第10話 喧嘩
蝉の声に染まった沈黙がしばらく流れる。
「・・・・・・本気で言ってる?」
橋下の声が曇る。俺は堂々と肯定した。
そんな俺を見てさらに橋本は声のトーンを下げた。
「言っとくけど、そんなの人助けじゃない。動く死体を土に還すのと一緒。ただの自己満足よ。それでも、私たちの倫理観においては、まだ彼女は人間の範疇にいる。だから、仮に彼女を殺せばそれは殺人よ。貴方は自分のためだけに人殺しをする度胸はあるっていうの?」
彼女は敵意のような何かを瞳に浮かべこちらを睨んでいるが、ここで引くわけにはいかない。俺ははっきり、あると言った。それでも橋下は納得しなかった。
「いいや、ない。ないから、私と会うまでずるずると先延ばしにしていたんじゃなかったの。貴方はまだ人のためにやろうとしている。人の利益になろうとしてる。それじゃダメなのよ。人のために人殺しをするのは間違ってる。」
「どうして?」
段々とヒートアップする彼女に俺も負けじと応戦した。
「貴方は彼女を殺した後どうするつもりなの?その罪は一生の呪いとなって心を蝕み続ける。自分のために何かをしようとする人間には耐えられるわ、それに見合った価値があるから。でも、あなたには彼女を殺して一体何の得があるっていうの?」
そこまで言われて、俺は押し黙ってしまった。
その隙を逃すまいと、橋本はありとあらゆる説得の言葉、その限りを尽くす。
「・・・・・・確かに、俺があいつを殺しても何の得もない。もしかしたら、一生十字架を背負い続けることになるかもな。」
だったら、そう橋本が言いかけて、俺は制止した。
彼女を殺す、そう決めたからには一応俺の前任者である橋本にも一言言っておこうと思ってここに来た。
良い反応が返ってこないのは確かだったし、もしかしたら淡白な返事だけ残してすぐに話が終わるのではとも思っていた。
彼女は俺の前任者であるものの、それ以上でもそれ以下でもない。
橋本は元々、人を殺めると言う罪深さを目の当たりにして、その役目を放棄したのだ。
その点について自分でも多少の後悔を感じている節が見受けられた。
だから、最初に反対された時、俺は内心動揺した。
意外だったし、それこそ俺の予想から外れた反応だった。
橋本が俺を説得している最中、正直、自分から逃げ出したんだから、橋本にはもう関係のない話じゃないかとも思った。
彼女の熱に当てられて、それに負けじと自分も対抗心の炎を燃やしていたか
ら、素直にそうだねとは受け入れづらかったし、橋下の言っていることは至極正論であったから、余計それが鼻についた。
けど、そこまで考えて俺は気付いた。
なぜ、俺がここにきたのか。なぜ、俺は彼女に対して今嫌悪の心を抱いているのか。
それは、彼女が俺の前任者だからだ。
そう、俺の、彼女を殺す役目を背負った最初の人間。
それも、彼女を殺す寸前にまで至った唯一の人物。
つまり、彼女は知っているはずなんだ。
俺と同じように、殺人という業の深さを。
そして、俺は知らない。橋本が受けた痛みの深さを。
俺はただ運が良かっただけなのだ。暗殺がうまくいかなくて、彼女が死ぬ、その未来が確定する一歩手前まで辿り着いたことがなかったから、人の死という本来は見えてはならない深淵の輪郭を知覚することはなかった。
しかし、橋本は違う。全て見てきたのだ。
自分が望んだわけでもなく、彼女の言った通り"人の為"にそこまで進んでしまった。
彼女の死体を築く未来をその手に掴んでしまった。
そして、知ったのだろう。
人を殺すってのが、どれだけ恐ろしくて、重くて、気色の悪いものかを。
だから、彼女は俺に同じ苦しみを味わせまいとここまで激昂しているんだ。
そこまで理解して俺は原点に戻る。何故彼女を殺そうと思ったのか。
否、何故彼女を生かして、放っては置けないのか。
「彼女はこれから未来永劫生きることになる、そうなってしまう可能性がある。だけど、彼女は自らの生に対して価値を見出していない。俺らには寿命があって、必ず死ぬことが確定している。だから、そこには希少価値が少なからず生まれて、生きてる分だけ丸儲けだとか、だから、生きてたらその内いいことがあるなんて発想が出てくるんだ。でも、彼女は違う。老いる気配もなく、自死もできず、まともに殺してももらえない彼女は不老不死と同じだ。そんな彼女がこの先、こんな荒廃した世界でどんな未来を辿っていくのか、少し想像しただけでも俺はおぞましく思うよ。朽ち果てることもできずに続く無限地獄、そんなふうに俺の目には映るね。」
橋本は何も反論しなかった。おそらく、この人も理解しているだろう。彼女を殺そうとした動機も、そんな彼女への同情だったのかもしれない。
「俺はそれを知って、死ねない彼女を見殺しにするようなまねはできない。彼女が不幸になるとわかっているのに、それでも永遠の生を強要するだなんて、あまりにも残酷だ。・・・・・・俺は俺自身の良心の為に彼女を殺さない選択肢を取れない。だから殺す。それが俺の、俺が殺人を犯す理由だ。」
橋下はいろんな言葉を言いかけて、結局何も言わずに俺の服を掴んだまま俯いた。静かに泣いていた。
俺の胸元で彼女がすすりなく声に混じって遠くの方からひぐらしの声が聞こえてくる。
夏も終わりに近づいていた。
「分かった。私も協力する。」
いくらほど経っただろうか、彼女が泣き止んで、静寂が続いて、そして帰ってきたのは意外な言葉だった。
毛頭そのつもりではなかったのだが。
「別に橋本は加担しなくてもいいんだぞ。」
「貴方への償いよ。私にいい考えがある。」
そうやって橋下は二階の物置部屋に俺を案内した。
中に入ると、そこには東京のアパートで見た景色と全く同じ光景が広がっていた。
何故こんなものを持っているかと尋ねた。
「言ったでしょう。私は元々彼女を寸前まで追い詰めたのよ。湊とは違ってね。」
「なんでいきなり呼び捨てにするんだ。」
「敬称を使うほど尊敬に値する人物でないと分かったからよ。このウスラトンカチ。」
橋本はおどけるようにしてそう言った。
突然の呼び捨てに困惑したものの、俺は眼下に広がる無数の凶器に目を奪われていた。
品揃えは全て彼女のアパートにあったのと同一である。
「だが、これでどうするんだ。あっちにも同じようなものはあったぞ。」
「大丈夫、これから作戦を説明するわ。」
振り向きざまに俺に叫ぶ。
「オペレーションベータよ!」
そう啖呵を切って、俺と橋下、そして彼女との最後の夏が始まった。
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