紀の川の北側だった。

紀の川の北には汽車が走っている。

その汽車に乗って和歌山の方に行ってみたかった。

和歌山には海がある。

その海を間近から眺めてみたかったのだ。

竜門山に昇るたび和歌山の方を見る。

遠くの方にかすかに海らしいものが見えるが雲がかかったときなどは全く見えない。

船が海に浮かんだ情景に憧れていた。

しかし、紀の川の北に行くためには橋を渡らなくてはならない。

その橋が洪水のたびに流されてしまい、紀の川を渡るには浅瀬を膝まで浸かって歩くか、渡し船に乗るしかなかった。

遠足に行くまでに膝まで川に浸かるなんてあり得ないし、大勢の小学生が一斉に渡し船に乗るなんてこともできるはずがなかった。

橋は一度流されてしまうと、その架け替え作業は何ヶ月もかかってしまう。

橋は木製だった。

大工が何ヶ月も掛かって作業をするのだ。

その作業をする大工の棟梁が桃子の父親の亀蔵だった。

桃子は父親を尊敬していた。

父親の仕事の大工にも憧れていた。

腕一本で、便利な家具や、大きな家や、巨大な橋まで作ってしまう。

亀蔵は今、去年の台風で流されてしまった竜門橋の架け替え作業をしていた。

橋があるから竜門村の人たちは安心して紀の川を渡ることができる。

みんなのためになる仕事をしている父親のことを桃子は誇りにしていた。

母親の鶴子は桃の栽培をしていた。

桃子の家は代々桃農家なのだ。

亀蔵は入り婿だった。

桃子の母の作る桃はとてもおいしかった。

竜門の土地が桃の生産に適した砂地だったこともあるが、鶴子の丹精込めた栽培技術も大きかった。

桃子は母の作る桃が大好きだった。

そのおいしい桃から名付けられた自分の名前も大好きだった。

桃子の家は代々女系家族だった。

男子が生まれない。

桃子の上には三人の姉がいた。

つまり桃子は四姉妹の末っ子なのだ。

長女の星子はしっかりしていて働き者。母の後を継いで桃農家を継ぐべく母と一緒に毎日畑で汗をかいていた。

次女の月子は月からやって来たかぐや姫のような美人だった。女学校を出てから洋裁を勉強していた。

三女の花子は大人しく控えめな女学生だった。とても真面目な性格で四女の桃子のよき理解者だった。

四女の桃子は好奇心旺盛で何にでも興味を示し、何にでもすぐ手を出しては失敗を繰り返す目の離せないお転婆だった。

桃子の家では、朝はそれぞれに都合のいい時間が違ったからみんな一緒にご飯を食べるわけにはいかなかった。

昼ももちろん別々だったが、晩ご飯は全員が揃って食べることにしていた。

ということは、一番遅く帰ってくる者に合わせてご飯の時間が決まるわけである。

一番遅くなるのはいつも亀蔵だった。

亀蔵が帰ってきて一風呂浴びてからやっと全員が晩ご飯にありつけるのだった。

食べ盛りの桃子にとって、その待ち時間は時にはかなりきついこともあったが、何ごとも慣れるということはすごいもので、幼い日から当たり前にしてきたことはそれほど苦痛に感じない毎日ではあった。

亀蔵の方も心得たもので、仕事終わりに仲間と一杯など引っかけに行くことはせず真っ直ぐ帰宅する。

特別に呑みに行くときは、晩ご飯を終えてから仲間のいる店に合流するといった行動を取っていたから家族にとっては有り難かった。

しかし、一旦呑みに行けばその日のうちに帰るようなことは決してなかったが。

それでも次の日の仕事に差し支えさせることはなかったから、さすがは棟梁だと弟子たちからは尊敬されていた。

仕事ができて、家族を大事にし、弟子とのつき合いも疎かにせず、次の日の仕事に穴を開けない。

そりゃあ、尊敬されますよ。


亀蔵が帰ってきた。

晩ご飯は花子が用意することになっていた。

お風呂は桃子が沸かしていた。

亀蔵がお風呂から出ると晩ご飯が頂ける。

全員揃いました。

「いただきまあーす。」

亀蔵が早く帰ってきてくれるから、晩ご飯もそれほど遅くなることはなく頂ける。

田舎のことだから大概のものは自家栽培。

お米に野菜に鶏肉に。

魚は亀蔵が休みの日に紀の川で釣ってくる。

日用品は近くの雑貨屋で手に入る。

昭和二十年五月。

戦争による物資の不足によって都会では配給制となっているが、こんな田舎の百姓家は比較的食糧は豊富だった。

育ち盛りの娘たちを抱えて、それでも娘たちの食事の面では鶴子にさほどの苦労はなさそうだった。

苦労といえば少々無茶な仕事でも村のためなら嫌とは言わず引き受けてしまう亀蔵と、何にでも興味を起こしてしまい、何をするか分からない桃子の行動監視であった。

亀蔵のことは星子に任せ、桃子のことは花子に任せているが、最終的には鶴子と月子がしっかり手綱を絞めないことにはどうしようもない二人だった。

それがまた今日も起こってしまった。

「桃ちゃん。今日は羊に何したん?」

鶴子はすべて分かっていますよという顔で桃子に尋ねた。

「逃げた羊さん、つかまえたげたん。」

「捕まえてどうしようと思ったん?」

「ううーん。・・・」

「ほらもう、わかってしもた。あんたは嘘言い切れやん。そこだけがあんたのいいとこやさかえな。」

「ううーん。」

「逃げた羊捕まえようとして、羊に乗ったそうやなあ。」

「う、うん。」

「それ、捕まえよとしてたんと違ごて、はなから羊に乗っちゃろ思てたんとちゃうん?」

「ん、んーん。」

「ほれみてん。そんなこっちゃろと思た。大人し羊やさかえに良かったけど、気性の荒い羊やったらえらいことになってるで。ほんまにもう。みんなも何か言うたって。」

「学校へ行く途中で川に入ったり。」

これは星子。

「学校の中庭の松の木に登ったり。」

これは月子。

「虫とってて帰ってこんかったり。」

これは花子。

「お父さんも何か言うてやって下さい。」

チビチビと独酌していた亀蔵は、とうとう自分に矢が向いてきたかと思いながら、もう一杯口に運んだあとで、

「まあまあ、ええやないか。いろいろやらかすんは、何でもやる気のある証拠や。誰か他人様を傷つけたわけやないし。本人も大きな怪我してるわけやない。学校でせんなんことも怠けやんとやってるみたいやし。うーん。そやけどなあ、今のままやったら心配なのは心配や。そうやなあ、何ど、わしの仕事の手伝いでもやらせるか。」

それを聞いた瞬間、桃子の顔が弾けた。

「ほんまあー。父ちゃんの仕事手伝わせてくれんの!」

「何言ってんのよ、お父さん。こんな何するか分からん子に大工の仕事らさせたら、それこそ皆さんにご迷惑掛けてしまうで。」

星子と月子が声を揃えて反対した。

「学校はどうするんですか?」

鶴子が心配そうに聞く。

「なあーに心配いらん。学校帰ってきてからできる仕事を用意しといたるわ。」

「やったあー。桃子するする。明日からさっそくするわ。」

「ほんまにもう。父さんは桃子や花子には甘いんやさかえ。まあ花子はええ子に育ってるけど。」

星子と月子が顔を見合わせて渋い顔をする。

四姉妹を育てるために、父も母も仕事一筋だった。

花子や桃子のことは、長女や次女の責任とされていることを考えれば、それ以上は言えない星子と月子だった。

花子は自分の頭上を激しく飛び交う言葉の応酬を眺めながら、桃子に笑顔を向けていた。

花子は桃子のよき味方だった。

幼い頃から花子と桃子は、三人の「母親」に怒られながら仲よく育ってきたのだった。


亀蔵の大工としての腕は一流だった。

加えて人を使うことがうまかった。

若い頃はすべての仕事は自分が中心になってやっていたが、何人もの弟子を抱えるようになってからはたいがいの仕事は弟子に任せ、今は指揮をするだけということが多かった。

弟子が困ったときや棟を上げるときの幣の奉納時のときのみ前面に出るようにしていた。

弟子に役割を持たせ、責任感を持って仕事に当たらせるようにしていたわけだ。

弟子が失敗をしたときには、それを決して弟子のせいにはせず、棟梁として施主に頭を下げた。

修行は厳しかったが頼れる棟梁として弟子からも施主からも人望は篤かった。

亀蔵が結婚をして、長女の星子が生まれ、さらに次女の月子が生まれるころになってくると家屋が手狭になってきた。

そこで亀蔵は一日の仕事が終了した後、自分一人で建て替えを始めた。

夜間一人での大工作業である。

小さな灯りを付け作業は深更に及んだ。

深夜の棟梁の一人での作業を弟子たちが知るようになった。

弟子たちは誰言うともなく一日の仕事の終了後、自主的に棟梁の家に足を運んだ。

そして深夜まで棟梁の屋敷建築を手伝うのだった。

亀蔵は新築するに当たってある工夫をした。

屋敷の土台を背丈の二倍かさ上げしたのだ。

土を盛り上げ、そのぐるりをセメントで固めた。

その上に礎石を置き基礎とした。

竜門村の風市地区は、何度も水害に遭ってきた。

台風が来て大雨が降るたびに紀の川が氾濫したのだ。

濁流が押し寄せると、一階部分はその都度浸水する。

そうなると畳や建具はすべて使えなくなってしまう。

そういう被害が台風のたびに起こっていては安心して生活しておられない。

かといって山の中腹にある土地などに建てようものなら不便なことこの上ない。

風市地区は生活するには便利だった。

だから思い切って土台をかさ上げしたのだ。

新築してからも毎年のように台風は来る。

そのたびに大なり小なりの洪水はあったが、床上までの浸水は免れていることを思えば、亀蔵の判断は正しかったと言えるだろう。

近所でも新築する家ではかさ上げをするところが何軒かあった。

その家も同じように浸水から免れたのだから、亀蔵のやることは賞賛の声で称えられたものだった。

その亀蔵が今、精力的に取り組んでいる仕事が竜門橋の新築だった。

大工の亀蔵が手がけるのだから橋は当然木製だったわけだが、亀蔵にとって竜門橋の建築はこれで何回目になるだろうか。

亀蔵の作る橋だから多少の増水くらいではびくともしなかったが、何年かおきにやってくる巨大台風のときの大増水にはさすがに耐えられない。

その都度、架け直すことになるのだ。

今回は去年の十月八日の巨大台風によって流失した橋の架け替えだった。

九三三ミリバール。

半径六00km。

時速五0km/h。

 六日夜半から降り始めた豪雨は止むことなく三日三晩降り続き、穏やかで風情のあった紀ノ川の流れが、地を振るわせる恐ろしい濁流となって竜門橋に襲い掛かった。

 橋は見るも無残に弾き飛ばされ跡形も無く消え去ってしまった。

 氾濫した濁水は竜門村をも襲ったが、背丈の倍以上のかさ上げを施していた亀蔵の家屋はかろうじて床下浸水で済んだのだった。

 以来、半年掛けて亀蔵は洪水に負けない橋を架けるべく奮闘しているのだった。

 工事は九分通り終了している。

 工期は梅雨に入るまでだ。

 つまり最大五月いっぱいと決められていた。

 半年以上掛かっていることになるのだが、それには訳があった。

 土台部分の工事に四ヶ月以上を費やしたのだ。

 これまでの増水では橋はことごとくその土台から姿を消していた。

 生半可な土台ではその上にどのように頑丈な木組みをしようが役には立たない。

 紀ノ川は洪水によって川筋が大きく変わってしまうくらいの激流となる暴れ川だった。

 風市地域の鎮守である風市の森神社は、かつての洪水による河川の流域変化によって川北の嶋地区に変わってしまった。

 風市地区の今の風市の森神社は、その後勧請したものだった。

 流域を変えてしまうくらいの激流にも耐えるだけの土台を築くために、四ヶ月以上を必要としたのである。

 まず橋柱を立てる川床を背丈の三倍以上掘り下げた。

 コンクリートをふんだんに使って砲台のような土台を作った。

 その上に基礎を組み立て始めたのが、すでに桜の散るころだった。

 しかし、基礎の工事と平行して橋本体の加工作業は亀蔵家の倉庫などで進めていた。

 だから、基礎の完成以後の作業は急ピッチで進んでいたのだ。

 あとは工期いっぱいの五月中に橋の天板を打ち付けていくだけだった。

 その天板の釘穴の罫書きを桃子にもさせようと亀蔵は考えた。

 かね尺で寸法を測り、鉛筆で印を付けさせればいいだろう。

それくらいならできるだろうし、かりに間違った罫書きであったとしても熟練の大工なら釘打ちに何の支障もないだろう。

 弟子二人と一緒にやらせようと思った。


鶴子と星子と月子は、昼間は桃の袋がけに精を出していた。

桃の小さな実を一つずつ袋で包むのである。

実の小さいうちは陽に当ててはならないことと、病害虫から実を守るためである。

一本の桃の木でおよそ五百袋。

一本の桃の木には、その五倍以上の実が成っているが、余分な実はすべて摘果する。

その前に花の時点で摘花しているのだが、それでも大量の実が成ってしまう。

その実をそのまま大きくしてしまっては、すべての実が小振りとなってしまい売り物にならない。

だから袋がけと平行して摘果をするのだ。

二百本の木に十日ほどで袋をかける。

一日二十本。

つまり、一日三人で一万袋。

鶴子は五千袋。

星子と月子とで五千袋。

気が遠くなるような作業だった。

しかし、作業はそれで終わりではない。

一日の仕事が終わってなお、夜なべ作業がある。

次の日の袋を作らなくてはならない。

明日包む分の一万袋を三人で作成する。

新聞を切り、糊をつけ、袋を作っていく。

新聞はこの作業のために一年分溜めていた。

糊はもちろん手製だった。

星子が新聞を切る。

月子が糊をつける。

鶴子が袋状にする。

一万袋作るのに五時間はかかった。

桃は高価だから収入は大きかったが、その裏ではこれほどの苦労があったのである。

それ以外にも、剪定、消毒、除草など、一年中忙しく作業は続く。

月子は今、洋裁学校は休校だから家業を手伝えるが、学校が再開されると休みの日しか手伝えない。

そうなると、花子や桃子が頑張らなくてはならなくなるのだ。

しかし、その花子や桃子はほとんど戦力にならない。

二人とも背が低い。

桃の木は高い。

作業をするには脚立に登らなくてはならない。

脚立に登るのは、鶴子や星子や月子も同じだが、花子や桃子の場合は登るだけで精一杯。

その上で作業をすることなど考えられない二人だった。

脚立の上で両手を離そうものなら、そのまま真っ逆さまに落ちてしまう。

そんな二人に桃の作業などさせられるものではなかった。

花子が特にそうだった。

動きがおっとりしているのは別に構わないが、虫が大の苦手だったのだ。

畑に行けば、それはそれはさまざまな虫がいる。

カミキリ虫、玉虫、虻、足長蜂、蚊、蜘蛛。

花子はそれらすべてが苦手だった。

虫が出ると、「ウギャーッ!」とそのときだけはどこからそんな声が出るのかと思うくらいの大声を出して飛び跳ねる。

それでは脚立の上での作業は無理だった。

だからもっぱら花子の仕事は屋内作業。

掃除、洗濯、炊事の担当になっていた。

夕刻、疲れて帰ってくる家族がすぐに食卓に付けるのは花子のおかげだった。

桃子は脚立の作業も家事もできない。

できないこともないが、力加減がわかっていないのだ。

掃除をやらせると叩きで障子を破ってしまう。

炊事をやらせるでき上がりの量がとどんどん少なくなっていく。

こぼすし、味見と言っては大食いするし、とても任せてはいられない。

仕方なく桃子の担当はお風呂当番になった。

薪割りはできる。

思いっ切り力を入れて割ればいいから、力の加減をする必要はない。

湯の加減は、入る者が自分でやってくれる。

熱ければ入る者が自分で水を加える。

だから桃子は思いっ切り沸かせておけばいいのだ。

そんなこんなで、なんとかこの戦時中も亀蔵の家は回っていた。


昭和二十年になって戦局はいよいよ末期的になってきていた。

三月十日深夜、東京が大空襲された。

三月十三日深夜には大阪が大空襲を受けた。

大阪に向かう米軍爆撃機の大編隊は竜門村の上空を通過していった。

発進基地であるサイパンからは、まず潮岬を目指して編隊は飛ぶ。

潮岬から大阪を目指せば、竜門村はちょうどその真下に位置することになる。

夜中十一時過ぎ、空襲警報発令。

不気味なエンジン音が家の障子を震わせた。

竜門村からは爆撃機の翼に点滅する赤い光が見えただけであった。

赤く恐ろしい光の帯は、南から次から次から現れては北の山の向こうに消えていった。

もちろん桃子たちは熟睡中で、そんなことは知ってはいない。

空襲警報が鳴り響いても、こんな村が狙われることはなく誰も避難する者はいなかった。

大阪の被害の状況が伝わってきたのは、翌々日のことだった。

爆撃機の通過地点に過ぎない竜門村の住民は、我が村の安泰に安堵する思いと同胞の困苦に対して何もできない苛立ちとを併せ持ち、憤慨やる方ない思いに憤っていた。

それは亀蔵も同じ気持ちだった。

亀蔵はすでに徴兵される年齢ではなくなっていた。

弟子の多くもそうであったが、中には徴兵された弟子もいた。

徴兵された者もされていない者も、国民一人ひとりの一日一日は、すべて国家のために奉仕するものとされていた。

亀蔵は橋を作ることにおいて大いに奉仕している。

鶴子は婦人会活動で貢献している。

星子や月子は兵隊の服作りをしている。

花子も女学校で兵隊の腹帯作りをしている。

桃子は学校の運動場に芋を作っていた。

まさに国家総動員でこの難局を乗り越えようとしていたのだが、それももはや限界だと国民の多くが口には出さずとも分かりかけていた。


桃子は学校から帰ると鞄を下の間に放り込んですぐに作業場に駆け込んだ。

「ただいまあー。おっちゃん、桃子の仕事どれえー?」

「おお、お帰り。ほいたら桃ちゃんにはこの板やってもらおか。」

弟子の一人が作業台の一つに大きな板を置いてくれた。

「この紙見ながら、書いてある寸法に気をつけてやっていって。」

「はい。よろしくお願いします。」

桃子はとても行儀よかった。

何にでも興味津々、何にでも手を出してしまうので、いつなんどき何をやらかしてしまうか分からないのだが、それだけやる気があるということでもあった。

やることを教えてくれる人に対する態度は完璧だった。

「かね尺の角を板にちゃんと当てたら、直角が取れるから、それさえ間違わんかったら大丈夫や。あとは寸法通り罫書けばええ。」

「わかりましたあー。」

桃子は意気揚々と板に向かった。

左手にかね尺。

右手に鉛筆。

はったと板を睨むように構えたその姿は、二刀流の宮本武蔵を彷彿とさせると言えば言いすぎか。

桃子は結構理解が早かった。

というか、作業そのものが単純なものだった。

板の片端に二つずつ釘穴の位置を罫書いていく。

かね尺を板の角に当て、寸法を測り鉛筆で×を書く。

寸法は縦横同じだったから、板の片側を罫書くのにものの一分も掛からなかった。

板は大きくて桃子の力では持ち上がらない。

そのうち罫書くのは桃子一人となり、二人の弟子たちは板を入れ換える役だけを担当するようになってしまった。

それで作業場にいっぱい山のように積まれていた板の罫書きは瞬く間に済んでしまい、弟子たちも大いに助かることになった。

「桃ちゃん、すごいやないか。こんだけの仕事一時間そこらでやってしもたわ。さすがに棟梁の娘やなあ。将来は女棟梁やな。」

二人の弟子たちは口を極めて桃子を褒めた。

桃子は何にでも興味を持ち、やる気を出せばすごい集中力を発揮し、やり始めたら途中で投げ出すようなことはしなかったが、褒められると有頂天になってついつい調子に乗り過ぎるところがあった。

家族はそんな桃子の性質をよく知っているから、一つ褒めても必ず一つは注意を入れるように心がけていたのだが、弟子たちにはそんな手綱さばきはできなかった。

「桃ちゃん、なんならカンナがけもやってみるか?」

棟梁から指示のなかった作業を持ちかけてしまった。

「やるやる。どんなえやったらええん?」

桃子が断るはずがなかった。

それから数時間。

桃子は弟子に言われた作業に没頭した。

花子が学校から帰ってきて、いつも通り晩ご飯の準備を始めた。

鶴子と星子と月子が畑から帰ってきた。

桃子はまだ作業をしていた。

「桃ちゃん。何してるん!」

星子と月子が作業場に来て叫んだ。

桃子が削り屑の中から顔を上げた。

「ああ。お姉ちゃん。帰ってきたん。お帰り。」

「お帰りやない! いつまで何やってるん! お風呂は沸かしてあるん?」

「あっ、しもたあー。忘れてたあー。」

「お父さん帰ってくるで。どうするん!」

「今からわかしてきますうー。」

桃子は慌てて走っていってしまった。

「ほんまにもう。あの子はあー。」

星子と月子は二人でため息をついているところに亀蔵が帰ってきた。

「なんやお前らやったんか。お前ら作業場におるんは珍しいな。」

「あっ、お父さん。お帰り。」

「お帰りなさい。」

「うん。ただいま。どうかしたんか?」

「桃子がねえ。お風呂も沸かさんと板削ってたんで怒ってたとこ。」

「ふーん。それで桃子はどうした?」

「慌てて沸かしにいったんやけど、でもお父さんも悪いんやで。桃子にこんなことやらせるさかえ。」

「ん?」

「あの子、興味持ったら時間なんか関係ないさかえ困ったもんやわ。」

「そうか。そらわしも悪かった。あとはわしがやっとくからお前らは行きなさい。」

二人を行かせたあと亀蔵は桃子がほりっぱなしていった作業台を片付け始めた。

「板を削れなんて言ってなかったけどな。」

そう思って桃子の削った板を見た。

板はかなりの分厚さがある。

カンナなんて使ったことはなかったはずだ。

カンナ使いは、その削りかすや削ったあとの板を見ればその腕はわかる。

「うーん」と亀蔵はうなった。

ど素人の子どもの削りかすではなかった。

削った板もきれいだった。

「これはたいしたものや。」

我が娘ながら亀蔵は感心していた。

見よう見まねというが、桃子はものごころついたころから亀蔵の作業場を遊び場所にしていた。

亀蔵の作業を見ながら知らぬ間に大工道具の使い方を覚えてしまったのだろう。

きちんと仕込めばすごい大工になるかも知れなかったが、亀蔵にはそんな気はなかった。


宴会あとのほろ酔いの頬に紀の川を渡る風が心地よかった。

梅雨にはまだ間がある。

晴天というのではなかったが、雨にならなくて良かったと亀蔵は竜門山を振り仰いだ。

尾根の駆け上がりから山頂にかけてうっすらと白い雲がたなびいている。

雨を呼ぶような雲ではなかった。

渡り初め式を終え、宴もはけたあと愛用の徳利を提げ一人橋にやってきた亀蔵だった。

橋桁の端に腰を下ろし、懐から猪口を取り出して独酌する。

無事仕事が終えたあと、その現場で一人呑むのが亀蔵の習いだった。

渡り初め式は、六月一日十時、紀ノ川の北と南の双方で同時刻に行われた。

神主の祝詞に続いて村や各部落の代表が玉串を捧げ、神主を先頭に橋の両端から渡り始める。

双方が橋の中程に歩み寄ったときに、その場に設けられている祭壇に向かってまた神主が祝詞を上げる。

その場では竜門村九頭神社の禰宜が上げた。

各村の代表たちは橋桁の上から一升瓶の酒を川に注ぎ洪水の無きことを祈った。

その後、それぞれの村の集会所に集い宴会が始まったのであるが、橋の完成を祝う言葉が飛び交っていたのはほんの始まりのころだけであって、あとは酒が進むにつれて急迫する時局への不安やら不満やらが大勢を占めていった。

宴たけなわ、正午を少し回った頃であったか、けたたましく鳴り出したサイレンの響きとともに不気味なエンジンの音が集会場の障子を震わし始めた。

「空襲警報発令。空襲警報発令。」

スピーカーの叫びが竜門山の山あいにこだまする。

皆はてんでに戸外に駆け出して空を振り仰いだのだが、遙か上空を整然と滑空するように北に流れていく機影が見えるだけであった。

「あれは、大阪か神戸に向かうんやろな。」

「そうやな。ここらには関係なさそうや。」

口々にそう言い合いながら、誰一人防空壕になど走ろうともせず、また屋内に戻り宴を続けるのだった。

物資が窮乏しているとは言っても、ここは田舎のことであり贅沢はできずとも有り合わせの品を皆で持ち寄れば宴会の膳代わりにはなっていた。

息子や甥、叔父などが戦地に赴いている者も少なからずいたし、中には戦死の知らせが届けられた者もいたことはいた。

本土の都市が爆撃されている事態となってはいても、いずれは日本が勝つということを疑う者は誰もいなかった。

そんな雰囲気の中、宴会は延々と続いていたのだった。

亀蔵は小用を足しに行くと言って会場を出たあと、その足で家に帰った。

紋付き袴を脱いで、いつもの軽装に着替えると猪口を懐に入れ、徳利片手に竜門橋へと向かった。

大勢で呑むのも嫌いではなかったが、仕事が終わったあとの一杯はやはり「仕事相手」と呑みたかったのだ。

去年の十月八日に流された橋は、三年足らずの命であったことになる。

十六年六月十一日から二十九日まで続いた洪水によって橋が流され、そのあと突貫工事で復旧した。

桃の出荷時期と重なったことで、とにかく一日でも早く荷馬車の通れる状態にすることが至上命題であった。

強度や耐久性はそのとき二の次とされた。

次の洪水が来ればいとも容易く流される。

それは目に見えていた。

よくぞ三年近く保ってくれた。

それが亀蔵の偽らざる心境であった。

しかし、今回の橋は違う。

工期が冬場から春にかけての期間であったことも奏効した。

果樹の出荷に全く影響しない時期だった。

この頃からすでにわずかながら八朔を生産する家も散見されていたが、まだ少数であり、何より八朔は春まで納屋で寝かせておくので、その頃には橋の基礎が出来上がり、仮の天板を置けば荷車一台分の通る幅は確保できた。

「今回の橋は今までのとは違うぞ。」

亀蔵は紀の川に言い聞かせるようにそう言って、猪口を口にしてグビリとまた喉を鳴らした。

陽は雲の中。

竜門山から吹き下ろす風が川面を駆け抜け岸の雑木の葉を揺すぶる。

竜門山、飯森山、背の山、葛城山。

初夏の山々に囲まれた長閑かな景色。

緩やかに曲がる浅瀬に時折きらめくのは上流を目指す若鮎の群れだ。

「こうして見ると、この川が暴れ狂うのが嘘のようやな。」

亀蔵は自身も鮎のように水面を滑空したいような気分になった。

その時だった。

鳶か鷲か。

竜門山の頂きに、それらに似た影が黒く翻って見えた。

影は瞬く間に真っ逆さまに落ちてくる。

そのとき初めてエンジン音が響いた。

それはすぐさま耳をつんざく轟音となって亀蔵に突き刺さってきた。

敵の戦闘機だと思った時には、その大きな黒い影は亀蔵の頭上を飛び越えていた。

ひときわ大きな唸りを上げて旋回したかと思うと、今度は低空でもう一度橋目がけて突き進んできた。

そのとき亀蔵ははっきりと自覚した。

自分が狙われている。

戦闘機が橋の北端に達したとき、亀蔵はためらわず橋から身を翻した。

戦闘機の銃口が火を噴いた。

戦闘機の銃撃のあとから橋桁が噴き上げられていく。

川に飛び込んだ亀蔵は橋脚の根元に身を隠し辛うじて助かった。

戦闘機は橋の南端突き当たりから右に旋回し、最初が峯を際どく掠め、さらに大きく右に旋回したあと今度は紀ノ川の西、川下方向から橋目がけて突っ込んでくる。

橋脚と橋脚の間は、戦闘機の翼の両端の長さとほぼ等しい。

さてどうするかな。

亀蔵は相手の腕を測るかのような思いで戦闘機の出方を待っていた。

戦闘機は橋ぎりぎりまで近づいたかと思うと大きな音を残し機体を上に向け上空に駆け上っていった。

「ふん。遊びやがって。日本の戦闘機乗りなら、この間をすり抜けてるわ。」

それはまあ、開戦初期の戦闘機乗りのことだった。

この時期になると、離陸はできても着陸は難しい者から、発艦はできても着艦のできない者から、種々雑多。

熟練の搭乗員の多くは戦死してしまい、今は急造の新米ばかりだった。

亀蔵は川の中を歩いて岸に向かった。

幸いどこも怪我はしていなかった。

集会所で騒いでいた者たちがばらばらと橋に駆けつけてきた。

「空襲警報なかったさかえ気いつくん遅なったけど、えやいこっちゃったなあ。」

「ほんまや。亀蔵さん。無事で何よりやったわ。」

「あれはアメリカのグラマンやな。大阪からの帰りやろか。」

「そやけど、こんなとこ銃撃しても何の戦果にもならんのにな。」

遊ばれているんやと亀蔵は思った。

戦闘機は爆撃機の護衛についている。

しかし、米軍の爆撃機を迎撃するための日本の戦闘機はもはや数少なくなっていた。

敵の戦闘機は手持ちぶさたなのだ。

それで帰路、ちょっと遊び心を起こしたのだろう。

つまり、わしは持て遊ばれたということか。

亀蔵の心の底の火打ち石がカチッと音を立てた。

亀蔵の心に火が点いた。

なめるなよ。

お前らごとき若造になめられるわしやない。

今度来てみろ。

撃墜してやる。

亀蔵は命は助かったが、大切な徳利が割れてしまった。

それが一番、亀蔵には腹が立つことだった。

紀の川の南岸に立つ亀蔵の背に怒りの渦が巻き上がっていた。


次の日から亀蔵は弟子を指揮して米軍機に銃撃された橋板の修復作業をした。

その中の何枚かに弟子が首を傾げる細工を施こそうとしていた。

「棟梁。この滑車は何に使うんです?」

「それから、この蝶つがいは何ですか?」

弟子たちは訝しげに亀蔵に尋ねた。

「ふふふふ、今にわかるわ。それより、間違いなく図面通りに取りつけとけよ。」

「わかりました。」

弟子たちは首を傾げながらも、もう一度図面を確認して持ち場に戻った。

橋は南北の堤防から堤防まで架けるのではない。

川の流れを跨ぐだけの長さで架橋する。

つまり橋は川幅分だけの長さなのだ。

人は堤防から川原に下り、川幅だけの橋を渡り、また川原を歩き対岸の堤防に上る。

竜門橋の橋長は百m。

戦闘機だと一秒もかからず飛び過ぎる。

チャンスは一度しかない。

橋の上にいる亀蔵を銃撃する米軍機。

米軍機は竜門山から真一文字に舞い降りて、橋板すれすれの低空飛行で銃撃してくる。

そこが狙い目だった。

亀蔵は橋板を使って米軍機を叩き落とす作戦を立てていた。

しかし、それは米軍機が現れる前から橋上に設置しておくわけにはいかない。

米軍機に橋上ぎりぎり間近まで引きつけてから作戦を開始しなくてはならない。

米軍機が現れる前から橋上に設置しておくと、敵機は橋上ぎりぎりにまで接近してこないだろう。

米軍機が橋の南端を通過した瞬間に作戦を決行する。

だが、米軍機が橋上を飛びすぎる時間は一秒と掛からない。

タイミングを外せば作戦は水泡に帰す。

そしてその作戦は二度と使えない。

相手を倒さずこちらが命を落とすわけにはいかない。

乗るか反るか、文字通りのまさに一発勝負の作戦だった。


六月七日の昼の休憩に入ろうとした時だった。

空襲警報が鳴り響いた。

ほどなく竜門山の遙か上空、爆撃機の大編隊が北を目指して通り過ぎていった。

護衛の戦闘機も何機か随行していた。

(いまからだとすると、復路この上空に来るのは午後三時ころか)

それまでに完成させて、何度か試しておかなくてはならない。

作業を急がせるか。

「今日は昼の休憩はなしや。その代わり夕方は三時で終わる。作業を急げ。」

「棟梁。あれは大阪の爆撃ですよ。ここらは通過するだけです。大丈夫です。」

「いや。ちょっと寄り道してもらおうと思ってな。」

「何かするんですか?」

「ああ、まあそのときのお楽しみや。」

「棟梁。わしらにも手伝わせて下さい。お願いします。」

「もう手伝ってくれてるやないか。あとちょっとや。最後の仕上げが残ってるけどな。」

「ああ、あの滑車と蝶つがいで米軍機に何かするんですね。」

「滑車と蝶つがいでいったい何を?」

「まあ、うまくいくかどうかわからんけどな。わしを怒らせたらえらい目に遭うっちゅうことを分からせやなあかん。ハハハハ。」

弟子たちは何が何だかよく分からないまま棟梁の言う通りの作業を再開した。

作業が終わる頃、亀蔵は滑車にロープを通していった。

そのロープを橋板に括り付け、もう一方の端は梃子の上に乗せた大きなコンクリートの塊に括り付けた。

それらすべては橋上での作業である。

「よし。完成だな。あとは敵さんの来るのを待つだけや。」

満足そうに亀蔵はにんまりと笑った。


米軍機は往路は竜門村の上空を通過することが多かったが、爆撃を終えたあとは大きくUターンして復路は紀伊水道を南下していく。

若干の迎撃機はまだ日本にもあった。

 だから護衛のための戦闘機が爆撃機に付き従っていたが、その任務はほぼ往路だけで、復路はほとんどまったく自由に帰投していた。

だから、はぐれた渡り鳥のようにあちこちの田舎町や村の銃撃を楽しんでいたのだ。

「許せん。」

 一本気な亀蔵はそんなやつらに一矢報いるつもりだった。

 戦争遂行上の銃撃や爆撃は作戦上仕方ない。

 今、日本は国家総動員体制が敷かれている。

 女子供老人といえども立派な戦力である。

 戦力であるなら銃爆撃される目標とされるのは致し方ないことかもしれない。

 だから都市爆撃も戦争目的の作戦の中に入ると思わなくてはならない。

 しかし、その爆撃の帰路に何の抵抗もしていない非武装の民間人をまるで狩りの獲物のように面白半分に標的にするなど、ただの人殺し以外の何ものでもない。

人間のすることではない。

 それは許せるものではなかった。


 時、すでに三時前。

 来るなら、そろそろだ。

 耳を澄ませ、空を見上げる亀蔵の表情がにわかに厳しいものに変わった。

(来たな)

 亀蔵は弟子たちを橋から下ろした。

遙か西、和歌山の上空を爆撃機の編隊が連なって小さく見えている。

あれほど遠くても、あれほどの大編隊となれば、そのエンジン音はこの辺りまで響いてくる。

しばらくして、そのエンジン音とは違った一段高い音が近づいてきた。

F6Fヘルキャット。

アメリカが誇る最新鋭戦闘機。

戦闘機は大戦初期こそ日本の零戦が他国のそれらを凌駕していた。

速度、航続距離、上昇性能、運動性能、武装、あらゆる面で他国機の追随を許さなかった。

しかし、墜落した零戦がアメリカに回収され、その性能が徹底的に分析された。

そして、最大の欠点が暴露されるに至った。

零戦の欠点、それは防御能力の欠如だった。

全ての性能を上げるため、限界までの軽量化が施されていた。

その結果、乗員の防御能力はなきに等しい状態だった。

米軍であれば当然考える乗員保護の思想が全くないとしか思えないような作りだった。

それでも戦闘機の運動能力と乗員の操縦能力の高さによって、大戦初期の戦闘機同士の戦いでは完勝していた。

しかし、大戦末期になり熟練操縦士の減少と戦闘機能力の逆転によって、全くの劣勢に立たされてしまった。

F6Fヘルキャットは強力なエンジンによって、かなりの重武装が可能だった。

十二、七ミリ×6の火力。

一、八トンまで装備できる爆装。

五六八リットルの胴体下増槽。

たとえ一機であったとしても、それだけで戦艦を撃沈できる重武装だった。

爆撃機の護衛任務であれば、爆装はしていないだろうが、大工の棟梁が立ち向かえるような相手ではない。

ヘルキャットは竜門山を目指して一直線に飛んでくる。

亀蔵は腕組みをして竜門橋の上に立っている。

ヘルキャットのエンジン音が一段と高くなった。

さらに上昇を始めたようだ。

竜門山の山頂よりさらに高く舞い上がり、一気に急降下しようとしているのだろう。

上昇を終えたヘルキャットは翼を反転させ、機首の向きを変えた。

エンジン音が変わった。

一瞬静止したかに見えたヘルキャットが急降下を始めた。

(くる!)

亀蔵の全身が震えた。

(武者震いか)

米軍機は紀ノ川の南岸の堤防まで降下したあと水平飛行に入り、橋上すれすれに飛行しながら銃撃してくるものと亀蔵は思っていた。

その水平飛行に移った瞬間に亀蔵が用意した武器を炸裂させる作戦だった。

しかし、ヘルキャットは竜門山の斜面を駆け下りることはせず、山頂から真一文字に橋上の亀蔵目がけて逆落としを賭けてきた。

(何イーい!)

目算が狂った亀蔵であったが、戸惑っている場合ではない。

数秒後には銃撃によって木っ端微塵に吹き飛ばされることになる。

当初の作戦通り、梃子を動かして川に飛び込んだ。

梃子によって動かされた大石は、大きな水音を立てて川底に消えた。

大石に巻かれていた綱が滑車を回し、綱に繋がれていた板を跳ね上げる。

蝶つがいを支点として水平に置かれていた板が垂直に立ち上がった。

亀蔵の作戦は、橋上をすれすれ水平に飛行する敵戦闘機を、立ち上げた板に激突させる作戦だった。

しかし、敵は亀蔵の期待通りの水平銃撃ではなく、急降下銃撃を仕掛けてきた。

亀蔵目がけて真っ逆さまに突っ込んでくるヘルキャット。

その亀蔵が視界から消えた直後に立ち上がった一枚の板。

標的が亀蔵であろうが板であろうが、銃撃後はヘルキャットは急上昇に移る。

急上昇に移るのは、立ち上がった板の高さよりはずっと高い地点だった。

亀蔵が立ち上げた板は敵操縦士を一瞬驚かせはしただけで、銃撃によりそれを吹き飛ばしたヘルキャットは、悠々と上昇していった。

十二、七ミリの機銃の前には、亀蔵の武器は屁の突っ張りにもならなかった。

これでは仮に水平飛行で突入してきていたとしても結果は同じだっただろう。

亀蔵にとって幸いだったのは、敵戦闘機がその後反転し再度攻撃しては来なかったことだった。

増槽がすでになかったところをみれば、あまり遊んでいる余裕がなかったのだろう。

米軍機との戦い一回戦は亀蔵の完敗だった。


鶴子はぶっすっとした顔で何も言わず、茶碗を亀蔵の前に置いた。

星子も月子も呆れ顔をしている。

花子はいつも通り自分の調子で食べている。

桃子はそんなみんなを見回しながらいつになく難しい顔で箸を動かしていた。

「ほんとにもう! 冗談にもほどがあります。グラマン相手にするやて正気の沙汰やない。生きてたから良かったものの、殺されてたら私らどうしたら良かったことやら。」

憤懣やる方ないといった面持ちで鶴子は亀蔵に文句を言った。

グラマンというのはF6Fヘルキャットのことだ。

民間人は米軍戦闘機のことをその製造社名で呼んだ。

「ほんまや。今でも生きた心地せん。」

これは星子。

「私らのこと考えてくれてんの?」

これは月子。

女五人に対して男は亀蔵一人。

多勢に無勢。

旗色はかなり悪かった。

「お前らのこと考えてるさかえにやったんやないか。お前らが狙われたらどうするんや。花子が竜門橋歩いて帰ってくるときに撃たれるかもしれん。桃子が土手歩いてるときに狙われるかもしれん。お前らかって桃畑にいてるときに安全とは言えやんのやぞ。」

それを聞きながら珍しく花子が頷いている。

そんな花子を驚いた顔で桃子が見ていた。

「そやけど、お父さんがやったせいでまた来ますよ。」

「そうよ。よけい危なくなったん違う?」

「そやから、また、やるんや。」

「またやるって、もう一回グラマンと戦う気い?」

「ああ。もう一回どころか叩き落とすまでやる。あれは蝿か虻みたいなやつや。いくら戦争ちゅうてもあれは許せん。えらい目に遭わせちゃる。」

ふうーと大きくため息をついて鶴子と星子と月子は顔を見合わせた。

「花子。料理の腕上げたな。この蒸し芋うまいわ。」

亀蔵は大きな芋を口一杯に頬張りながら花子を褒めた。

「そんなん、ただ蒸しただけやで。」

花子は相変わらずぶっきらぼうに答えた。

「花子ねえちゃん喜びなあよ。お父さんほめてくれてるんやさかえ。ほんまうまいで。」

桃子も口一杯に芋を食べながら花子を褒めてから亀蔵に言った。

「お父さん。桃子もお父さん手伝うわ。」

「手伝うって、あんた何言うてんの?」

「お父さんと一緒にグラマンと戦う気い?」

星子と月子が口を揃えて花子を詰問した。

「ふふふん。違うよ。危ないことはせんよ。でも、どなえしたらグラマン落とせるかお父さんと一緒に考えたいんや。今回は板立てたって聞いたけど、そんなん一発で吹っ飛ばされるに決まってるやん。もっとええこと考えやなあかんわ。」

「ほんならお前考えてくれるんか。なんどええ案あるんか?」

「まだないわ。そやからこえから考えるんや。でも急がんと、言うてる間にまた来るかもしれんで。」

「父さんは、佐々木小次郎の燕返しのつもりやったんやけどな。あかんかったな。」

「佐々木小次郎がグラマンに敵うわけないやんか。」

鶴子と星子と月子はまたため息をついた。

花子は相変わらず自分の調子で食べていた。


花子と桃子はいつも一緒の蚊帳で寝ていた。

年が近いこともあったが、あとの二人の姉は二人にとっては少し煙ったい「母親」のようなものだったから、必然的に二人は仲良くなったようなものだった。

「花子姉ちゃん。一緒に考えてえ。さっきはあんなに言うたけど、何も浮かんでこんのや。なあ、花子姉ちゃん。」

「もう! 桃ちゃん、もう寝よう。また明日考えたらええ。」

「でもそんなゆうちょうなこと言うてられへんで。明日にもグラマンまた来るかもしれんで。花子姉ちゃんかてねらわれるんやで。」

「まあそやな。」

「そやから、考えてよお。花子姉ちゃん頭ええやんか。桃子と違ごて。」

「しゃあないなあ。ほな考えるか。」

「やったーあ。花子姉ちゃん大好きー。」

そのあと二人が蚊帳の中でゴミョゴミョと何か喋っている声が納戸で寝ている星子と月子の蚊帳まで聞こえていたが、月子に一喝されて静かに寝てしまった。

翌朝、桃子は晴れ晴れとした顔をして起きてきた。

「ほんじゃあ、行ってきまあーす。」

朝ご飯を食べるやいなや、桃子はいつにも増して大はしゃぎで家を飛び出していった。


いつもの土手の道を梅子と一緒に学校に向かいながら、桃子は夕べの花子とのやり取りを梅子に話して聞かせた。

「そんでな、花子姉ちゃんな、数学ちゅう難し勉強の式でグラマン、うち落とす方法教えてくれたんや。」

「数学の式?」

「そうや。うちはあんまり理解できやんかったんやけどな。でも花子姉ちゃんの言うことやから、何かうまいこといきそうや。」

「ふーん。ほんまにそんなんでグラマン落とせんの?」

「うん。あとはその道具はうちが作らなあかんのやけどな。それが大変や。梅ちゃん手伝ってえー。」

「いややよ、そんなん。グラマン怖いわ。」

「グラマンと実際に戦うわけやない。作るだけや。」

「そやけど。誰が作ったあー言うて、グラマンから降りてきたらどうすんの?」

「うち落としたら大丈夫や。」

「ほんまにそんなことできんの? どなえすんの? 一回説明してよ。」

「うっ、うん。わかった。あんまりうまいこと説明できやんかもしれんけどな。」

桃子は花子が話してくれた中身を思い出しながら梅子に話した。


桃子の語り口では理解が難しいから、かいつまんで花子の話を説明してみよう。

まず、亀蔵の証言の確認から始まる。

亀蔵によると、米軍機は橋上五十mの低空まで一気に急降下してくる。

そして、機首を起こし一気に急上昇する。

銃撃は機首を起こすまでの間に行う。

急上昇をするときは機体の腹を橋の上に大きくさらすことになる。

ここが狙い目だ。

このときの橋から機体までの距離は十m。

手で石を投げても届く距離だ。

しかし、手では投げられない。

銃撃されては堪らないし、手投げでは何より威力がない。

投石方法は桃子が考えるとして、取り敢えず花子が説明した数学の式の説明をする。

竜門橋の橋板をX軸として、橋の南端をグラフの原点とする。

Y軸はもちろん原点から垂直の直線。

その原点におとりの人物を立てる。

おとりは亀蔵になってもらうしかない。

敵機は亀蔵目がけて急降下してくる。

グラマンの飛行式は、Y=aX+10。

 石の発射地点は橋上の五ヶ所。

 石の飛翔式は、

 Y=X+10。

 Y=X+20。

 Y=X+30。

 Y=X+40。

 Y=X+50。

 最低五十mは石を跳ばすくらいの威力のある投石機を作らなくてはならないというのが花子の理論だった。

 桃子自身はっきりと理解していない内容を梅子に説明して、梅子が理解できるわけはないのだが、それよりももっと肝心なことを三人とも見落としているのではないか。

 グラマンの飛行式と石の飛翔式が仮にその通りであったとすると、その二つの式の交点が撃墜地点とはなる。

 とすれば、二式の解を求めれば撃墜地点の座標は求められる。

 しかし、撃墜地点の座標が求められたからといって、どのタイミングで投石すればその座標でグラマンを撃墜できるかといった時間的な問題はクリアできていない。

 花子はそれに気づいていなかったのか。

 あるいは気づいてはいても、それを求める物理の計算式は知らなかったのか。

 あるいは知ってはいたが小学生の桃子には説明しても無理だから、数学の式でお茶を濁してさっさと寝ようとしていたのか。

あと、グラマンの飛行式のaの値もわかっていない。

 いずれにしても、この方法でもしグラマンが落ちたとしたら、それはただの偶然か、それとも相手の操縦士がよっぽどまねけだったとしか言いようがないだろう。

 ともあれ、あとは投石方法だった。

 それは桃子が考えて、できるだけ早くその投石器を作らなくてはならなかった。

 羊は今日も内川の包みで羊面をしてうまそうに草を食べていた。

 竜門山の山肌がいつも以上に近くに見えて、水が張られた田んぼから蛙の合唱が響いている。

そろそろ梅雨に入りそうだった。


 放課後、桃子は梅子と作業場にいた。

 橋の天板用の木材を使って投石器第一号の試作中だった。

 原理は簡単だった。

 ヒントになったのは男の子の遊び。

 男の子たちは休憩時間に消しゴムを小さく切ったものを竹の三十センチ差しで弾き飛ばして戦争ごっこをやっていた。 

 それが結構よく跳ぶのだった。

 三十センチの差しで教室の端から端まで跳んでいる。

 橋の天板を使うなら石は竜門山まで跳んでいくかもしれない。

 それならグラマンを落とせる。

 そう思った桃子は帰るとすぐに梅子と試作を始めたのだった。

 天板の端に空き缶を釘付けして、それに石を入れる。

 問題はどうやって天板を三十センチ差しのように弾くかだ。

 天板の一方を作業台に挟んで固定して、もう一方の端を梅子と二人で引っ張ってもわずかしかたわまない。

 それでは石は跳ばないだろう。

 天板を庭に持ち出して人のいない畑の方に向けて試すことにした。

 空き缶に手ごろな石を入れる。

 天板の一方を庭石に突っ込み、板の下に支点となるブロックを置き、ぶら下がるようにもう一方の端を二人が両手を伸ばして掴んだ。

 いっせーのっで、二人同時に手を離す。

 弾かれた板の先の空き缶から石が跳び出す。

 しかし、飛距離は板の長さにも満たなかった。

 五十mは跳ばさなくてはならないと花子が言っていたことを考えると、これは大失敗だった。

「なんでやろ?」

「引っ張る力が足らんのとちゃう?」

「大人の人に引っ張ってもらう?」

「そうやな。」

 庭を出たところの枇杷の木が色づき始めている。

 食べられそうな実を桃子が取って梅子に渡した。

 ちょっと酸っぱい実もあったが二人にとってはいいおやつだった。

 梅子が帰って桃子がお風呂を沸かし終えたころ、亀蔵が帰ってきた。

 桃子は走っていって亀蔵に投石器の試し撃ちを頼んだ。

 空き缶に石を入れ亀蔵が板を引っ張ると、桃子と梅子が引っ張った倍以上は板がたわんだ。

 亀蔵が手を離した。

 石は板の長さ以上は跳んだが、庭を跳び出していくほどではなかった。

 

(なんで跳ばんのやろ?)

 学校の休憩時間、男の子の遊びを見ながら桃子は思案に暮れていた。

 男の子の跳ばした消しゴムが桃子の方にも跳んできた。

「痛っ。」

 消しゴムが近くにいた梅子に当たった。

「ごめん、ごめん。」

 男の子は謝りながら消しゴムを拾うと走り去っていき、また撃ち合いを始めた。

 桃子がつっと立ち上がって男の子の方に行こうとした。

「いいよ。いいよ。」

 梅子がそう言って桃子を止めようとした。

 梅子は桃子が男の子に文句を言いに行くと思ったのだろう。

 桃子は梅子にうなづいて、しかし男の子には近づいていった。

「なあ。それちょっと見せてくれやん?」

 桃子は男の子の持っている三十センチ差しを指差した。

 三十センチ差しは桃子が持っているものと変わらない。

 桃子の差しは姉のお下がりだったが、竹でできていることに変わりはない。

 しかし、桃子が家で同じことをやってみても、男の子のようには跳ばなかった。

「なあ、どうやったらそんなに跳ぶん?」

「いっしょにやりたいんか?」

「そうやないけど、興味あるんや。」

「ふうん。変なやつやなあ。まあええわ。見てよよ。こうやるんや。」

 男の子は消しゴムを三十センチ差しに乗せて跳ばした。

 ビューっという三十センチ差しの音に乗って消しゴムは跳んでいった。 

 桃子も三十センチ差しを借りてやってみた。

 跳ばない。

 せいぜい、一mといったところだった。

「下手くそやなあ。ええかあ。こうやるんや。見てよよ。」

 そういって男の子はもう一回跳ばした。

 消しゴムは弾かれたように跳んでいった。

「そうかあ。わかったわ。弾いてるんや。」

 桃子はもう一回、三十センチ差しを借りて消しゴムを跳ばした。

 曲げた三十センチ差しを離すとき、持っている指を弾くように一気に離さなくてはいけなかったわけだった。

 それをジワリと離していては、消しゴムに力が加わらないのだった。

 今度は消しゴムはビューっと跳んでいった。

「わかったあー。これや、これや。」

 桃子は大喜びで梅子に駆け寄った。

「梅ちゃん見てたあ? これでいけるで。」

 梅子もにっこり笑っている。

 男の子たちはまた戦争ごっこをやり始めた。

 しかし、桃子は分かっていなかった。 

 その天板をどうやって勢いよく弾くのかということを。


「ほんまにもう。毎日毎日よう来るわ。」

家に帰ると郵便受けを確認するのが桃子の習慣だった。

郵便物のほとんどすべてが月子宛てだった。

戦地からの郵便物がどうしてこんなにたくさん月子に来るのか。

月子によれば知らない人からの手紙がその大半だそうな。

もちろん中には竜門村の幼なじみからの手紙もある。

その手紙はしっかり目を通して武運長久をお祈りするべく神棚に祭っている。

しかし、見ず知らずの手紙に関しては処分に困っていた。

初めのうちは見ず知らずの差出人の手紙でも封を切り目を通していた。

何が書かれていたか。

「月子様と同郷の大和君と同じ部隊にいます。月子様にはお目に掛かったことはありませんが、とても美しくまるでかぐや姫のようだと聞かされています。かぐや姫は兵士たちを動けなくさせる力を持っていたそうです。月子様のお力で敵兵を動けなくさせて下さい。我々に力をお与え下さい。月子様、よろしくお願いします。」

それを読んで月子は情けなくなった。

かぐや姫が動けなくした兵士たちとは、帝の軍隊ではなかったか。

つまり、皇軍。

日本の軍隊のことだ。

日本の軍が動けなくなったら駄目じゃないか。

こんな中身の手紙がよく検閲を通ったものだと月子はため息が出た。

それ以来、見ず知らずの差し出し人の手紙については封を切らずダンボールの箱に入れ、神棚の下に置いておくことにしていた。

お国のために戦っている兵隊たちからの手紙を捨てるわけにもいかなかった。

同郷の幼なじみの手紙だけ抜き取り、あとはいつものように神棚の下の箱に保管した。

「月子姉ちゃん、その手紙どうすんの?」

「うん。どうしよう。捨てるわけにいかんけど、読む気にならんし、困ったもんや。」

「読むだけ読んだらは? がんばってる人らやもん。」

「そうやなあ。ほな今度まとめて読むか。」

そこへ亀蔵が帰ってきた。

今日はやけに早い帰宅だった。

父の姿を見た桃子は、「あひゃーッ」と叫んで風呂炊きに走っていってしまった。

大慌てで炊き出したところへ亀蔵は作業着を脱いでやってきた。

洗い場で洗いながら桃子に話しかける。

「桃子。なんぞええ考え浮かんだか?」

「うん。ええ案できたで。」

「そうか。ほなあとで聞かせてもらおか。」

「やけど、どなえやったらそれができるか、分からんようになってん。」

「どういうこっちゃ。まあええわ。風呂出てからご飯食べながら聞こか。」

「お父ちゃん、今日は早かったなあ。」

「ああ、こないだ穴開けられた天板、ちょいっと替えるだけやったからな。」

「グラマンに?」

亀蔵が湯船に入った。

「そうや。この落とし前は着けさせてもらわなな。わしは兵隊やないけど、仕事に命懸けてる。命懸けてるっちゅうことやったら兵隊さんたちと同じや。」

「お父ちゃん、今度は大丈夫やで。なんせ花子姉ちゃんのたてた作戦やさかえな。」

「花子のか。そりゃ大丈夫やな。」

「お父ちゃんも、花子姉ちゃんすごいと思ってんの?」

「そうや。花子はすごい。」

「ふーん。」

「花子だけやない。星子も月子も桃子もすごい。四人ともわしの宝や!」

「えへへへ。」

喜んだ桃子は次々薪を継ぎ足していった。

釜の火はさらに勢いを増していった。

「桃子おーッ、ちょっと熱すぎる!」

浴室は湯気と熱気で充満していた。


花子は料理上手だったが、食材がかぎられていた。

今は芋の収穫の時期であり、収穫できたものを頂くのが基本であったから、当然の結果として毎日食膳は芋のオンパレードだった。

蒸し芋、芋の煮物、芋の天ぷら、芋サラダ。

それでも文句を言うものは誰もなかった。

「ぜいたくは敵だ」

「ほしがりません。勝つまでは」

そういう戦争標語を遵奉しているわけではなく、亀蔵の家では有る物をあるがままに受け入れ、それを自在に活用する生き方が自然に身についていたのだ。

食材がなくて同じ物ばっかりなら調理方法を工夫する知恵が花子にはあった。

「花子姉ちゃん、この天ぷらうまいなあ。」

一番の食べ盛りの桃子は花子の作ったものなら何だって好きだったが、特に天ぷらには目がなかった。

「そう。ありがと。」

花子はいつも通りそっけなく言ったが顔は微笑んでいた。

「桃子。さっきの話や。何がどう分からんのや?」

「うん。あのなあ。三十センチ差しやったら指で弾いたらビューンって消しゴム跳ばせるんやな。そやけどあんな大きな板どなえやったらビューンって弾けるんやろって梅ちゃんと言うててん。」

「はあーん。なるほど。お前、学校でそんなことして遊んでるんか。」

「違う違うよ。遊んでたんは男の子らや。それ見ててひらめいたんや。あんなに弾いたら石かって跳ぶやろなって。そやけど、どなえしたらあんなに板弾けるんやろ?」

その話を聞いていた鶴子と星子がハッと顔を見合わせた。

それから口を引き結び、目で合図を送りながら首を振った。

それに目ざとく気づいた花子は言った。

「桃子。お母ちゃんと星子姉ちゃん、ええ考え思いついたみたいやで。」

「ほんまあー。お母ちゃんとお姉ちゃん。」

星子は聞こえない振りをして茶碗で顔を隠すように食べ始めた。

鶴子はバツが悪そうに亀蔵の方を向いて顔をしかめた。

「何やお前ら、ええこと思いついたんやったら教えてくれやんか。」

亀蔵にそう言われて鶴子は星子に顔を向けた。

星子も鶴子を見たが、その顔にはどうしようかといった色が浮かんでいた。

「もう! 教えてよお!」

桃子が食卓を叩きそうなくらいの剣幕で大きな声を出したものだから二人は仕方なく頷きあって星子が口を開いた。

「あのな。桃の若木の枝、誘引してるときに、手すべってロープはずれたら、その枝、ビューンって跳ね上がるんや。」

それを聞いた桃子は目を見開いたままゆっくりと亀蔵に顔を向けた。

「なるほどな。ロープで思いっ切り引っ張っておいて、一気に離したらええわけや。」

「そうやな、お父ちゃん。」

「ああ、ロープならいっぱいあるわ。」

「天板を橋の下から引っ張って、グラマン来たらパッて離したらええんや。」

「こりゃええなあ。うん。明日一回やってみるか。」

「うわあー、ええなあ。桃子も行きたい!」

「桃子。何言ってるん! あんたは学校あるやないか!」

星子と月子に一喝されてしまった。


それから一週間後、恐ろしい事件が起こった。

それは桃子と梅子の下校途中だった。

六月十五日。

「ブーン」。

その日の午前、授業中、いきなり響いてきた低く不気味なエンジン音。

目張りをした窓ガラスが震え始めた。

空襲警報は鳴らなかった。

この頃になると爆撃機に対する警報はなくなっていた。

爆撃機の大編隊はこんな田舎には用はないといった素振りで竜門山のはるか上空を悠々と北に向かって飛び去っていく。

爆撃機の往路は心配はいらなかった。

危険なのは復路だった。

爆弾をすべて吐き出した爆撃機は心配なかった。

航路は竜門村からはずーっと西の方だった。

警戒すべきなのは護衛の戦闘機だった。

日本の戦闘機との格闘もせず、銃弾を完備したまま手ぶらで帰る猛禽類は獲物を求めている。

獲物は復路で見つけた無抵抗の標的。

「一人にならず、家まで気をつけて帰りなさい。」

担任の先生に声を懸けられ、桃子と梅子が学校を出たのが午後三時。

いつものように土手の道を西に、おしゃべりをしながらゆっくり歩いていた。

空襲警報は鳴らなかった。

はるか前方、和歌山の方から飛んできた何かが二人の目に入った。

「鳥?」

初め二人はそう思った。

次第に近づくその鳥は意外と大きいことがわかってきた。

「大きな鳥やな。」

声には出さずそう思いながらぼんやり何となくその鳥を眺めながらおしゃべりを続けていた。

次の瞬間、その鳥がふわりと舞い上がった途端、大きなエンジン音が二人を驚かせた。

「鳥やない。戦闘機や。」

しかし、それが分かったときはまだ、二人ともその戦闘機が米軍機だとは思わなかった。

太陽を背にして近づいてくる戦闘機の機影があまりはっきりと見えなかったからかもしれない。

危険が迫りながら、その危険をもたらすものを目の前に見ていながら、それが危険だとは気づかない。

人は時としてそんな一瞬のエアーポケットのような状態にはまることがある。

そのときの桃子と梅子がまさにそうだった。

「あかん!」

叫んだのは、桃子だったか梅子だったか。

あるいは二人同時だったかもしれない。

上昇していた戦闘機が機首を二人に向けた。

そして二人目がけて舞い降りてきた。

「逃げやな!」

桃子と梅子は手をしっかりと握って、来た道を逆方向に逃げ始めた。

エンジン音が一段と高くなり、機影はぐんぐん大きくなってくる。

これまでの人生の中で、これほどの恐怖を感じたことは後にも先にも初めてだった。

死ぬということは言葉としては知っていたが、それがこんなに突然、同級生の誰よりも早く、いや、家族の誰よりも早く自分にやってくるとは考えてもいないことだった。

桃子は必死に走った。

梅子も懸命に走った。

二人ともしっかり握った手を離さなかった。

言葉にしている暇もなかったけれど、死ぬなら一緒にという気持ちで二人は手を握っていた。

必死の形相で走りながら振り向くと、大きな悪魔は真っ直ぐに自分たち目がけて舞い降りてくる。

もはや疑いようはなかった。

自分たち以外に辺りには誰もいない。

自分たちが撃たれる。

もう、終わりイーー。

バッ、バッ、バッ、バッ。

 背後の土手の土が跳ね上がりながら近づいてくる。

 戦闘機の銃撃によるものだ。

「うわあああー。」

 叫び声と共に二人の体は土手を転げ落ちていた。

 戦闘機は爆音を残し、二人の上を飛び越えていく。

 内川の川岸まで弾き飛ばされた二人は、しばらくそのまま伏し倒れたままだった。

 手は握ったままだった。

 というか、しっかり二人は抱き合った状態で川岸に転がっていた。

 おそらく弾き飛ばされた瞬間にどちらからともなく無我夢中でしがみつき合ったまま土手を転がり落ちていったのだろう。

 戦闘機は舞い戻ってはこなかった。

 偶然見つけた標的を吹っ飛ばしたのを見届けて満足して行ってしまったのか。

 それとも、また別の標的を求めて行ってしまったのか。

 そんなことは今の二人にはどうでもよかったし、そんなことはもともと考えることもできなかった。

 それよりも今、自分たちは生きているか?

 そっちの方が重大問題だった。

「梅ちゃん。梅ちゃん。」

桃子は梅子を呼んでみた。

「桃ちゃん。」

梅子の声が返ってきた。

「梅ちゃん、大丈夫?」

「わからんけど。」

「私ら、生きてるん?」

「さあ?」

「二人とも、もうあの世なんやろか?」

「さあ?」

「起きてみよか?」

「うん。」

しかし、二人とも腕が動かなかった。

あまりにもきつくがっしりと抱き合っていたので、そのままの状態で腕が硬直してしまったのか。

生きるか死ぬかの緊張があまりにも激しかったから、その緊張が解けるまでにまだまだ時間が懸かるのか。

それとも、銃弾を受け筋肉や神経が弾列してしまっているにも関わらず、その痛みすら感じないくらいにショックを受けたのか。

 何しろ生まれて初めての言葉にもできないくらいの出来事だったから、状況がまだ何も把握できていなかった。

二人は、生きているのか死んでいるのか、なぜ体が動かないのか、何も分からないまま、取りあえずしばらくはこのままいることにした。

「梅ちゃん、怖かったな。」

「うん。怖かった。」

「あれっ、梅ちゃん、私の下におったん?」

「そうやな。桃ちゃん、私の上におるわ。」

「ごめん。梅ちゃん、しんどいやろ。」

「わからん。何も感じやんわ。」

「梅ちゃん、うたれた?」

「うん。」

「どこ痛い?」

「足。」

「動く?」

「動かんよ。」

「足ある?」

「あると思うけど。」

「ほな良かった。」

「桃ちゃんは?」

「私は、あると思う。」

「でも、痛いっちゅうことは生きてるっちゅうことかな?」

「桃ちゃんは痛い?」

「私は痛くないわ。」

「えーっ、そしたら桃ちゃん死んでんの?」

「でも、梅ちゃん生きてて、私死んでて、おしゃべりできるんやろか?」

「そやなあ。おかしいなあ。」

「ということは、梅ちゃんも私も、二人とも生きてるんちゃうかな?」

「そう、かな?」

「そうやで。二人とも生きてるんやで!」

「うん。そうやな。」

「梅ちゃん、起きれる?」

「先に桃ちゃん起きてくれやな、起きれやんわ。」

「あっ、そうやな。ごめん。」

桃子は腕に力を入れようとした。

力が少し蘇ってきた。

梅子の背中から右腕を抜いた。

次に左腕を抜いた。

上体を起こして桃子は全身を確認した。

足はある。

血は出ているところもあるが切り傷程度のものだった。

桃子は膝に力を入れ右足を立てた。

右足の骨も大丈夫だった。

右足に力を入れて立ち上がった。

左足にも力が入った。

桃子は両足で立ち上がって、両手で自分の体を頭から腕、胴体、両足と叩いていった。

「全部ついてる。大丈夫や。」

そう言って梅子を見て、梅子に手を伸ばした。

「梅ちゃん、起きれる?」

両手で梅子の両手を持って、桃子は梅子を起こそうとした。

「待って桃ちゃん。あちこち痛いわ。」

「起きれやん?」

「わからんけど。ゆっくりやったら起きれるかも。」

「ほな、ゆっくり引っ張るわ。」

桃子はじわっと力を入れて梅子を引き起こそうとした。

梅子の上体が垂直になった。

「いたたたたた。」

「どこ?」

「背中や。」

桃子は梅子の背中を右手で触ってみた。

「あっ、そこや。そこ痛い。」

桃子は梅子の上着をめくって痛いという部位を確認した。

うっすらと血がにじんでいたが、それは銃創ではなかった。

おそらく土手を転げ落ちるときに石か何かに思いっ切り打ちつけたものだろう。

「梅ちゃん、うたれてないで。」

「そう。ほいたら大丈夫やな。」

「ほなら起こすで。」

「ゆっくりなあ。」

「足に力入れてよ。右足から行くで。」

桃子は梅子の右膝を立てさせて、両腕を引っ張った。

梅子も右足に力を入れて立とうとする。

「せーのっと。」

桃子の掛け声と一緒に梅子が立ち上がった。

「梅ちゃん、立てた!」

「うん。立てた。」

「どう? 歩ける?」

梅子が左足を動かした。

「痛っ!」

「どこ?」

「左足。」

桃子は梅子のもんぺをまくろうとしたが、それは無理だった。

仕方なく梅子をもう一度座らせて、もんぺを脱がすことにした。

辺りを見回して誰もいないことを確認すると、ゆっくりと梅子のもんぺと脱がしていった。

それは少女にとってとても恥ずかしいことだったが、相手が桃子だったことと、生きているか死んでいるかわからないくらいの非常時だったことで、梅子はすべてを桃子に任せる気持ちになっていた。

「梅ちゃん。これあかんわ。左のひざからむこうずね、えらいやられてる。梅ちゃん見やん方がええ。」

「そんなにひどいん?」

「うん。これやったら歩けやんわ。」

「どなえしょう?」

「私おぶっていくわ。」

「そんな桃ちゃん無理や。」

「大丈夫や。休みもて行ったらどうってことないわ。」

「ごめんよ。」

「うううーん。かめへんよ。私一人生き残ってもしゃあないやんか。梅ちゃん生きててくれてうれしいわ。」

「そんなら、私ら生きてたんか?」

「そうみたいやな。」

「よかったなあ。」

「ほんまや。よかった。」

桃子は梅子をおぶってゆっくり歩き始めた。


梅子の左足は銃撃を受けながら、それは辛うじてかすった程度のもので済んでいた。

あの時、桃子が振り向いた瞬間、銃撃を受けた土手の土が跳ね上がりながら迫ってくるのに驚きつまずいた。

バランスを崩して土手から転げ落ちた。

桃子と梅子はしっかり手を繋いでいた。

桃子に引っ張られる形で梅子も土手を転がった。

その一瞬、まだ土手に残っていた梅子の左足を銃弾がかすっていったのだろう。

もし桃子がつまずいて土手を転がっていなかったら、二人とも、あるいはどちらか一人は確実に撃ち抜かれていたはずだ。

亀蔵は帰宅したのち、その話を聞いた。

自分が銃撃されたとき以上の怒りが亀蔵の全身を包んだ。

許せん。

必ず撃ち落としてやる。

怒りが火となって噴き出すかと思われるほどの形相の亀蔵であった。


紀ノ川は鮎漁が盛んだ。

稚魚を育て春に放流する。

五月の末に解禁されると大勢の太公望がつめかけ、等間隔に位置を取りながら釣り糸を垂れる。

主流は友釣りだ。

おとりの鮎に何本か針を仕掛け泳がせる。

その鮎に体当たりを仕掛けに来た鮎が針に懸かるという仕組みだ。

縄張り争いが激しい鮎の習性を利用した釣り方だった。

戦争が激しくなるまでは、六月ともなれば友釣りを楽しむ釣り人で出店も流行るくらいだったが、今は数えるほどの人影も見当たらない。

仕事の次に娘の料理と鮎釣りが好きな亀蔵は、竜門橋の仕事以来しばらく仕事の依頼が入らなかったので、もっぱら毎日鮎釣り三昧だった。

釣り客が少なかったからどこでも好きな場所を選べたが、亀蔵は竜門橋の真下を釣り場に定めた。

桃子たちが銃撃された次の日、亀蔵は米軍機撃墜用の仕掛けを竜門橋に取りつけた。

橋の南端には亀蔵を模した人形を置いた。

その人形を亀蔵だと見誤った米軍戦闘機が急降下をする。

人形を銃撃したあと、急上昇するときが迎撃のチャンスだった。

花子の計算ではチャンスは五回ある。

人形の位置から北に十mの地点から始まって十mおきに五十mまでの五地点。

都合、五人の射撃手が必要だった。

棟梁の娘が撃たれたということを聞いた弟子たちは、こぞって協力を申し出てくれたが、常時毎日、竜門橋に待機させておくわけにはいかなかった。

弟子たちは大工仕事以外にも、家業の畑仕事をそれぞれ担っていた。

そういう点、亀蔵は畑仕事を鶴子や星子に任せっきりだったから気は楽だった。

亀蔵は釣りをしながら敵を待つことにした。

米軍爆撃機が北上すれば、その帰路、戦闘機が襲ってくる可能性が高まる。

そのときに弟子の大工たちに集まってもらうことにしておいた。

そして、ついにその日が来た。

六月二十六日。

米軍爆撃機が大挙北上。

亀蔵は大至急弟子に連絡を取った。

午後、弟子たちが集まってきた。

その数、八人。

全員が射撃手をやりたがった。

天板は幅を半分に切断したことで、半分の力で倍の威力を発出できるようになっている。

射撃手は五人あればいい。

残りの三人はおとりになることになった。

亀蔵の代わりに橋の南端で作業をしているふりをする。

米軍機が急降下をしてきたら、銃撃されないように川に飛び込む。

亀蔵は川原にいて撃墜のタイミングを知らせる指揮官を務めることにした。

亀蔵の振り下ろす腕のタイミングで次々と射撃手が石を発射する。

第一射撃手の発射タイミングが一番重要だった。

二番目以降は、先の射撃手が発射すれば、間髪を入れず発射していけばいい。

第一射撃手の発射タイミングが狂えば、あとの射撃のタイミングもすべて狂っていく。

その重責は亀蔵の合図一つに掛かっている。

爆発はしない石ではあるが、仮にも当たれば相当の損傷を与えることはできるはずだ。

プロペラや燃料タンクなど、当たる場所によれば撃墜することも可能だろう。

鮎を釣りながら待っていたのは鮎の当たりではなく米軍機の当たりだった。

その当たりが来た。

米軍戦闘機はいつものように和歌山方面から低空でやってきた。

低空だから発見されにくく空襲警報は発令されなかった。

攻撃目標に達すると急上昇に転じ、そののち急降下するという攻撃パターンと思われた。

ブウォーン。

急上昇とともにエンジン音が高くなる。

いつも通りだった。

(いつも通りでないのは、今日は撃墜されるということや)

亀蔵は全員に合図を送った。

五人の射撃手は橋の下の持ち場に散った。

三人のおとりは橋の上に上がった。

「絶対に撃たれるな! 最後は人形に任せろ!」

亀蔵は橋に上る三人に大声で叫んだ。

「わかってまあーす。」

三人は大きな声で応え、橋に駆け上がっていった。

戦闘機は竜門山の頂に達した。

軽く旋回をし始める。

その動きはまさに獲物を探す猛禽類のように見えた。

そして機首を北に向け、いっとき静止したかに見えた次の瞬間、ジェットコースターが駆け下りるように急降下を始めた。

「来るぞー!」

亀蔵は射撃手五人に気合いを入れる声を掛けた。

「せーのーッ。」

射撃手五人は、体ごと後に倒れロープを引いた。

ロープに繋がれた天板は、その先端に石を入れた空き缶ごと大きく弓なりに反り返った。

「逃げろー!」

亀蔵は橋の上のおとりの三人に叫んだ。

おとりの三人は川に飛び込んだ。

ビューン、ギュォオーン。

戦闘機からの激しく風を切る翼の音と一段と高まったエンジン音が紀ノ川をつんざく。

戦闘機の銃口が火を噴いた。

同時に橋の天板が南の端から吹き飛ばされていく。

人形はどうなったか。

それの確認に注力している余裕はなかった。

幸い戦闘機は川原にいる亀蔵に気づいていなかった。

それもそのはず、亀蔵は川原模様の迷彩服を自作してうずくまっていたからだ。

その形は近めで見ても、まったく川原の岩にしか見えなかった。

戦闘機が射撃をしたということは、戦闘機の飛行の軸線が決まったということだった。

つまり今、亀蔵に気づいたところで、その飛行の軸線は変えられない。

亀蔵は川原に立ち上がった。

大きく腕を挙げて合図を送る構えに入った。

合図のタイミングは、戦闘機が降下から上昇に移る一歩手前の瞬間。

その瞬間に合図を送り射撃手が順に撃っていけば、五発のうちのどれか一発は当たるだろうという計算だった。

亀蔵はタイミングを測っていた。

銃撃が終わった。

ということは間もなく上昇に転じるはずだ。

ブウォーン。

エンジン音が変わった。

戦闘機の機首の向きが変わる。

「今やあー! 撃てえー!」

戦闘機が、Y=aX+10の放物線を駆け上がる。(aの値は不明のままだが・・・)

第一射撃手が、Y=X+10の直線上を射撃する。

二つの関数の交点が撃墜地点だ。

実際はそう計算通りにはいかないだろうが、あとは職人の勘が勝機を見出せるはずだ。

第一射撃手が撃てば、間髪を入れず第二射撃手が、そして第三射撃手、そのあとすぐ第四射撃手、最後に第五射撃手が撃っていく。

ギュオオーワアーン。

戦闘機はさらに大きなエンジン音を残して機影を遠ざけていく。

その中に確かに聞こえた。

ガッ、ゴッ。

明らかにエンジン音ではない金属音だった。

石が当たった音。

少なくとも二発。

確かに当たった。

おとりになった三人が証言した。

飛び去っていく戦闘機から黒い液体が漏れれていた。

おそらく燃料かエンジンオイルだろう。

燃料だとすれば、増槽に穴を開けたことになる。

オイルだとすれば程なくエンジンにトラブルが生じ戦闘機は墜落する可能性があった。

その場での撃墜はできなかったが、かなりの損傷は与えたことは間違いなかった。

事実、その戦闘機はその後舞い戻っては来なかった。

「くっそーオー。落とせやんかったかあ。」

射撃を担当した弟子たちは悔しがった。

後日、竜門山の向こうの村から噂が届いた。

煙のようなものを出している戦闘機が何か大きなものを落としていった。

煙のようなものとは燃料かオイルだろう。

燃料かオイルが霧状になって空中に散布されるような状態だったのだろう。

引火を恐れた操縦士は増槽を切り放した。

増槽なしで空母に帰艦できたどうかはもちろん分からない。

最悪、機体を海に捨て駆逐艦にでも助けられたか、それも分からない。

しかし、このままでは終えられない。

もう一度来るなら来い。

亀蔵たちは新たな闘志を燃やしていた。


機体が上昇に移る際に腹面を晒したときが戦闘機撃墜のチャンスであることが分かった。

しかし、同じ攻撃が次回も通用するとは思えない。

敵も攻撃方法を変えてくるだろう。

こんなちっぽけな橋一つに爆弾を落としてくるとは思えない。

目標への進入位置を変えた急降下銃撃か。

今は南の竜門山からの急降下だった。

次回はもしかすると北側から来るかもしれない。

あるいは東からか。

ひょっとすると西からか。

また同じく南から来るかも知れない。

そう考えると迎撃装置を4倍にしなくてはならない。

水平銃撃だったらどうなるか。

南には竜門山があるから南からの水平銃撃は敵も取らなかった。

しかし、東、西、北からは充分水平銃撃が可能だ。

とすれば、その三方向の水平方向の迎撃装置も用意する必要がある。

そうなると、それはいわば竜門橋という戦艦の甲板に銃砲のようにたくさんの石飛ばし機を用意しなくてはならないことになる。

それは無理だ。

撃ち手の方が混乱してしまう。

敵がどの方角から来ようとも、一つの装置で対応できるようにしなくてはならない。

さて、どうすればいいか。

亀蔵に新たな課題が起こってきた。

どの方角にも対応しようと思えば、石飛ばし機は回転板に乗せる必要がある。

そうすると必然的にそれは橋の上に固定することになる。

しかしそれは、銃撃の格好の的になる。

敵の銃撃よりも早く石を飛ばすことは現実的ではないからだ。

敵はアウトレンジ戦法でくる。

こちらの射撃距離外から銃撃してくる。

こちらは敵に撃たれてから反撃することになる。

となると、銃弾を防ぐ防御板が必要になる。

グラマンの十二、七ミリ弾6門を防御する板となると三十ミリ以上の鉄板が要るだろう。

かなり大掛かりな装置となる。

鉄という鉄はすべて軍への供出で手元には全く残っていなかった。

仕方がない。

ここはやはり大工の腕を活かして木で作るしかない。

鉄の三十ミリの強度に見合う木の板となると百五十ミリ以上は必要だろう。

板を何枚も重ねて百五十ミリにする。

その板と板の間に薄くてもいい何か金属を挟んで強化する。

それを防御板として敵戦闘機と対峙するこれはまさに戦争だ。

こちらの命が助かることばかり考えていてはいけない。

敵も撃墜されれば命を落とす。

こちらも命を懸けないことには戦闘機の撃墜などできるものではない。

幸い今は仕事の注文は入っていない。

木製の迎撃装置を作ってやる。

問題は石飛ばし機でいいかどうかだ。

石でも当たれば機体に穴を開けることはできる。

しかし、穴だけでは戦闘機を撃墜することはできなかった。

やはり何かを爆発させて機体を破壊しなくてはならない。

そういう何かはないものか。

爆弾はない。

大工の仕事には発破を掛けるような現場はないから爆発物はなかった。

何かないか。

亀蔵の考えはそこで止まってしまった。

まあいい、あとはまた娘たちの知恵を借りることにしよう。

梅雨はまだ続いていた。

細かい雨の脚が紀ノ川の川面を叩いていた。


七月に入って桃の収穫が本格化してきた。

鶴子、星子、月子は朝早くから桃畑に出て行った。

亀蔵は今は取り急ぎの仕事が入っていなかったから、一日中でも迎撃機の作製にかかりっきりになれないこともなかったが、収穫された桃の搬出作業にはやはり男手が必要であったから、昼間は亀蔵も桃畑に駆り出される。

星子と月子が収穫してきた桃を、鶴子が大きさを峻別して次々と箱詰めする。

それを亀蔵が一輪車で畑から運び出し、道に停めてある荷車に積み込んでいく。

きれいな流れ作業が展開していた。

運搬の作業には何の頭も使う必要のない亀蔵にとっては、撃墜機製作のための格好の思索のひとときだった。

大掛かりな装置を作ることになる。

時間は限られている。

何台も作るわけにはいかない。

必ず撃墜できる完璧な迎撃機を一台造って、乾坤一擲の勝負を掛ける。

亀蔵は一輪車に満載した桃の箱を運びながら考えていた。

一輪車は便利だった。

車輪は車を押せば前にも、車を引けば後にも回転する。

車輪そのものは、前回転後回転しかしないが、車の押し様で右へも左へも自在に方向を変えられる。

(これは使えるかもしれんなあ)

一輪車の上に迎撃機を搭載した状態を頭に描いた。

前後左右の動きは容易にできそうだ。

しかし、一つ難点がある。

安定がよくない。

撃墜機はかなりの重量になるはずだ。

左右への方向転換時に横転でもすれば目も当てられない。

敵は一秒で二百m近く突っ込んでくる。

横転した迎撃機を起こしているうちに蜂の巣にされてしまう。

さてどうするか。

答えは簡単に導き出せた。

車輪を左右に一つずつ付ければいい。

一輪車ではなく二輪車にすれば安定する。

敵が攻撃の軸線に乗れば、その軸線に二輪車を向ければいいわけだ。

これで一つ問題は解決した。

次は、仰角だった。

敵が水平に突っ込んできてくれれば、ことは簡単だった。

迎撃機も水平を保って建造しておけばいい。

しかし、角度をつけて突っ込んできた場合、こちらも上向き角度をつけて、つまり仰角を計算して迎撃しなくてはいけなくなる。

その操作をどうするか。

一輪車や二輪車の場合、俯角はつけやすい。

持ち手を持ち上げれば、水平より下の角度に容易になるからだ。

しかし、仰角となると持ち手を持ち下げなくてはならなくなる。

重い機材を積んだ一輪車や二輪車の持ち手を下げるのはとても無理だろうし、仮に下げられたとしてもせいぜい仰角二十度くらいが関の山だ。

それでは急降下攻撃には対応できない。

やはり機材そのものを台車の上で仰角をつける工夫が必要だった。

その工夫はほどなく思いついた。

台車の左右に一本ずつ柱を立て、その柱と柱に棒を通す。

その棒に迎撃機を設置すれば0度から九十度近くまで仰角を調整できるだろう。

問題は、そこに設置する迎撃機だった。

前回使った石打ち機は大きすぎるし、しかも石打ち機では完全な撃墜はできない。

もっと小さく軽量で使い勝手がよく、できれば多連装がいい。

一台から一発しか発射できないようでは、撃墜の可能性は著しく低くなる。

できれば六発は撃ちたい。

相手が六連装なんだから、こちらもできればそれ以上の連射ができれば言うことなしだ。

しかし、そういうことができるかどうか。

亀蔵の思案はそこで止まってしまった。


亀蔵は収穫された桃を荷車で家の倉庫に運び込んでいった。

倉庫は二棟あり、西側の倉庫は亀蔵の作業場、東側の長屋門と棟続きの倉庫が桃のための倉庫だった。

門を潜ってすぐ左手のすぐ目につく倉庫に積み上げられた桃の箱は、学校から帰った桃子には壮観だった。

「うわあー、夏が来たんやなあー。」

「まだ梅雨明けてへんけどな。」

「でも、桃見たらうれしいわ。夏やなあ。」

「うん。今年の桃もようできてるわ。」

「お父ちゃんも桃のでき具合わかるん?」

「あほ。それくらい分かるわ。」

「ふうーん。そやったんや。大工しかできやんって思ってたんやけどな。」

「桃農家に婿に来てもう二十年以上になる。お前よりは分かるつもりや。」

「そやな。でも桃ってええなあ。桃の季節が一番好きや。」

「お前の名前やからな。」

「うん。でも何でうちのこと桃子って付けたん?」

「桃みたいにかわいかったからや。」

「へへへへ。そうやったん。」

「ああ、お尻がな。」

「なんやそれえー。あほちゃう!」

「まあこの桃見てみい。ほんまに赤ちゃんのお尻みたいやろ。」

「でもそれやったらお姉ちゃんらはどうやったん。お姉ちゃんらのお尻かって桃みたいやったんとちゃうん?」

「まあそらそやったけどな。」

「ほならなんでお姉ちゃんらに桃ってつけへんかったん?」

「お母ちゃんが宝塚好きやったからな。」

「宝塚?」

「そうや。星組、月組、花組やな。」

「はあ、だから星子、月子、花子なんや。」

「そうや。」

「そんならもしうちが男の子やったらどうしたん?」

「そらお前、やっぱり桃太郎やないか。」

「はあ?・・・。」

「そんなことより、どうな。その桃食べてみるか。」

「うん。」

亀蔵は井戸の手押しポンプを押して手を洗い、包丁を持ってきて器用に皮を剥いた。

桃子も手を洗った。

「ほれ。食べてみい。」

「うん。」

桃子は大きく口を開けて桃をかぶった。

「どうや。」

「うん。うまい。まだちょっと固いけど。」

「まあしゃあないわ。一番うまなるんはやっぱり祭のころやって言われてるさかえな。ちょうど土用のころでだいたい夏のもんはその頃が一番うまいんや。」

「ふーん。そうなん。そういや祭は今年はあるんかなあ。」

「さあ、どうやろなあ。こんなご時世やからなあ。」

「やってほしなあ。お父ちゃん橋作ったさかえに粉河に行きやすなったしなあ。花火見たいなあ。」

「花火か。」

「うん。粉河祭の打ち上げ花火すごいやんか。何連発もあるやつ。」

「何連発?」

「うん。しかけ花火もしだれ花火もええけど、やっぱり連発花火がええわ。迫力がある。」

亀蔵は桃子の顔を見たまま動かなくなった。

桃子はそんな亀蔵には気づかずにおいしそうに桃を食べていた。

亀蔵は急に立ち上がると、

「桃子。お父ちゃんちょっと行って来るとこできたから畑へ行ってお母ちゃんにそう言ってきてくれ。」

と、それだけ言うともう倉庫から出ていってしまった。

「えー。桃運ぶのどうすんのよ!」

「お前がやっとけー。」

姿は見えなくなっていたが、長屋門の外の道からそう叫ぶ亀蔵の声が聞こえてきた。

「もうー。お風呂炊きもあんのにー。」

何か思いついたらすぐに行動に移してしまうところは桃子もまったく同じだったから、それ以上の文句は言いたくても言えなかった。


亀蔵が戻ってきたのは花子が晩ご飯の用意をすべて整え終えた頃だった。

「ほんまにもう! ちゃんとその時間には帰ってくるんやから。お風呂はどうすんの?」

少しふくれっ面を見せながら桃子が聞いた。

「おお。ちょっと浴びてくるか。」

「ほんまにい。早よ行ってきて!」

桃子は亀蔵が飛び出していってから目が回るくらい忙しい思いをした。

母と姉たちがいる桃畑に駆けていって事情を説明したあと、母が箱詰めした桃を荷車に積み込んで家に運ぶ。

いったい何往復したことやら。

それから大急ぎでお風呂を沸かせて亀蔵の帰りを待っていた。

花子はそんな桃子の立ち回りなどにはまったく無頓着でいつもと変わらず晩ご飯の用意を粛々と進めていた。

へとへとの桃子はそんな花子を羨ましそうに眺めながら言った。

「花子姉ちゃんはなんでいっつもそんなに冷静でおれんの? うちはいっつもあたふた走り回ってるのに。」

「せんなんことをいつも通りにやってるだけやで。」

「それがすごいんよ。いつも通りになんかできやんわ。」

「まあ、周りは周り。私は私やからな。私は自分のできるようにしかできやんだけや。」

亀蔵がお風呂から出てきた。

全員揃ったところで晩ご飯が始まった。

キュウリ、ナスビ、トマト、シシトウ。

家庭菜園の野菜がふんだんに使われている。

亀蔵が釣り上げた川魚もたくさんあった。

都会では食糧事情が悪化しているとのことだし、戦地へ輸送できる日持ちの効くものについては供出しなくてはならなかったが、野菜などは足が速いから自産自消、自分たちの作った物は自分たちの口に入れられた。

「花子姉ちゃんの天ぷらはやっぱりうまいな。」

「キュウリは天ぷらちゃうで。」

「グッ。」

すかさず花子の突っ込みが入る。

「お母ちゃん、今年の桃もうまいなあ。」

桃子はすぐさま方向転換した。

「もう食べたんか。そうか、うまかったか。」

「お父ちゃんがむいてくれたんや。」

話の矛先が亀蔵に向いたところで、ここぞとばかりに星子と月子が口を開いた。

「お父さん、桃の仕事ほっぽり出してどこ行ってきたん?」

「そうや、そのあと大変やったんやで。桃ちゃん来てくれたさかえ助かったけど。」

なんだか自分のせいで父親が責められ出したかのような展開になって桃子も身をすくめて事の成り行きを見守っていたが、それは決して自分のせいではないぞと言った気持ちも桃子の頭の中では渦巻いていた。

「あっははは。すまんかった。すまんかった。いやあー、ええ案が浮かんだと思ったら体が勝手に駆け出しとったんや。」

「ええ案って、またグラマンですか?」

難しい顔をして鶴子が言った。

「そうや。わしだけやない。桃子や梅ちゃんにまで危害を加えおったやつらは絶対に許さんさかえな。」

「お父さん、もう止めて下さい。お父さんも桃ちゃんや梅ちゃんも幸い生きてるやないですか。これ以上やって、もしほんまに命落としたらこの子らはどうなりますか? 私一人じゃどうにもできません。」

「やられるようなことは絶対にない。その方法を思いついたさかえ、あちこち掛け合ってきたんやないか。」

「どんな方法なん?」

桃子が真っ先に目を輝かせて聞いた。

「お前がヒントをくれたんや。」

「うちが?」

桃子のおかげで鶴子からの攻撃をかわせたと思った亀蔵は気を良くして語り出した。

「そうや。お前の言うた祭の花火や。何連発も一気に上げれる連発花火。こいつを束にして台車に乗せておく。台車は二輪車や。二輪車やったら安定するし、方向転換も簡単や。角度を調節する装置はわしが作る。今日聞いた話やったら二十連発まではいけるっちゅうことや。しかも飛ばせる距離は百m近い。問題は風と雨やけど、風が強くて雨が降ってるときはグラマンも来んやろう。あいつらかって視界の悪いときに出撃することはないやろさかえな。あとはその花火を提供してくれる花火業者は粉河にはおらんさかえ、和歌山まで行って来なあかんのや。幸い祭の実行委員会に顔が効くさかえに和歌山の業者に紹介状書いてもらえた。善は急げや。明日にでも行って来るわ。使用目的が問題やから、ひょっとするとあかんかもわからんけど、そんときは飲みにでも誘ってうんと言わせる。そやさかえ帰りはご前様になるやもしれん。また桃の手伝いできやんな。すまんな。」

星子と月子はやれやれと言った顔で亀蔵を見ていた。

思いついたらすぐ行動、言い出したらもう誰が反対しても無理っていうところが亀蔵の特徴だった。

それは亀蔵のいいところであったし、悪いところでもあった。

少々無鉄砲だが男気があって自分の損得よりも周りの人の幸せを考えてるところが亀蔵の魅力であった。

弟子たちもそんな亀蔵に心酔しているといってよかった。

しかし、一歩間違えば命に関わるようなことがこれまでにも幾多となくあったことは事実だった。

そんな亀蔵の性質を余すところなく受け継いだのが桃子だったが、その桃子がまたよりによってこんな危険なことの計画にヒントを与えるとは。

いつものことながら頭の痛い鶴子だった。

桃子は何気なく思ったことを口にしただけだろう。

それを亀蔵がグラマンに結びつけたのだとはわかっているのだが、亀蔵と桃子のコンビを何とかしなければ、この先また何を仕出かすか分かったものではない。

そんな心配を鶴子がしていた矢先に早速桃子が亀蔵に言い始めた。

「お父ちゃん、うちもそれ作るの手伝うわ。ええやろ。何てったってそれの発案者なんやさかえな!」

「おお。もちろんや。今夜はまず設計図書きや。」

「わっかりましたあー!」

桃子は兵隊のように挙手の敬礼をしていた。

「桃ちゃん。いけません。あなたは他にすることあるでしょう!」

思わず鶴子が叫んでいた。

「ないよ。なえって授業なんかいっこもしてへんもん。」


亀蔵が和歌山の花火師を尋ねたのは、七月九日だった。

花火師の家は和歌山城の南、寺町通りの外れにあった。

花火師は年の頃は亀蔵と似たかよたかといったところだった。

顔色は浅黒く、すべての指先から真っ黒な薄光が放たれているような感じを受けた。

おそらく火薬を扱うからだろうと亀蔵は思ったが、それは口にはせず粉河祭実行委員会からの紹介状を差し出した。

紹介状を一渡り確認してから花火師は頭を上げて亀蔵に言った。

「竜門村の大工の亀蔵さんな。名前はよう知ってます。ここら辺りの橋も直してくれたさかえなあ。ほんで、その亀蔵さんが今日は何ですか?」

「おたくさんが作ってる花火を百四五十発、売ってもらえやんかと思いましてな。どうですやろか?」

それを聞いた花火師は、改めて亀蔵の顔にじっくりと目線を向けた。

「何でですやろかな。花火を上げるんなら、それはわしらの仕事です。わしらが上げに行きますわ。あんたさんが買い上げやなあかんという訳が分かりまへん。何のために買いなさるんですか?」

亀蔵はグラマンによる銃撃事件とその撃墜対策とを事細かに説明した。

それを黙って聞いていた花火師は「ふーん」と大きな息を一つ吐いたが、その後はまたしばらく黙ったままだった。

亀蔵はなおも説明と説得を続けた。

無謀なことはわかっていること、次回は弟子は使わず己一人で遂行するということ、本来なら陸軍の防空部隊が迎撃するものであること、しかし今はもはや日本には迎撃のための戦闘機はなさそうなこと、村民の命を守るのは我々の務めであること等を力説した。

花火師は口を開いた。

「棟梁さん。あんたのおっしゃることはよくわかります。娘さんを狙われたあんたの怒りもよくわかります。しかしや、ここが考えどころなんですわ。私ら花火師は何のために顔を真っ黒にして指に火傷を負ってまで花火を作っているか。それはみんなの笑顔を見たいからなんです。みんなの歓声が聞きたいからなんです。火薬を使ってますから使い方によったら爆弾と同じような効果は期待できるかも知れません。打ち上げ花火やったら砲撃のようなこともできるでしょう。その連発を考えたあんたさんはさすがです。しかしわしら花火師が花火を砲撃に使うような真似はできません。実際に撃つのは私らでなくても、それを売ったのが私らやったら同じことです。これは私だけやない。どこの花火師に聞きに行ってもろても同じことです。花火を砲撃に使ったら最後、それはもう花火師やない。廃業せなあかんことになってしまいます。嘘やと思うなら他の花火師さんを尋ねてみなされ。どこに行っても同じことですよ。」

花火師の言いいたいことはよく分かる亀蔵だったが、しかしこのまますごすごと帰る訳にも行かなかった。

一か八かで他の花火師を尋ねて見ることにしたが、何軒かある花火師に行ってみたが結果は同じだった。

花火師廻りをしていた亀蔵の顔にようやく疲れと諦めの色が浮かび始めてきた頃、夏の陽は沈み、巷には夜の帳が垂れ込め始めていた。

「腹が減ったな。さてどうするか。」

思案した亀蔵だったが迷うことはなかった。

もう一度最初の花火師を尋ねることにした。

花火師はまだ作業場で作業をしていた。

ちらりと亀蔵に目を向けたはしたが、花火師は構わず作業を続けた。

亀蔵は黙って作業を見ていた。

一玉一玉丁寧にこねられて作られていく。

その手つきはまるで生まれたての赤子を慈しんでいるような作業に思えた。

出来上がった花火玉が整然と並べられて乾かされてあった。

それらを眺めていると、花火師が言った言葉の意味がなるほどと腑に落ちるような気になってくる亀蔵だった。

花火師がこねていた花火玉を棚に置いた。

そして腕を思いっ切り上に伸ばした。

亀蔵の方を振り返って口を開いた。

「今日これから時間あるかな? よかったらちょっとどうかな。」

そう言って、右手を口に持っていってちょっと傾けた。

「いける口なんやろ?」

亀蔵はもちろん大きく頷いていた。

「ほなら、ちょっと待ってってくれるかな。すぐ着替えてくるさかえ。」

花火師は笑みを残して作業場を出て行った。

亀蔵は、すーっと疲れが消えていくような気がした。


酒は当時配給品だった。

戦時下、しかもいつ米軍の爆撃があるかわからない情勢の下、灯火管制が施行されている町中で夜遅くまで呑ませてくれる飲み屋があるのか。

そんな亀蔵の心配をよそに花火師は町中をずいずいと歩いて、とある街角の店に亀蔵を誘った。

すでに暖簾は外されていた。

「あらっ、いらっしゃい。」

その店の女将と覚しき小意気な女性が花火師に笑顔を見せた。

その笑顔は水商売の女性特有のものではあったが、亀蔵にはそれ以上の意味が含まれた笑顔であったように思われた。

亀蔵は男女のそういった方面の機微には明るくない。

大工仕事一筋、鶴子一筋の律義者だった。

女将と花火師のことは詮索するまいと亀蔵は思った。

それよりも花火師がなぜわしを誘ったか。

そっちの方が今は大事だった。

わしの申し出をにべもなく断っておきながら、それ以外の花火師を紹介してくれもし、さらに呑みにまで誘うなど、いったいこの花火師は何を考えているのか。

女将がつきだしを運んできた。

「暗くてごめんなさいね。光が漏れると商売させてくれなくてさ。まあ、あんたとは商売抜きだけどね。」

花火師は渋い顔をして見せた。

亀蔵の方を向いて言い繕う。

「こいつの言うことは聞き流しておいてくれ。こいつとはガキの頃からの知り合いでな。いまじゃ呑み友達みたいなもんや。それだけの仲やさかえ。」

「ふん。それだけの仲ってなんよ。あんたが大変なときはいっつもあたしに頼りに来るくせに。」

男女の機微に疎い亀蔵にもあらかた理解できた。

女将にはその気があるようだが、花火師はそんな女将の気持ちに気づきながら自分のよき理解者として都合のいいときだけ女将を頼っているだけのようだった。

女将が酒と料理を運んできた。

差しつ差されつ、二人は盃を取り交わした。

酒とは何と素晴らしきものか。

つい先刻までは見ず知らずであった者たちを、今は旧知のような仲にしてしまう。

亀蔵と花火師とはすっかり打ち解けていた。

元々が酒好きな者同士であった上に、それぞれの道での第一人者たちでもあった。

意気投合しないわけがなかった。

花火師は仕事に命を懸けていると言った。

文字通りに受け取っていい話だった。

何よりも火薬を使う仕事だった。

寸分のミスも許されない。

万が一、火薬玉の調合や打ち上げにミスがあれば、それは人命の喪失に直結するに違いない。

それが自分の命であれば、それは仕方ない。

しかし、もしそれが見物人の命となれば、花火師は廃業を余儀なくされるだろう。

命懸けというのは掛け値なしの言葉だった。

同じことは亀蔵にも言える。

亀蔵が造る家屋や橋梁に設計上や施工上のミスがあれば、それを利用する施主や人々の命に関わることになる。

寸分の狂いもなく完成品を依頼主に届けるということにおいて亀蔵も命を懸けて作業をしていることに変わりはなかった。

花火師は見物人の喜ぶ顔を見たり、歓声を聞いたりすることが何より嬉しく励みになると言った。

それは亀蔵もまったく同じだった。

依頼主の喜ぶ顔は何よりの報酬だった。

自分が造った物はただの造形物に過ぎないが、そこにそれを使う人々の喜びが加わったときに、その造形物に命が吹き込まれると思っていた。

つまり、物を生み出したときを起点に始まるそれ以後のすべての時間と空間とに関わる仕事という意味で、大工と花火師との思いはまったく一致したのだった。

そうやって何時間呑んでいただろう。

女将が外の様子がおかしいことに気づいた。

光が漏れないように気を使いながら、女将が外の様子を見に行った。

戻ってきた女将の顔が緊張で引きつっている。

「あんたたち、こんなことをやってる場合じゃないよ。お城が燃えてるんだ。」

女将が何を言っているのか、瞬時には理解できなかった二人をどやしつけるように女将が大きな声でもう一度叫んだ。

「お城が燃えてるんだって! やられてるんだよ。空襲だよ。どうする? 近くの防空壕に逃げる?」

女将の激しい剣幕に、夢から覚めようやく正気を取り戻したような顔になった二人は取りあえず外に出てみることにした。

「それじゃ危ないよ。これ被っていかないと。」

女将が渡してくれたのは座布団だった。

それで頭を覆い、二人は外への階段を上がっていった。

二人が呑んでいたのは、地下の倉庫を急遽改造した一室だったようだ。

外に光が漏れるといけない。

それは米軍に見つかってはいけないという理由も当然あったが、それよりも近所への手前、夜中に店を開いていることがばれないようにといった女将の配慮もあってのことだった。

外に出て亀蔵はしばらく声が出なかった。

天守閣が燃え落ちようとしている。

和歌山の街も火を噴いている。

街全体が夜空という大きな釜を焚く薪になったかのような錯覚を覚えた。

亀蔵たちのいる場所は、お城からはかなり南に位置していると見えて、爆撃目標とはされていないようだった。

しかし油断はできなかった。

どうやら第一波の爆撃は終了した様だが、第二波の爆撃があるかもしれない。

それが来れば城の南側も狙われるかもしれなかった。

逃げるなら今だったが、さいわい風は南から北に吹いている。

城の北側が集中的に狙われていた。

風向きを考えるとその火は南側には来ない。

第二波がなければ逃げる必要はない。

空襲警報は鳴り続けている。

それが聞こえなかったのは、地下室にいたということと酒が入っていたということ、そして話に夢中になっていたことが原因だろう。

酒臭い息で防空壕に行くことは憚られた。

「呑み直すぞ。」

花火師のその声で我に返った亀蔵に、もちろん異存はなかった。

「あんたら何言ってんのよ。逃げやな焼かれて死んでまうよ。」

「次来ればすべて焼かれてしまう。どこに逃げても一緒や。それより棟梁、撃墜方法を呑みながら考えるとするか。」

亀蔵の顔に驚きと同時に喜びが溢れた。

米軍の空襲は大都市には絨毯爆撃が主流だったが、地方都市の場合のそれは焼夷弾攻撃が主だった。

落とすと火を噴く仕掛けになっている鉄製の缶を風上から進入した爆撃機がばらまく。

噴き上げた火は木造家屋の街をたちまち火の海に溺れさせる。

火はまるで津波のように風下を襲う。

亀蔵たちのいる場所は風上だったことが幸いした。

その夜、それ以後の空襲はなかった。


竜門村に戻っ亀蔵は撃墜機の製作に没頭した。

花火という強い味方を得て亀蔵の製作熱に拍車が掛かった。

あの夜、あのあと花火師は亀蔵に語った。

「和歌山城を燃やして、街を火の海にした米軍は許せん。花火師を止める覚悟であんたに協力する。わしはあんたに花火を提供する。だからあんたはわしに台座を造ってくれ。」

呑み直しながら亀蔵は撃墜機の案を花火師に語ったときのことだった。

花火師は興味深げに聞いていたが、亀蔵の話のあとにそれと同じ物を提供してくれと言ったのだ。

「あんたの気持ちが本当によく分かった。わしも同じ思いや。わしにもやらせてくれ。花火の代金は台座の代金と差し引き0ということでどうな。」

もちろん亀蔵に異存のあろうはずはなかった。


和歌山大空襲の模様は竜門村からも伺い知れたようだった。

九日の真夜中、西の空が真っ赤に燃え上がり、それはまるで真夜中の夕焼けのようであったと亀蔵は帰宅後鶴子から聞かされた。

夜が明けたら亀蔵を探しに星子と月子を連れて和歌山に向かおうと考えていたとのことだった。

亀蔵が帰宅したのは夜明け前。

酔い覚まし方々、亀蔵はその後、歩き通して竜門村に帰ってきたのだった。

「昼過ぎまで寝る。桃の手伝いはその後にさせてくれ。」

「桃なんかいいから。いくらでも寝てよ。ほんまによう帰ってきてくれたもんや。」

真っ赤に腫らした目でしっかりと亀蔵を見ながら言った。

鶴子も一睡もしていなかったのだろう。

「お母ちゃんも寝ときなあよ。桃はあたしらでやっとくから。」

星子が鶴子の肩に手を掛けて言った。

「そやで。仲よく寝ときなあ。」

月子も大人びたことを言った。

「ほなまあ頼んどくか。昼からは行くわ。」

星子と月子は顔を見合わせて頬を緩めた。

「和歌山がやられたとなると、ここらもおちおちしてられやんかもしれんな。」

「ええーえっ、ここらも空襲されるん? 怖いなあ。」

ようやく起きてきた桃子が話に参加した。

「もう銃撃されてるやないか。」

花子はいつも冷静だった。

「よおーし、来るなら来いや。父ちゃんなあ、和歌山ですごい味方見つけてきたんや。すごいもん造ったるで。」

「ほんまあ? どんなの?」

「ああ、空襲のゴタゴタですぐには無理かもしれやんけどな。すごいもんが届くんや。それを乗せる台座を今夜から造らなあかん。」

桃子はそう言う亀蔵に熱い視線を向けていた。

亀蔵はその視線に当然気づいていた。

「手伝いたいんか? もちろん手伝ってもらう。これはお前と梅ちゃんの敵討ちでもあるんやからな。」

「やったあ! 早よ帰ってきて手伝うわ。花子お姉ちゃんも一緒にやろー。」

「あたしはいいよ。夜はしたいことあるから。桃ちゃん頑張りなあ。」

「うーん。しゃあないなあ。ほんなら何か困ったことできたら知恵だけ貸してな。」

「ふふ。はいよ。」

「よっしゃあー。ほな行ってきまあーす。」

「もう行くんかえ。まだ梅ちゃん食べてないんとちゃうか?」

「食べてるよ。今日は早よ行くって言うてたから。」

桃子は言うが早いか、もうそこらにいなかった。

亀蔵はお風呂場で水を浴び、髭もすっきりと剃った。

髪を乾かし布団に横になり目を閉ざしたが、眠りに陥ることはなかった。

まぶたには焼け落ちる和歌山城が蘇ってくる。

火の海と化した街から噴き上がる炎と煙とが地獄の業火のように思われ今でも身震いがする思いだった。

花火師が言っていた。

打ち上げ花火は見物客に見せることを目的としている。

百m離れた見物客が気持ちよく見上げられる角度を考えて打ち上げる。

四十五度の角度が一番見やすい。

四十五度の角度をつけるなら垂直に百m打ち上げることになる。

しかし、それを水平方向に打つとなると百mは無理だと言った。

一秒間に二百m近く飛ぶグラマンは、それくらいの距離から撃ってくる。

二百mの距離から撃たれる十二、七ミリ弾6門に耐えたあと、二十連発花火を打ち上げなくてはならない。

それで勝負になるか。

まず、敵機の銃撃に耐えるだけの装備が必要になる。

それは亀蔵の担当だった。

百五十ミリの装甲板を造れば、それは可能だ。

問題は、敵機の飛行速度。

敵機が銃撃を始めてから飛び去るまでわずかに一秒。

それで反撃ができるか。

気がついたときには敵機はもういない。

背後からは打てない。

一秒で二百m近く飛び去っている。

撃ったとしても、そのときにはもう相手は射程外にいる。

正面攻撃しかない。

同時に打つか。

敵機は瞬時に近づいてくる。

こちらの射程圏外だったとしても、次の瞬間にはあちらから圏内に入ってくる。

それなら敵機が攻撃の軸線に乗った瞬間に攻撃してもいいのではないか。

ただ、それだと同時打ちとなる。

敵機は実弾。

こちらは花火。

勝負になるか・・・。

なる!

亀蔵はそう考えた。

敵機は実弾とはいえ六門だ。

こちらは花火とはいえ二十連発。

十四発、こちらが上回っている。

充分に勝算がある。

それと、花火師が不敵な笑みを浮かべながら亀蔵に言った言葉を思い出していた。

「見物客に見せることを考えへんかったら、花火は爆弾と同じやからな。フフフ。」


昼前に一回、夕方に一回、桃畑に行って荷運びをする以外、亀蔵は作業場に籠もりっきりになって迎撃機造りに没頭した。

前面の装甲には木材の中でも最も堅い樫の木の三十ミリ材を五枚重ねた合板を造った。

しかも板と板の間にはトタンを挟み込んだ。

これなら敵の十二、七ミリ機関砲も弾き返すことができるはずだ。

あとは花火を打ち上げる筒を設置するだけだった。

横に四門、縦に五門、計二十門。

寸法は花火師の指示通りにした。

それを水平方向0度から、仰角七十度までの範囲で動かせるようにしなくてはならない。

そしてもう一つ、二十門もの花火を打つとなるとかなりの反動が生じることになる。

その反動に耐え得るだけの土台、つまりは砲塔が必要との花火師の話であった。

二輪車ではその反動に負けてしまうと花火師は言っていた。

そうなると、どっしりとした固定された土台が必要になってくる。

固定された土台は亀蔵なら簡単に造ることはできる。

しかし、土台を固定するとなると、その上に回転板のような物を乗せる必要が生まれる。

敵の侵入方向によってはそちらに瞬時に砲身を向けなくてはならないからだ。

三百六十度の範囲をカバーする回転板の上に七十度の仰角をカバーできる砲身を乗せる。

これはもう本格的な多連装砲と言ってよかった。

花火師はそれを自分の分も造ってくれと言っていた。

わしにも戦わせてくれと言っていた。

和歌山城は和歌山の住民の誇りだったと言っていた。

その和歌山城の敵を討つと言っていた。

花火師から連絡が入った。

新しく作った花火を持って竜門村に行くとのことだった。

亀蔵は台座の製造を急がなくてはならなくなった。

垂直方向のハンドルを回せば水平方向に自在に回る回転板を木製のギアで造らなくてはならない。

ギアやネジは金属性でも大変な加工を必要とする。

それを木製で加工することになる。

試行錯誤の繰り返し。

花火師との約束日は一週間後。

昼前と夕刻の桃の荷運び以外は作業場に籠もりっきりになった。

学校から帰りお風呂沸かしの終わった桃子も作業場に顔を出して手伝った。

何度も何度も失敗を繰り返し、花火師の来る前日、ついに試作機第一号が完成した。

あとは花火を装填してみるだけだった。


花火師から連絡が入った。

粉河の駅に到着して、竜門橋を目指して歩くとのことだった。

亀蔵は急いで竜門橋に向かった。

亀蔵が橋の南端に着いたとき、ちょうど北端から見覚えのある花火師と覚しき男が橋の上を歩いてくるところだった。

二人は橋の真ん中で再会した。

「遠いところよく来てくれました。疲れたでしょう。まずは我が家でお休み下さい。」

「いや、たいして疲れてはおりませんよ。それよりここですか、現場は。」

花火師は橋の上からぐるりと辺りを見回しながら亀蔵に尋ねた。

「そうです。最初にわしが襲われたのは橋の南端です。」

亀蔵は端の南端を指さしながら言った。

花火師は亀蔵の指さす方を見ながら尋ねた。

「よく逃げられましたな。」

「必死でした。グラマンが真っ直ぐわしを目がけて急降下してきたもんやから、こらあやられるっと思った瞬間には川に飛び込んでいましたわ。」

花火師は橋の下を覗き込んだ。

梅雨時期のことで川の水はかなりの量が確認できた。

花火師はしばらく川の流れを眺めていた。

荷物を橋の上に下ろしてから言った。

「まだしばらくは梅雨が明けませんな。花火の大敵は雨です。雨の中でも上げられないことはありませんが、かなりの制約を受けることは事実です。一旦湿るともう上げることはできません。わしが今回持ってきたのは花火だけやない。花火は火と火薬とで美しい花を空に描くもんです。しかし、原理は爆弾と同じです。飛び散らせる火薬を金属片に変えれば殺傷力のある立派な爆弾になります。わしが初めて作ったその爆弾も持って来ました。ここでそれを試射してみたい。どうです? できますか?」

亀蔵は花火師の言葉をある種の驚きを持って聞いていた。

花火師は亀蔵の依頼を当初は断った。

しかし、和歌山が大空襲を受けたあの夜に花火師は大きく生き方を変えたことが、今の花火師の言葉から強く感じ取ることができた。

和歌山のシンボルであり、精神的な支柱でもあった和歌山城の炎上と歴史のある市街の消失が花火師の人生観を大きく変えたのだ。

「わしは花火師であることを辞めて、これを作ったんや。これを作ろうと思った時点で、わしは花火師でなくなった。これをぶっ放したとき、わしは、殺人者になるかもしれん。しかしそれでもわしは、やらんわけにはいかよになった。あんたにはその覚悟はありなさるか?」

「もちろんや。わしは自分や娘のためだけにこんなことを考えたわけやない。これはわしの大工としての意地やな。ただ、あんたに会ってちょっと考えが変わったんや。まあ聞いてくれ。大工はなあ、木の命を一旦は奪う。けどな、それでまた新しい命を生み出すわけや。木を生かすんや。わしには戦争のことはわからん。そやけど戦争で命を奪うなら、そこから新しい何かを生み出さなあかん。グラマンのやってることは戦争やない。ただの遊びや。遊びで人を殺すことは許せん。そこからは何も生まれん。そやからわしが教えてやろと思うよになったんや。グラマンを落とせんでもええ。あいつに自分のやってることの愚かさを思い知らせればそれでええんや。」

亀蔵の話を聞いていた花火師の顔が緩んできた。

「あんたはすごいな。わしはただもう米軍への復讐心だけでこれを作ってきただけやったけどな。あんたみたいな気持ちになれば、花火師を辞めやんでもええかもしれんな。」

「ああ、辞める必要はない。二人でグラマンの度胆を抜いてやって、それで終わりにしよう。その後はまた、それぞれの道に戻ればええんや。」

「あんたのお蔭で気が楽になったわ。あんたはやっぱりすごいわ。」

「いやあ、あんたにそんなこと言われたらここそばゆいわ。わしはあんたの言葉で目を覚まされたんやさかえな。初めてあんたの仕事場にいったときや。どの花火師訪ねてもわしと同じやと言われた。あれでわしは目が覚めたんや。あんたのおかげやわ。」

花火師は亀蔵に人を殺すために花火を作っているわけやないと言った。

花火は強力な火薬を使う。

まかり間違えば、あるいは目的を違えれば殺傷力のある爆弾を作ることも可能だった。

人に危害を加えるような花火師は、花火師を名乗ることはできない。

その心意気のようなものが亀蔵の心に響いた。

大工は刃物を使う。

使い方を誤れば人に危害を及ぼすのは花火師と同じだった。

道具は正しく使ってこそ、それを人のために活かすことができる。

亀蔵が大工としての誇りを失わずに済んだのは、花火師のお蔭というのはそういうことだった。

「そしたら二人で度胆抜いたろら。そやけど一回試射したいな。どうな、できるか?」

「するんやったらここしかないな。」

「そやけど、ここでぶっ放したら憲兵飛んでくるんとちゃうか。」

「そうやろな・・・。うーん。そうや。ええこと思いついたわ。そもそも花火を思いついたんは娘の一言が始まりやったわ。それでいこか。」

「? どうすんのや?」

「祭や。粉河は毎年この時期に粉河祭がある。戦争でこの二年は中止になってるんやけどな。でも皆祭がしたくてうずうずしてるんや。まあ祭そのものは今年も無理やろけど、替わりに花火だけでもさせてくれって頼んでみるわ。花火上げて戦意高揚を図るって言うたら、うまいこといったらさせてくれるかもわからんやろ。その花火上げたときに試射したらええんと違うか。」

その後、亀蔵は花火師を自宅に招き歓待した。

和歌山の方は食糧事情が苦しくなっているとのことだったが、田舎の竜門では自家栽培の野菜はふんだんにある。

季節の野菜や亀蔵の釣った鮎でもてなした。

花子が料理の腕を奮ったのは言うまでもなかった。

午後、亀蔵は花火師と共に粉河の町役場を訪れ、花火興行の許可を申請した。

戦意高揚という興行の趣旨には賛同を得たが、見物客を大勢集めるようなことは時局柄いかがなものかと難色を示された。

そこで亀蔵は、開催日時を一般には周知せず突然行うのはどうかと詰め寄った。

意外性が反って人々の戦意を高めるのではないかと訴えた。

空襲と取り違えて混乱するのではないかと顔色を曇らせる向きもあったが、そんなものは花火が一二発上がればすぐに払拭でき、あとは歓喜に包まれると力説した亀蔵の意見がついに受け入れられることになった。

日時が決まったことで花火師は一度和歌山に帰ることになった。

花火興行に向けて追加の品を作るためであった。

「一世一代の興行にしたるで。」

花火師は最高の笑顔と輝く目を亀蔵に見せ和歌山行きの汽車に乗っていった。

「さてと。わしも迎撃機を完成させないとな。」

迎撃機は九割方出来上がっていた。

あとは花火師が持ってきた発射装置を台座に取りつけるだけだった。

「うまく作動してくれればいいがな。」

亀蔵の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

亀蔵がそういった表情をするときは成功をはっきりと確信しているときだった。

この迎撃機で花火をまともにぶっ放せば、もしかしたら本当に撃墜できるかも知れない。

しかし、もしそんなことになったとすれば、竜門地域が米軍の大規模空襲を受けるかもしれない。

自分個人の意地のために竜門地域を焼け野原にできるか。

それはできない。

迎撃機を造る亀蔵の意識に変化が起こったのは花火師との出会いと、そのおかげで完成せることができる迎撃機の威力が原因だった。

撃墜が目的ではなくなったのだ。

あの操縦士に大切なことを教えてやる。

それは言葉では言い表し難いものだった。

撃墜しようと思えばできた。

しかし、敢えてしない。

なぜかわかるか?

と言った問い掛けだった。

そのような攻撃をしなくてはならない。

あとは相手次第だ。

普通の思考の持ち主なら、その意図するところに気づくだろう。

ただ相手は日本の若者ではなく、米軍の若者だ。

日本人には言わずともわかるということがある。

それが米軍の若者にも通じるだろうか。

一抹の不安めいてものがあった亀蔵だったが、言葉よりも大切な命というもののやり取りをするのだから、気づかずにはおられまいよという考えも一方にはあった。

要はわしの攻撃の仕方に掛かっている。

ちゃんとやらないとな。

その通りだった。

ちゃんとやらなかった場合、それは亀蔵の命にも関わってくるのだ。

亀蔵も命を落とすわけにはいかない。

亀蔵も命を落とさず、米軍の若者に大切なことを教える。

これは国と国との戦いではない。

人と人との存在価値の戦いだ。

家路を急ぐ亀蔵の足に力が漲っていた。


亀蔵は作業場で花火玉を手に取った。

花火玉の中にはきれいな花を描く火薬ではなく、小さな鉄片が詰められている。

この花火玉が炸裂すれば、鉄片は四方八方に飛び散る。

これを二十連発の発射筒で放つ。

グラマンがどの方向、どの角度で突っ込んでこようと確実に当たる。

当たる場所が悪ければ、最新鋭の戦闘機といえども火だるまになるだろう。

思えば竜門橋の開通式。

グラマンが亀蔵を狙ったのはほんの遊びだったかもしれない。

しかし、それが亀蔵の逆鱗に触れた。

遊びで人を殺すんじゃない!

日本人を本気にさせればどれほど恐ろしいか目に物見せてやる。

一度目の迎撃は失敗だった。

しかし、二度目は増槽に穴を開けた。

今度が三度目の正直か。

亀蔵はもう一度花火玉に目を向けた。

この玉が戦闘機を落とすことになる。

戦闘機を落とされた米軍が、その後どんな攻撃を仕掛けてくるか。

亀蔵はそのことについては、今は考えていなかった。

亀蔵の胸中に渦巻いていたのは、その一歩手前の、戦闘機を落とすことの是非だった。

「お父ちゃん、お手伝いさせてえー。」

作業場に桃子が飛び込んできた。

「おお、桃子か。びっくりするやんか。」

「お父ちゃん、どうしたん? 何かぼーっとしてたで。」

「ううん。いや何でもない。お風呂はできたか?」

「うん。もういつでも入れるで。」

「そうか。すまんな。」

「お父ちゃん、それ花火なん? それでグラマンやっつけるんやろ? すごいなあ。」

「うん。まあなあ。」

「なんやあ。お父ちゃん元気ないなあ。グラマン落とす自信がないんやろ。あかんなあ。」

「ははは。そう見えたか?」

「うん。お父ちゃんはいつもは何にでも自信いっぱいやから。でも今日は違うわ。」

「お前にはかなわんなあ。」

「ほれ見てみい。いつものお父ちゃんやったらそんなこと言わんもん。あっ、わかった。花火使うの心配なんとちゃう? 初めてやもんな。桃子も花火玉ら見るの初めてや。一回試しに打ち上げてみたらわ?」

「試し打ちか。」

「そうやで。やれへんの?一回やってみよう。」

「ううん。」

「何や。それも乗り気やないんかあ? そえとも、もう試し打ちするの決まってるん?」

「うっ。」

「何やそうなんや。もう決まってるんや。いつなん? いつ打ち上げるん?」

「はははは。ほんまにもうーやな。お前には隠し事ができへんな。」

亀蔵は絶対口外するなと念を押して花火の試し打ちの計画を桃子に話した。

桃子の目が爛々と輝き出した。

その様子を見た亀蔵には、その後の桃子の行動が手に取るようにわかる気がした。

おそらく明日には竜門村中にこの話は広まっているだろう。

好奇心の強さが満面の笑みとなって現れている桃子の顔がそれらすべてを物語っていた。

まあそれは仕方がないか。

それよりも花火玉の中身について花火師と話をつけないといけない。

いまの亀蔵にはグラマンを落とすことは一番の目標でなくなっていた。

若き戦闘機乗りに重大な警告を発し、二度と愚かなことをさせないための攻撃。

そのような花火が造れないか。

試射の日はすぐそこに迫っていた。


試射は十八日、午後四時。

場所は紀の川河川敷き竜門橋付近。

もちろんそのような詳細の発表はない。

しかし、蛇の道は蛇というか、人の口に戸は立てられないというか。

誰言うとはなしに噂は広まっていった。

試射当日、紀の川の河北も河南も老若男女大勢の見物客でごった返す盛況となった。

「これはまた、えらい人だかりになってきましたな。」

花火師は粛々と準備を続けながら一息ごとに増えるかと思われる人波を見ながら言った。

「わしが初めに造った花火やったら、大勢の怪我人が出てしまうとこやったかな。」

そう言って花火師は笑った。

「そやけど、造り直してもろた花火でもえらいことになりますよ。」

「まあ水で洗ったら落ちますよってに大丈夫ですわ。」

「ははは。そうですな。」

亀蔵と花火師は楽しそうに笑いながら準備を続けていった。

新しい花火とは、どのような仕掛けなのか。

それは打ち上げたときにわかる。

その仕掛けの中に、米軍操縦士の度胆を抜いて二度と馬鹿な遊びを仕出かさない何かが施されているに違いない。

「さて、これで準備は終わりです。時間はどうですかな。」

「今で三時半ちょっと過ぎたとこですな。」

「あとちょっとありますね。まあ休憩しましょうか。」

「そうですな。」

「それはそうと亀蔵さん。試射の時間をどうして四時にしなさった?」

「ははは、いやあ、それがですね。目の上のたんこぶうーっじゃなかった、目に入れても痛くないわしの娘に頼み込まれましてな。」

「なるほど。まあそんなとこやろと思ってました。美人四姉妹って評判ですからな。あんたさんもこれから大変ですなあ。」

「いやあ、お恥ずかしいことで。わしにそんな無理難題吹っ掛けるのは一番ちっこい四番目ですわ。」

「あの子ですかな?」

花火師のその視線の向こうから土瓶を持った桃子がこちらにやってくるのが見えた。

桃子は近くまで来ると花火師にぴょこんとお辞儀をして土瓶を川原に置いた。

「お父ちゃん、これ冷たいお茶や。お母ちゃんが持って行けって。はい、これ湯呑み。」

「ああ、すまんな。」

亀蔵は桃子から湯呑みを受け取った。

桃子は花火師にも湯呑みを手渡し、お茶を注いだ。

「桃子、まもなく始める。危ないからできるだけ離れとけ。でないとどうなってもしらんど。真っ赤な桃になってしまうど。」

「はあーい。わかりました。」

花火師が側にいるからだろう、桃子はいつになく素直に亀蔵の言うことを聞いた。

桃子が離れていったのを確かめたあと、花火師が亀蔵に言った。

「ほな亀蔵さん。ぼちぼち行きましょか。」

「わかりました。お願いします。」

二人は立ち上がった。


花火会は盛況だった。

夜間の灯火管制、食料不足、軍事訓練、兵役応召、戦死広報等など。

いくら勇ましいスローガンを掲げてはいても村民の窮乏忍耐はすでに限界だった。

そんな折りの花火である。

色とりどりに大空に描かれた大輪の花々は、 日頃の鬱屈したものを一気に吹き飛ばしてくれた。

亀蔵は桃子に口止めしていたが、そんなことは無理だということは亀蔵自身がよく分かっていた。

桃子のことだから花子や梅子には言うだろう。

花子は口は固いが、梅子は分からない。

梅子が家人にしゃべればもうあとは一気に広まっていくことは目に見えていた。

まあいいだろう。

亀蔵はそう思いながら花火当日を迎えていたのだ。

花火の中身は亀蔵の申し出により初めの計画とはかなり違ったものになっていた。

見物人がいたとしても、結果的にそれは危険なものではなくなっていた。

見物人からすれば、亀蔵の本命の花火は失敗作ぐらいにしか思われないのではないか。

その目的の花火も大成功だった。

垂直に打ち上げられる花火に混じって、ほぼ水平に打たれた二十連発の花火。

百mほどの煙の尾を引いて飛んだかと思うと、一斉に弾けて真っ赤な幕を張ったのだ。

その幕は直径五十mにはなった。

これならその幕の中にグラマンは必ず取り籠める。

くもの巣に掛かるチョウのようなものだ。

真っ赤な幕はグラマンの操縦窓にべったりと張りつくだろう。

薄い幕であるから先が見えないということはない。

操縦をするには支障はない。

しかし、目の前は真っ赤になり、まるで夕陽の中を飛ぶかのような錯覚に陥るはずだ。

それが操縦士に何を暗示させるか。

ペイント弾だということはすぐに理解できるはずだろう。

ペイント弾なら当たったとしても命に別状はない。

真剣ではなく竹刀で打たれるようなもの。

しかし、実戦の中を生きてきた操縦士なら、仮に竹刀であったとしても一本取られることの重大さは理解できるはずである。

竹刀が真剣であったならば命はない。

つまりペイント弾ではなく実弾であったなら、命はなかったということになる。

それをあえてペイント弾にしたのはなぜか。

いつでも殺せるが殺さなかったのはなぜか。

操縦士は嫌でもそれを考えるだろう。

考えれば、答えは自ずと導かれるはずだった。

馬鹿な真似はやめろ!

お前のやっていることは戦争ではない。

遊びで人を殺すような真似はするな!

そういったメッセージであることに気づくはずだ。

花火の中身を変えようと提案した亀蔵の思いを花火師は快く受け入れた。

そうなんだ。

わしらも命を軽々しく扱ってはいけない。

もう少しでわしらも同じようなことをしでかしてしまうところだった。

戦争は私闘ではやない。

しかし、わしらがしようとしていたことは私闘だった。

危なかった。

よく止めてくれた。

亀蔵さん、感謝します。

亀蔵と花火師の二人は、大きく輪になって広がった真っ赤な幕を見て笑顔を見せ合った。

紀ノ川の南岸の川原に村人たちの歓声が響き渡っていた。


昭和二十年七月二十一日。

雷雨と共にかなりの強風をもたらした熱帯低気圧が和歌山に上陸。

線路の床が三十mに渡って崩壊。

紀ノ川も大増水。

しかし、竜門橋は軽傷だった。

流木が欄干の一部を破損した以外、天板も橋柱も、もちろん基礎も無事だった。

亀蔵が心血注いだ竜門橋の真価が発揮された。

翌日から亀蔵は竜門橋の補修に掛かった。

欄干の補修程度ならたいした日数も掛からないが、亀蔵には他に考えがあった。

橋の中程二か所に東屋のような休憩所を造ったのだ。

円形の机を囲む四脚の椅子。

円形の机は中華料理店の机のように自由に回転させることができた。

周囲は頑丈な壁で囲われているけれども、四方に一か所ずつ縦長の何もない空間が開いている。

机の上には囲炉裏のように囲われた四角な仕切りが設けられていた。

「亀蔵さん。こりゃいったい何ですか?」

橋を渡る人ごとに亀蔵に尋ねていくのだった。

「まあ、あることに使うんやけど。それが終わった後は皆さんの憩の場にしてもらったらええですよ。ここで焼き肉でもして一杯なんてのもええでしょう。」

「そやけど亀蔵さん。壁で囲われてるさかえに見晴らしはいまいちですな。」

「まあまだまだ、戦争中ですからな。」

「なるほど。そういうことですか。そやけど、戦争中の今はまだのんきに一杯なんてやっておれませんけどなあ。」

「大丈夫。日本が勝ったらここで戦勝祝いにまた花火でも上げながら一杯できますよ。」

「そうですなあ。そうなったらええですけどなあ。」

戦争のくわしい経過は知らされてはいなかったが、どうやら日本の旗色は悪そううだということは、口にこそ出せはしなかったが誰しもうすうす感じつつあることは事実だった。

どういうことになっても、わしらはわしらの生き方を続けるだけだ。

紀ノ川の流れが太古の昔から悠久の時の流れのように続いているように、わしらもわしららしく生きていくだけだ。

そう思いながら作業を続けていた亀蔵の耳にサイレンが響いた。

「来たか!」

一言そうつぶやいた亀蔵は作業を中止して家に急いだ。

今は午前十時。

今から大阪を爆撃するとなると、その帰路は午後一時か二時。

米軍の爆撃機の大編隊は陽光に機体を輝かせながら、その一機一機がまるで巨大な竜の鱗のように見えた。

上空遙か小さすぎて目視は困難だったが戦闘機もいるはずだった。

急がなければならなかった。

まず、花火師に連絡を入れる。

早めの昼を食べて、迎撃装置を運ぶ。

敵が舞い戻ってくるまでに花火師が到着すればいいが、急なことだから来れなくても仕方ないだろう。

もしものときは一人で戦うまでだ。

それだけのことを思い巡らせながら亀蔵は川沿いの堤防を家に急いだ。

亀蔵は相手の出方について思案を巡らせていた。

これまでは急降下での銃撃を相手は敢行してきた。

しかし、それでは上昇に移ったときに機体の腹を晒してしまうことになり、そこを亀蔵に狙われる結果となった。

相手もそこは警戒してくるはずだろう。

今回はどういった攻撃をしてくるか。

まさか、爆弾を落としてくるとは思えないが、もしそんなことになればそのときはそのときだ。

取りあえずこちらとしては、あくまでも銃撃による攻撃を想定した対処法を考えることにしようと亀蔵は思った。

迎撃装置は回転板の上に設置する。

相手がどの方向、どの角度で突っ込んでこようとも充分対応できる。

あとは迎撃弾の発射のタイミングだけだ。

それさえ間違えなければ、この作戦は必ず成功する。

すべての段取りを終えた亀蔵は再び竜門橋へと戻った。


花火師が竜門橋に現れたのは午後二時を回った頃だった。

橋の北端に大きな荷物を背負った花火師が、二三人の若手にも荷物を持たせてやってきた。

橋の中央に設えられた発射台の座席に腰掛けていた亀蔵に陽に焼けた笑顔で声をかけた。

「遅くなりました。お客さんはまだ来ていませんかな?」

「まだです。急な呼び出し申しわけありません。急いでのお越し有り難うございます。」

花火師は連れの者を指図して荷物を開かせ準備に掛からせた。

「それは、新しい花火ですか?」

「いや、新しいというか、これらは、まあこないだのと同じものですが、こっちのは、ちょっとした趣向を凝らしたものですわ。」

花火師は悪戯っぽく笑いながら花火玉のいくつかを手に取って亀蔵に見せた。

「どういう仕掛けになってるんですか?」

「ふふふ、それは打ち上げてからのお楽しみですわ。」

花火師は花火玉を付き添いに手渡し準備をするように指図した。

どうやら付き添いの若者たちは花火師の弟子のようだった。

「それより亀蔵さん。大事な話があります。グラマンの攻撃についてですが。」

そう言って花火師は竜門山を仰ぎ見た。

花火師につられて亀蔵も頭を上げた。

「グラマンはこれまで二回、あの山から急降下してきたんですよなあ。」

「そうです。一直線にこの橋に向かってきました。」

「そこなんです。はたして今回もグラマンはそう来るかどうか。花火師は花火を上げるときに観客の意表を突くような演出を心がけます。これは、わしの花火師としての勘みたいなものですが、グラマンも今回はこっちの意表を突いて来るんやないかと思うんです。」

「つまり、山から来ると見せかけて、別の方から襲ってくると。」

「わしならそうします。仲間と語らって二三機でやります。一機は山の上から。そっちに気を取られている隙に別の一機は背後から。そして狼狽えているところへあと一機が側面から。花火もそれと同じです。続けて打ち上げたあと、一瞬間を置いて予期せぬ所に第二段を打つ。そして観客の意識がそちらに向いた隙を狙ってまた別の方に最後の大打ちをする。戦闘機の攻撃も一方向からばかりだと対処もしやすい。ときには意外な方から攻めれば相手は混乱してしまう。そこに最後のとどめ。わしならそんな攻撃をしますなあ。」

「なるほど。前後左右すべてに注意を巡らさなくてはならんということですな。全方位は大丈夫ですが、しかし、それに見合った花火玉の数が足りるかどうか。」

「フフフ、だから今日はたんまりと持ってきましたわ。」

花火師は急いで準備をしている弟子たちを振り返って笑った。

三人の弟子たちは、それぞれ北、東、西の方向に向かって花火の筒を設置していた。

それを見た亀蔵は驚いて花火師に言った。

「あれは、あの人たちが打つということですか。でもあれじゃあ、あの人たちも打たれてしまうことになる。何の防御板もないやないですか。そんなことさせるわけにはいきませんよ。止めさせて下さい。」

亀蔵は必死になって花火師に訴えた。

「まあ亀蔵さん、落ち着いて下さい。わしらは花火師ですよ。花火師は発射装置のすぐ近くにいるわけではありません。わしらは橋の下の安全な所にいさせてもらいます。そしてここぞと言うときに仕掛け花火を打ち上げるんです。花火師は火薬を使った命懸けの仕事をしていますが、グラマンのために命を落とすことは本望やありません。花火師は観客のために命を懸けるもんです。」

花火師は亀蔵を伴って橋の下に下りた。

橋の下の基礎と土台は亀蔵がコンクリートをふんだんに使って造り上げた要塞のような構造になっていた。

その頑丈さは今回の増水でもびくともしなかったことで証明されている。

「ここなら爆弾を落とされても大丈夫でしょう。ここから橋の上の花火の仕掛けに点火します。棒の先に火種を付ければ簡単に点火ですますよ。そこらはわしらは専門家ですから間違いはありません。」

餅は餅屋と言うが、花火師の作戦は完璧に思えた。

花火師たちが北、東、西方向を受け持ってくれるとすれば、亀蔵は南の竜門山に専念できる。

これでグラマンが三、四機襲って来たとしても充分対処できることになった。


午後三時を回った。

西の空に陽に照らされながら近づく小さな一つの機影が認められた。

梅雨が明けて十日になるだろうか、空は午後になっても快晴、雲一つなかった。

機影が大きくなってくるにつれ、その不気味なエンジン音も辺りに轟き始めた。

亀蔵と花火師は橋上で機影を見つめていた。

花火師が弟子の方を向き、軽く指を橋下に向けた。

弟子たちは橋の下に下りていった。

「一機ですか。敵さんどう出ますかな。」

「あの飛航路ならいつも通りの急降下をしてくると思います。」

「それなら、亀蔵さんだけで勝負は決まりそうですな。ただ、用心しておかないと敵さんも今回は慎重になってるはずですから。」

前回グラマンは亀蔵の攻撃によって増槽を撃ち抜かれていた。

慎重になるのは当然だった。

エンジン音が高くなった。

グラマンが上昇に移ったのだ。

紀ノ川に沿って東進してきた飛航路を離れ、竜門山頂を目指して高度を上げ始めた。

亀蔵と花火師は橋上に立ってそれを見上げている。

グラマンが竜門山頂に達した。

機首を北に向けた。

それを確認した亀蔵は迎撃装置に入った。

「六時の方向。仰角六十度。」

亀蔵は自分に声を掛け発射装置をグラマンに向けた。

グラマンが機首を下げた。

亀蔵の腕に力が入る。

グラマンが急降下を始め、それを狙う亀蔵とが睨み合う。

花火師がまさに点火するその瞬間、グラマンが再び機首を上げた。

「んっ?」

肩透かしを喰わされた亀蔵と花火師が戸惑う間もなく、グラマンは高度を上げながら二人の上空を北に飛び過ぎていた。

そのまま北側の和泉山脈付近まで飛び去ったかと思うと、大きく輪を描くようにまた紀ノ川の方に戻ってくるような飛航路に移っていった。

「どうやら、用心してこちらの様子を見ているようですな。」

「こちらの手の内を確認した後に、勝負を仕掛けてくるということですかな。」

「そうでしょうね。」

「先ほどので、少し手の内は読まれてしまいましたかな。」

「いやあ、大丈夫です。相手はおそらく本物の銃弾をこちらが用意していると思ったでしょうが、そうやって警戒してくれた方が、こちらとしては好都合ですよ。」

「そうですね。その方がこちらの真の狙いが達成できますからね。」

銃撃かと思った瞬間、それが実はペイント弾だったと知るグラマンの操縦士は、その意味するところを深く考えるだろうと二人は期待していたのだ。

グラマンは紀ノ川の上空に達するところで高度を一気に下げた。

そのまま機首を東に向け、紀ノ川と平行に低空で竜門橋に向かって迫ってきた。

亀蔵は発射装置を西に向けた。

「九時の方向。仰角0度。」

しかし、お互いの射程距離に入る前に、再びグラマンは急上昇に移り、竜門橋上空を東に飛び去っていく。

それを見送った花火師が亀蔵に言った。

「亀蔵さん。次は来ますよ。おそらく竜門山からでしょう。」

「どうしてそう思いますか?」

「三度目の正直って言うやないですか。それに太陽の位置です。」

花火師と亀蔵はそろって太陽を振り仰いだ。

夏の午後三時、太陽は竜門山頂から少し西にあった。

「なるほど。太陽を背にして突っ込んでくるということですか。だから今までも竜門山から攻めてきたんですね。」

「そうです。だとすると、発射装置の向きも角度も決まりました。」

「わかりました。敵さんより先に設置して待っていてやりましょう。」

亀蔵は発射装置を回転させた。

「七時の方向。仰角六十度。」

「あとは発射のタイミングだけです。」

「それは、わしがよくわかっています。なんせこれが三度目ですからな。」

「こちらも三度目の正直ですか。」

二人は声を揃えて笑い合った。

「師匠。わしらの出番はまだですか?」

橋の下から花火師の弟子たちが声を掛けてきた。

「うーん。そうやなあ。お前らの出番はないかもしれんなあ。」

花火師は橋の下を見てから飛び去っていくグラマンに目を向け直して言った。

「そんなあ。せっかくこんだけの用意してきたってのに、それはないですようー。」

「まあ、取りあえず準備だけは怠らずやっておけ。その時が来たら、わしが大声で合図する。」

花火師たちのやり取りを横目に見ながら、亀蔵はグラマンの動きを追っていた。

グラマンは背の山の上空、小さな鳥のようになっていた。

 その鳥は緩やかに南に旋回し始めた。

 それを見た花火師は亀蔵を見た。

「やっぱりやな。亀蔵さん、いよいよ勝負のときですよ。」

「そうですね。なんだか、武者震いしてきましたよ。」

「ハハハハハ。三度目にもなる亀蔵さんが何をいってますか? それを言うならわしの方です。なんせわしはこれが初の米軍機迎撃ですから。」


南に機首を向けたグラマンはエンジン音を上げ竜門山に続く山稜を駆け上がり始めた。

飯盛山を越えた辺りから機首をさらに上に向け高度を上げていく。

竜門山の山頂の平らな所を過ぎたグラマンはエンジン音を落とし旋回。

太陽の中に吸い込まれるかと思われた次の瞬間、機首をこちらに向けたグラマンは竜門橋の亀蔵たちに向かって真一文字に急降下を開始した。

「来たぞ、亀蔵さん。今度はぶっ放してくる。抜かるな!。」

「わかってる。任せておけー!」

花火師は橋下にも叫んだ。

「お前らあー。ええかあー!」

橋下からは、「うおーい。」という唸り声のような叫びが伝わってきた。

太陽を背にして突っ込んでくるという花火師の予測が的中したおかげで、亀蔵は発射機の方向や仰角を一切修正する必要がなかった。

あとは発射のタイミングだけだった。

それは亀蔵はお手のものだった。

今回で三度目の迎撃となる。

ただし、今回の花火爆弾は射程距離がそれまでの石弾の二倍はある。

花火が炸裂する前にグラマンがその射程内に入ってしまえば、肝心のペイントがグラマンに付着しない。

前回よりも二呼吸ほど早く発射しなければならない。

花火爆弾の直径は五十m。

射程は百m。

グラマンとの距離が二百m以上の地点で発射すれば、直径五十mの真っ赤な球体の中にグラマンは突っ込んでいくことになり、その機体が真っ赤に彩られることになる。

亀蔵は目視でグラマンとの距離を測った。

竜門山頂で七百m。

「六百―。五百―。四百―。三百―。」

「亀蔵さん。いよいよじゃあー。」

「よし。いくぞおー。」

亀蔵は花火爆弾に点火した。

「発射あー!」

花火爆弾は、花火師によって改良を加えられていた。

普段使われる仕掛け花火は導火線によって仕掛け火が導かれる。

しかし、それでは撃ち遅れてしまう。

花火師は導火線を廃して点火と同時に発射される装置を開発してくれていた。

しかも噴射装置も通常の二倍の威力に改造。

発射された花火爆弾は凄まじい勢いでグラマン目がけて、それはまるで本物の高射砲のように打ち上げられた。

二十発の一斉射撃。

ブワアーン。ブワアーン。

グラマンと三百mの地点で発射された花火爆弾は、グラマンと二百mの地点で炸裂した。

二百mはグラマンの機銃発射の地点となる。

ズダダダダダダダ。

機銃発射と同時に炸裂した花火爆弾が作った巨大な二十個の真っ赤な球体が、折り重なるように何重にもグラマンを包み込んでしまった。

ガガガガガガガガ。

グラマンの発射した機銃弾が竜門橋に着弾する。

亀蔵と花火師は防弾壁の中に入っていた。

グワーン。

防弾壁に打ちつけた銃弾が凄まじい衝撃音を響かせる。

「亀蔵さん、大丈夫か。」

「ああ、なんとか助かったかな。この板がもうちょっと薄かったら、やられてたな。」

そのとき二人の頭上をグラマンが飛び去った。

グラマンはまるで火の鳥のように真っ赤に彩られていた。

真っ赤に色塗られた鳥は、血のようにペンキを滴らせながら夏の太陽に艶々と輝いた。

遠ざかってゆく真っ赤な鳥を見上げながら花火師が言った。

「ありゃもう戻ってきませんな。恥を知るなら来ないでしょう。」

「そうですね。あれが本物の爆弾ならもうとっくに死んでますからな。」

「我々日本人なら恥ずかしくて自決するところでしょう。敵さん達だって、あの真っ赤な色の意味くらいはわかるでしょう。」

「本当に血のように赤いですな。」

グラマンは和泉山脈の上で西に機首を変え、そのまま和歌山に向かって飛び去っていった。

おそらく、竜門山上空を避け、味方艦隊に戻るのだろう。

あの真っ赤な機体で臆面もなく戻れるものだろうか。

しかし、戻る以外他に道はない。

ペイントの赤は洗い流せば落とすことはできる。

だが、操縦士の受けた恥ずかしさはおいそれとは落ちるまい。

操縦士がこの先、どのような行動に出るか。

それはもう亀蔵にはどうでもよかった。

亀蔵や桃子たちは、あのグラマンに遊びで命を狙われた。

亀蔵は何度か命のやり取りをした。

だが、殺されてはいない。

だから、亀蔵も相手を殺してはいけないのだと思いを変えることにしたのだった。

そして今、敵操縦士に戦闘機乗りとして撃墜されるよりも厳しい恥辱を与え得た。

もうこれで充分だと亀蔵は思った。

あとは敵操縦士がどうするか。

それはもう亀蔵の与かり知らぬことだった。

もし、もう一度来るならもちろん相手はする。

しかし、それはもうあるまい。

何となく亀蔵はそんな気がしていたのだった。


八月になった。

今が桃の最盛期の鶴子と星子と月子は、毎日朝早くから畑に出ていた。

そんな三人を見ながら亀蔵は考えていた。

星子と月子、どちらがこの家を継いでくれるだろうか。

亀蔵としてはそれはどちらでも良かった。

鶴子を助けてくれて、一緒に桃畑をしてくれるなら。

星子は二十一歳。

月子は十八歳。

二人ともそろそろの年頃を迎えていた。

戦争が終われば、二人に話してみるか。

戦争が終わればか・・・。

どんな形で終わるだろうか。

それはおそらく日本にとっていい結果ではない終わり方だろう。

いくら勇ましい掛け声で大本営が戦況報告を続けたところで、国民の耳や目はごまかせない。

これだけ連日、日本各地が空襲を受けているのだ。

こんな田舎の竜門村にまで蝿のようにうるさいグラマンがちょっかいを出しにくる。

日本の旗色は極めて悪いと誰しもが思っていることだった。

日本がもし負ければ、暮らしはどうなるか。

わしらはともかく、女子供はどうなるか。

娘たちの結婚など夢のまた夢となるかもしれない。

そんなことを漠然と思っていた矢先のことだった。

衝撃的な情報が弟子によって亀蔵に届けられた。

「町が消滅?」

「そうです。一発の爆弾で。」

「たった一発でか?」

「そうです。ピカッと光った瞬間にすべてが消えていたんやと聞きました。」

「ピカッと光った瞬間にか?」

「そうです。ピカッと光ってドーンとすべて吹き飛んだそうです。」

「ピカッ、ドーンか?」

「そうです。ピカドンです。」

それが、原子爆弾という新兵器であるということは、そののちしばらくしてわかった。

原子爆弾は、八月六日広島に落とされた。

九日には長崎にも。

国論は大きく揺さぶられ二分された。

そしてそれは、竜門村でも同じであった。

亀蔵の弟子たちの意見も二分されていた。

「これはもう無理や。そんな爆弾落とされたらもう終わりや。」

「何言うてるんや。これからやないか。徹底抗戦あるのみや。」

「あかんて。もう日本に戦う武器ないやないか。」

「竹槍でもノコギリでもノミでも、何でも持って戦うんや。」

「そんなもんでどなえやって戦うんや。ピカッって光ったらもう終わりやで。」

「一億玉砕の覚悟で戦うのみや。」

「そんなこと本間にできることやないやないか。そうですよね、棟梁。」

意見を求められても亀蔵にも即答はできなかった。

「棟梁は戦うに決まってるやないか。グラマンを撃退したんやさかえ。」

「そやけどあれはたった一機の戦闘機や。今度の相手はピカドンやで。どなえやって戦うんや。光った瞬間に終わりなんやで。」

「そえでも戦うんや。棟梁のことやさかえ、また何かすごいこと考えるはずやで。」

原子爆弾は地上五百mの高さで炸裂する。

花火爆弾の飛距離はせいぜい百m。

五百mの高さに対処することなど、どだい無理な話だった。

それに対処するのは陸軍航空隊の任務だったが、それができていないということは、すでに航空隊が機能していないということを意味する。

敵爆撃機の迎撃に向かった航空隊はすべて撃墜されているのか、それとももはや迎撃の航空隊は存在していないのか。

本土防空の航空隊ですらそうであるなら、前線の航空隊は推して知るべしだろう。

戦略の基本は敵爆撃機の発進基地を叩くことだが、その敵基地をもはや叩けないとすれば、それは前線の海軍も陸軍も壊滅しているということを意味する。

前線の部隊が壊滅し、本土での防空もできないとなると、あとは敵の上陸を待つのみとなる。

本土での地上決戦が現実のものになろうとしている。

沖縄の地上戦の噂は伝わっていた。

それがこの本土でも展開されることになる。

逃げ場はない。

勝ち目もない。

とすれば、残された道は・・・。

死――。

それしかない。

わしらはもういいが、星子や月子や花子や桃子たちは助けてやりたい。

しかし、降伏という選択がない以上、一億玉砕、亀蔵一家も全滅という現実はまぬかれない。

竜門山は今日も夏空に映えていた。

紀ノ川は今日も悠然と流れていた。

「國破れて山河在り。城春にして草木深し。」

千二百年前に杜甫が詠んだ情感が今ほど胸に迫ったことはなかった。

国は負けても自然は残ると詠まれた時代と今は違う。

ピカドンを落とされれば、山河は形を一変させ草木は一本も残らない。

花も鳥もすべてが消えてしまう。

大陸では砲火はすでに十五年も続いている。

戦地からの便りも来なくなった。

武器も弾薬も食糧も尽きて、飢餓と病気で死にゆく前線の兵隊たちの姿は、本土を守る明日の自分たちの姿でもある。

これ以上の戦いは止めなければならない。

亀蔵は今はっきりとそう考えていた。


敵爆撃機の大編隊が竜門村の上を北へ向かったのは、八月十四日だった。

護衛の戦闘機の小さい機影も目に入った。

悠々と低空を飛ぶ爆撃機を見やりながら亀蔵は思った。

(もう護衛の必要もないやろうに)

本土防空の戦闘機はもうほとんど残っていなかった。

高射砲陣地は稼働すらしていない。

制空権は今や完全に米軍の手にあった。

今からだと、帰りはやはり午後三時か。

さて、どうするか。

亀蔵は思案した。

和歌山の花火師に連絡をするか。

連絡すれば花火師は迎撃用の花火爆弾を携えてすぐさま駆けつけるだろう。

もしかすると前回以上のユニークな花火爆弾を作っているかもしれない。

亀蔵は一人竜門橋に歩いていった。

梅雨が明けたあと、まとまった雨がないので紀ノ川の水は少なかった。

竜門橋の上に立ち、辺りを見回してみた。

二週間前の戦いの痕が生々しい。

銃撃を受けた橋板。

銃創によって焦げた穴が黒ずんだ状態でくっきりと残っている。

球体となって弾けた花火爆弾が、橋を真っ赤に染め上げている。

水性だからやがて消えていくだろうが、雨のない今はしばらくそのままの状態だろう。

亀蔵は操縦士のことを思い描いた。

真っ赤な機体で基地に降り立った後、上官へどんな報告をしただろうか。

報告を受けた上官はそれにどう対応したか。

普通の思考回路の持ち主たちであれば、操縦士は搭乗禁止となるはずだと亀蔵は思った。

こちらが本気で対峙していれば、つまり殺傷力のある実弾で対峙していれば操縦士の命はなかったはずだ。

ペイント弾にした理由が分かるなら、二度と馬鹿な真似はできないはずだ。

ペイントは水性だからすぐに洗い落とせる。

今日飛んでいった戦闘機の中に、あの操縦士の機体があるかどうかは分からない。

もしあったとすれば、また来るかもしれない。

来ればどうする?

もう一度戦うか?

花火師に連絡すれば戦うことはできる。

その準備の時間はまだ充分ある。

しかし、・・・もう、止めよう。

亀蔵は花火師に連絡することも、戦うことも、もう止めようと思った。

来るなら来ればいい。

相手の出方を見てやろう。

撃たれて死ぬわけにはいかないけれども、相手がどう出るか、それだけは見届けてやろうと亀蔵は心に決めた。


午後三時少し前。

何度も聞いた戦闘機のエンジン音が紀ノ川の川原に響いた。

警報は鳴らない。

敵戦闘機はやはり太陽を背にするようにして竜門山に接近してきた。

亀蔵は前回使った発射装置の傍に立っていた。

敵が撃ってきたら防弾壁に身を入れる。

今は全くの無防備な形で橋の上に立っているだけだった。

何度かの戦いで戦闘機の銃撃のタイミングは心得ている亀蔵だった。

銃口が火を噴き一瞬の間を空け着弾する。

火を見た瞬間に防弾壁に身を隠せば撃たれることはない。

グラマンはぐんぐん接近してくる。

機体が竜門山頂に達したとき、いつものように機首を北に向けたのが見えた。

来る気か?

グラマンは急降下に移った。

ぐんぐん高度を下げ、亀蔵はグラマンの射程圏に入った。

亀蔵の目は銃口に注がれている。

静かにグラマンを見上げて立つ亀蔵。

エンジン音を上げ高度を下げるグラマン。

撃たれるか?!

一段とエンジン音が上がったと思われたその瞬間、グラマンはUの字を描くように急上昇に移った。

 亀蔵の頭上に機体の腹を大きくさらしながら竜門橋の上を飛び過ぎていく。

 その機体を振り仰いで見送った亀蔵の目にゆらゆらと舞い落ちてくる何かが確認できた。

 落下傘?

 そういえば、あのピカドンも落下傘を付けた爆弾だったそうな。

 まさかな?

 そう思っている間にも落下傘はゆらゆらと風に揺られながら亀蔵のもとに落下してきた。

 どうやら爆弾ではなさそうだった。

 舞い落ちてきた落下傘を亀蔵は掴み取った。

 掴み取ってからなお警戒は解かなかったが、それは焼夷弾でもなく、もちろん時限爆弾でもなかった。

 落下傘には空っぽの金属の筒が付けられていた。

 その筒の中に、何やら紙のようなものがしまい込まれていた。

 亀蔵は紙切れを取り出した。

 紙切れには英語の文が書かれていた。

 わしには読めんから、花子に読んでもらうとするか。

 そう思いながら亀蔵はグラマンの飛び去った方に目を向けると、ちょうど旋回に移ったグラマンの機影が目に入った。

 大きく弧を描きながら旋回を終えたグラマンは再び竜門橋に近づいてきた。

 しかし、その飛び方はこれまでに見たこともないような不思議なものだった。

 小刻みな上昇と下降とを繰り返したかと思うと、次には機体をくるくると回転させる。

 さらには前転させたり後転させたり。

 まるでそれは餌をもらった猿が体全体で喜びを表現しているかのようだった。 

 その後グラマンは何度か竜門橋の上を旋回し、翼をブルブル振るわせたかと思うと竜門山の向こうに消えていった。

 亀蔵はすべてを了解した。

 操縦士が落としていった紙切れの英語は読めないが、すべてを納得した思いだった。


「ちょっと難しい構文とか単語あるから正確やないかもしれんけど。」

そう言いながら居間に入ってきた花子が和訳を書いた紙を亀蔵に渡した。

晩ご飯はやはり皆一緒に食卓に着く。

花子が来るのを全員が待っていたのだ。

亀蔵は米軍戦闘機の操縦士が落としていったメッセージの和訳を花子に頼んであった。

「お前にできなけりゃ、誰にもできやん。」

そう言いながら亀蔵は星子や月子を見た。

「こっち見てそんなこと言わんといて。」

「そうやで。私らもう現役ちゃうんやで。」

星子と月子がふくれっ面でそう言った。

「すまんすまん。まあそう怒るな。」

そう言いながら亀蔵は和訳を読んでいた。

黙って紙に目を落としていた亀蔵が、小さく「ふっ」と笑った。

「お父ちゃん、何書いてあるん?」

桃子が興味津々な顔で亀蔵に聞いた。

「ああ、ええこと書いてある。」

「何何? 読んで読んで。」

「んん、うん。そうやな。読んだるか。その前にお茶一杯飲むわ。」

全員食べることも忘れて亀蔵が読み始めるのを待った。

「よし。ほな読むぞ。」

亀蔵が静かに訳文を読み始めた。

以下はその全文である。

「私は、アメリカ空軍第1945航空戦闘機隊所属のトーマス=リチャードソン中尉です。あなたの名前は知りませんが、おそらく名のある立派な紳士ではないかと思います。私が一度ならず二度三度と仕出かした愚かな行いを軽くいなしたのみならず、私に正しい道を示して下さった。

先日、私の乗機は血のように真っ赤にされてしまいました。頭にきた私はすぐさま仕返しをと思いましたが、帰路に必要な燃料のことを考えますと無駄に時間を費やしている時間はありませんでした。

仕方なくそのまま基地に帰ったのですが、たちまち基地中の笑い者になってしまいました。ますます頭にきた私はすぐ次の日にでも仕返しに飛び立とうと思ったのですが、そんなことでの飛行許可は当然下りませんでした。

基地司令に事情を聞かれた私は、仕方なくすべて包み隠さず話しました。黙って聞いていた司令は言いました。

『お前は命を助けられた。なぜ助けられたか頭を冷やしてしばらくよく考えろ。』

私が命を助けられた? どういうことだ? 私にはすぐにはその意味がわかりませんでした。むしゃくしゃしていた私はそこら中の者に当たり散らしましたが、整備兵たちはそんな私の真っ赤な戦闘機のペイントをきれいに元の状態に洗い落としてくれていました。

その整備兵の一人が私に言いました。

『これがペイント弾じゃなかったら、この機体は間違いなく木っ端微塵でしたよ。』

それを聞いたとき、私はハッとしました。私が今生きているのは、ペイント弾だったからです。これが実弾だったら私は確実に死んでいた。なぜ実弾にしなかったのか。私はそれを考えました。何日も考えました。そして分かったのです。あなたの気持ちが分かったのです。

あなたはおそらく私を殺したいとも思ったことでしょう。でもあなたはそうしなかった。それはなぜか。それはおそらく私に何か大切なことを教えようと思ったからではないですか? もしそうだとすればそれは何なのか。

答えは一つしかありません。

『遊びで人を殺すな。』ということです。

アメリカと日本は戦争をしています。戦争は過酷なものです。何百万人もの人が命を落としています。しかしそれは戦争だからです。

命を落とすことを仕方ないことだとは言いませんが、しかしそれが戦争の現実です。私もアメリカのために戦争で命を落とすことに疑問は感じていませんでした。

しかし、私がしたことは戦争ではありませんでした。ただの殺人。結果的には未遂で終えられましたが。これは戦争とは関係ない悪行であるということに気づくことができたのです。

それを教えてくれたのがあなたでした。あれがあなたでなかったら、私はとんでもない取り返しのつかない悪行に手を染めていたことでしょう。いや、未遂とはいえ悪行を働こうとした事実は消えません。あなたのおかげで未遂に終えられたことを有り難く思います。

本来なら、あなたに会って謝罪をしなくてはいけないと思いますが、今はまだ戦争中でそれはできません。だから、このメッセージを届けます。戦争が終わって米日に平和が訪れる日がくれば、改めてお会いしたいです。それでは、あなたに幸運あれ。」

亀蔵が読み終えたあと、口を開く者は誰もいなかった。

しばらくしてぽつりと鶴子が言った。

「日本とアメリカはなんで戦争することになったんやろうね。」

「ほんまや。鬼畜米英って言うてたけど、こんなええ人もいてるんや。」

星子がしみじみと言った。

「そうやな。お父ちゃんこの人の顔見た?」

月子が亀蔵に聞いた。

「いやあ、戦闘機の腹しか見てないなあ。」

「もう、ちゃんと見といてよ。絶対男前やで。」

「なんやお前。男前やったらアメリカ人でもええっちゅうことか。」

「ふふふふん。そうやなあ。」

そんなやり取りに入ることもなく花子は黙々と一人すでに箸を動かしていた。

一人取り残されたような桃子は怒った顔をして、

「私は許さんからな。のこのこやってきたらえらい目にあわせちゃる。何ちゅうても私や梅ちゃんは殺されかけたんやで。ふん。」

「そうやったな。お前らがほんまに殺されてたらお父ちゃんかて、本気になってたやろな。そやけど、この人が言うてるみたいに戦争が終わったらもう敵やないからな。その時は歓迎したろか。」

「でも、戦争終わるなんてことあんの?」

桃子が言った。

「日本勝つんやろかね?」

鶴子が言った。

「どうかな。やられまくってるさかえな。」

亀蔵が言った。

「最後は勝つってみんな言うてるで。」

星子が言った。

「でもいつになったら勝つんやろ?」

月子が言った。

花子以外、まだだれも箸を持っていない。

「早よ食べたらあ。日本はもうすぐ負けるよ。この人の文読んで分からん? 負けた国の人がわざわざ敵やった人に会いに来る?」

箸を動かしながら花子が言った。

皆、ハッとして花子を見た。

「花子姉ちゃん鋭いな。で、戦争はいつ終わるん?」

「それを聞く? そんでまた言わせる?」

「どういうこと?」

「一億玉砕。戦争終わったときは私ら誰も生きてないんよ。」

「うーん。」

灯火管制で部屋が暗いせいだけではなく、花子の言葉で皆の表情が一気に暗くなってしまった。

「ほら、皆どうしたん? はよ食べよっ。」

鶴子の一声で皆はやっと箸を手にした。


次の日――、

昭和二十年八月十五日正午。

玉音放送が流れた。

戦争が終わった。


昭和三十年、竜門橋は鉄筋コンクリート製に建て替えられた。

その数年後、橋を渡る一人の米国人がいた。

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竜門橋 水無瀬 了 @umigame0920

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