第8話 事故

 翌日、今度こそ俺は橋下のバイクで家路を辿った。

 肉体は着々と彼女のいる東京のアパートに近づいていたが、本心は帰りたくなかった。


 嫌いになったかと言うと難しいが、真実を知った今、彼女の前でいつも通り接することができるか不安だった。


 今ここで死んでしまえば、と軽く心にもないことを思って背もたれのない後方に少し背を傾ける。


 その瞬間だった。


 アスファルトの地割れで一度浮いた車体は昨日の夜露で後輪をスリップさせ、俺たち二人を宙に投げ出す。


 坂道で摩擦も少なかったこともあり、バイクはスピードをつけていた。

 俺は体勢のせいで五メートルほど跳躍し、道路の向こうに投げ出される。


 橋下は足を怪我していたが、すぐに阿瀬の元に駆け寄った。

 ガードレールの向こうはさらに数メートル下があったからだ。


 安否を確認しようと道路から少し上半身を出して、橋本は青ざめる。

 俺はちぎれた鉄筋で串刺しになり横たわっていたのだ。


 そこから先はあまりよく覚えていない。

 痛みで精一杯だったから、脳裏に焼き付いているのは橋下の憔悴した顔だけだ。


 怪我をしたのは左腕だったが、運悪くそちら側を下にして落下したため、体重が乗って鉄筋が俺の筋組織を貫いた。


 橋下はこのままじゃ移動させられないと言って、鉄筋から左腕を引き抜いた。

 俺は痛みに力むあまり少々漏らしてしまった。


 段差を跨ぐ度に車体が揺れて激痛が走る中、バイクに乗せられて着いたのは彼女の家だった。

 俺をバイクの傍らに残し、橋下は彼女を呼びに行く。

 すぐに二人が駆け寄って、彼女は持ってきたタオルで俺の肩を圧迫した。

 会話を聞くどころではなかったが、どうやら出血が収まらなかったらしい。

 少し二人が話した後、橋下はバイクに乗ってどこかに走り去っていった。


 橋本がその場からさった後、しばらくして彼女は口を開く。


「ごめんね、悪いけど君を助けられそうにない。」


 朦朧とした意識の中、残念そうな彼女の顔をチラリと見る。


「危険な血管は無事だけど貫通してしまっている。今ある物資じゃ対処しようがないんだ。彼女は今、君が起きたホテルに向かっている、病院だと伝えてね。救急物資を探しに行ってるけど、たぶんあそこにはないだろう。申し訳ない。本当の病院に物資はないんだ。訳あって随分前に全部奪われてしまった。」


 奪われたと言うのは、東京を占領していたという中国軍にだろうか。


「恐らくあの子は自分を責めているだろう。だから、行ってもらったんだ。何もしていないときっと罪悪感で潰れてしまうから。身勝手な我々で本当にすまない。しかし、橋下くんには贖罪が必要だ。生きるためにね。死人をまた一人出すわけにはいかない。本当に身勝手な我々ですまない。」


 残酷だとは思わなかった。彼女の言うことは一言一句正しいし、俺でもそうするだろう。


 むしろ、俺と同じような考え方をしているのが嬉しかった。

 だが、彼女はそれから息を荒くして独白し始めた。徐々に声は振動し始め熱を帯びる。


「わかっている。君も死にたくて死んでいくわけではないんだろう。あの子も、きっと何かの不運で事故を起こしてしまったに違いない。」


 そうやって一言一言発する度に、彼女の声は歪んでいく。


「だけど・・・どうして君たちはそう身勝手に死んでいくんだ。」


 絞り出すような声で彼女は確かにそういった。

 悲しさに顔をしかませ、ボロボロと涙を流す彼女など、これまで想像もしなかった。


「私にしたいことなんてなかった。美味しい料理にも、友達との遊園地にも、色恋にも酒にもタバコにも、睡眠にさえも興味を持てなかったし、欲することはなかった。みんなが食べているから食べる、みんなが面白いというから見る、みんなが寝ているから寝る。私は人に合わせるのみで自分の願望というものを何一つとして持てなかった。乾いていたんだ。」


 苦い過去を振り返るように彼女は言う。


「そんな自分でもようやく身悶えするほど欲して欲してやまないものができたんだ。死んでみたいと純粋にそう願えるようになったんだ。それなのに、気付けば手遅れだった。望んだ時にはもう手の届かないところに行ってしまった。分かっている、全部私のせいだ。自業自得なんだ。私があの時中途半端なことをしなければ、死にたくもないくせに覚悟もないまま惰性で舌を噛みちぎっていなければ、私は今頃静かに死ねていた。誰もいないところで死ねていたんだ。」


 ああ、そうだったのかと、心の中でつぶやいた。

 俺は彼女にとっての死とは単なる逃避でしかないと思っていた。

 しかし、彼女は我々人間が誰かを好きになって、誰かを嫌いになるように生理的な欲求として純粋に死にたかったんだ。


「瓦礫の山をひっくり返して火災になった研究所を探したが誰もいやしなかった。分かったのは私の不老性が原因不明ということだけ。それなのに君たちは自分の都合で勝手に死ぬ。まるで、さも迷惑だと言わんばかりに死んでいく。私のご馳走を嫌々顔でとっていくんだ。要らないなら私によこせよ・・・・・・」


 そう声を押し殺すように咽びいて、その後に大声で泣いた。

 俺は死に体で声をかけてやることも、肩をさすってやることもできなかった。


 彼女の咽び声をどれだけ聞いた後だったか、バイクの駆動音が聞こえてきた。

 帰ってきてしまったのか。


「おーい、持ってきた!持ってきた!」



 彼女は咄嗟に顔を上げ、信じられない様子でその場に立ち上がる。

 バイクが近くに来て、彼女はすぐに質問した。


「どこにあったんだ?」


「病院にはなかったんだけど、前に兵士の死体を見かけて、一緒に救急キットぽいのがあったんだ。医療物資は貴重だから自分の家に持って帰ってたの。」


 彼女は呆然と立ち尽くしていた。


「これで助かる?」


「あ、ああ。」


 彼女は我を思い出したかのように準備に取り掛かった。

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