MASEED
ぽん
SS
今にも壊れてしまいそうな音を纏った空泊住居(アクラテ)が、視界の端を横切る。
濃灰色と紫色の入り混じった空の彼方には、開花寸前の蕾。
太陽に為り代わって輝きを散らせる異形の華も、雲を押し退けて風を浴びる異質な要塞も、滑稽なまでに上昇と下降を繰り返す気候も――現世に蔓延る異彩は全て、人の手によって生み出された「発展技術」の残りカスだ。
「……暑いねぇ、雲母(うんも)チャン」
我先にと押し合う人衆から離れた場所で、レトウェズは宙を仰ぐ。
ゆっくりと高度を落としてきている空泊住居(アクラテ)は、どうやら街の北側にある山裾に停泊するようだった。
「……乙女雲母、このままだと溶けてしまう……」
「あはは。顔が? 土砂災害起こすって? いいんじゃないかな」
傍らでうだっている少女に目をやるなり、レトウェズは堪えもせずに吹き出す。
幼い顔に不似合いな厚化粧は案の定崩れかけていて――早朝から三時間掛けて塗りたくっていた白粉は見事に汗で流れ、地肌が浮き出てきていた。
「笑うな! このアンポンタン!」
腹を抱えて笑っていると、思い切りよく脛を蹴られる。続いて髪の毛を引っ掴まれたことで顔を上げれば、忌々しげな表情が真っ向から頭突きをしてきた。
額に激痛が走るなり、反動で首が後ろに傾く。視界が白くなるような衝撃は本当に久しぶりで、レトウェズは今更ながらに雲母の機嫌がとてつもなく悪かったことを悟った。
しばらくのあいだ悶絶してから正面に向き直ると、元に戻った筈の視界が霞む。
何度瞬きをしても消えてくれない茶色い靄の正体は、空飛ぶ鉄の塊を追いかける人々と、雲母が命の次に大事にしている巨大鞄が巻き上げた砂埃だった。
「……雲母ちゃぁん。ここで広げるのはノンマナー?」
その場にしゃがみ込んで、レトウェズは手荒く引かれるジッパーを見つめる。
土砂災害発言で躍起になってしまったらしい雲母は、TPOはおろか人目も気にせずに化粧直しを始めようとしていた。
鞄の中から探りだされた大小様々な形の瓶が、続々と地面を埋めていく。
レトウェズは、これ以上機嫌を損ねてしまわないようにと口を閉じて、目下にある灰色の頭が持ち上がってくるのを辛抱強く待った。
数秒置いて、黒い革手袋を嵌めた小さな掌が膝元に落ち着く。
やっと今いる場所が街中だということを思い出したのか、雲母は少し気まずそうに視線を彷徨わせてから外套のフードを目深に被った。
「俺はね、そのままの雲母チャンの方が可愛いよって意味で言ったんだけど。伝わらなかったかな?」
断りなく両頬をつまむと、幼さを残す顔がくしゃりと歪む。
「……アンタが言うと、嫌味にしか聞こえないのよね」
大人びた物言いをしていてもやっぱり中身は年相応らしく、雲母は藍色の鱗に覆われた皮膚を恥じるかのように俯いてしまった。
ただ、路地には気に留めるだけの人気も人目も、ありはしない。
街の住人たちが一心に見据えているのは、雲母の肌などではなく――低空飛行を続けている空泊住居(アクラテ)だ。
目を血走らせた行商人の群れが、母親を探して泣き喚いている子供を突き飛ばして北の方へと駆けてゆく。
弱者を退け、持ち得る全ての力を誇示し、我こそが生き残るべきだと声高だかに叫ぶ者の姿は不体裁以外の何物でもなく、レトウェズは密かに皮肉めいた笑みを零した。
進化を続けてきた世界が悲鳴を上げ、すぐそばに滅びの時が迫っているというのに、人はまだ他者の「命」よりも自身の「名声」や「地位」を重んじていて、足掻き、蹴落としを繰り返している。
逃げる場所などは、どこにもない。
どのみちの結末は、みな同じ。
そんな簡単なことすらわからないのかと思えば、呆れよりも先に同情心が湧いた。
ただの球体に過ぎなくなった太陽の傍で優雅に花弁を広げた金色の蕾が、流星と見まごう光を降らせはじめる。
いつもならば屋根のある場所で息を殺している者たちも、まがいものの方舟には目が眩むようで――街中は、空中華(マシェッド)の開花時間であるにも関わらず喝采に満ちていた。
「綺麗だね、雲母チャン」
「……そんな馬鹿なこと言うの、アンタくらいよ」
怯えを孕んで震えはじめた華奢な肩を引き寄せて、レトウェズはゆるく笑う。
子供の頃に見た空と同じ色の瞳は、決して上を向くことはない。
「……レト。あのね……」
地面に目線を縫い付けたまま、雲母がぼそぼそと呟く。
「……もういいからさ、アンタは乗りなよ」
「何言ってんの」
レトウェズは、誰もが嫌悪する金色の粉を眺めつつ小さな頭を撫でた。
「パパは男前だかんね、最後まで付き合うよ」
「……雲母のパパは、もっとかっこよくて賢くて、運動神経も良いし優しいわよ」
本気なのか冗談なのかを測りかねる言葉が、つらつらと並べられる。
文句を言って少し気が紛れたのか、傍らを盗み見ると、青色の瞳は地面から正面に目線を移していた。
生きとしものの命を蝕む、大輪の花。
十数年前から濁りきった空を彩っている金色は、浸食したもの全てを退化させてゆく。
「お腹減ったねぇ。ご飯食べいこっか」
十二歳にして先逝きを定められてしまった少女の手を引き、レトウェズは腰を上げる。
引き摺られる形で持ち上がった巨大な鞄からは、旅路でこつこつ買い揃えられた化粧品たちが頭を覗かせていた。
「ちょっと! レキュアの化粧水と乳液がまだっ!」
「あれぞ無用の長物。荷物も軽くなるし置いて行きなサイ」
「馬鹿! アホ! 無神経!」
人気のない路地に残される瓶も、落とすまいと鞄の中にしまいこまれる瓶も――雲母も、どのみちすぐに風化してしまう。
うしろから脹脛を蹴られる感覚や、ぽんぽんと飛び出してくる罵倒も今に消える日が来るのかと思えば、また愛しさが増した。
退化の兆候が一向に現れない自分の体質を分け与えてやりたい衝動に駆られて、レトウェズは親友の忘れ形見の頭を手荒く撫でる。
鬱陶しそうに身を捩った雲母の頬は、悔しいかな、昨日よりも硬化が進んでいた。
なるべく多くのものを収容できるようにと、鉄の板を継ぎ合わせ、階層を増やし、現在進行形で拡張を続けている空飛ぶ建造物は――「外」を知らない者からしてみれば牢獄となんら変わりない。
白塗りの壁に嵌めこまれた、透明色の扉。
強化硝子と認証システムに守られた〝入口〟の向こう側をまじまじと眺めて、磊(らい)は唇の端を持ち上げる。
薄い隔たりを境にして広がっている廃空間に、人影は無い。
設けられている灯りが豆電球のみということで酷く見通しは悪かったものの、噂通り、狭い通路の両側には「市」のプレートを掲げた住居域が存在していた。
扉の傍に備え付けられた箱型の機械にIDカードを通すと、黒い画面に「確認中」という白文字が点滅する。
しばらく待っていると表示は「許可」という二文字に変わり、透明な硝子は高い音を伴って左隣の壁に吸い込まれていった。
ぐらぐらと揺れる心許ない足場に目を据えて、磊は異質な空間に踏みこむ。
背後にある扉が音も立てずに閉まると、どこからか吹いてきた風が頬を掠めた。
空調機器が運ぶものとは違い、自然の――鉄の要塞の外を吹き荒れている気流は刺すように冷たく、軽装で出てきたことを少しだけ後悔する。
ただ、この黴臭い場所とも、今身を取り繕っているものともすぐに別離するつもりだったために、引き返すという考えは浮かばなかった。
周囲を念入りに観察して、磊は左側の一番手前にある【ザルタの店】という号を掲げた部屋に足を向ける。剥がれかけのトタン壁や捩子の緩んだ半開きの扉を見る限り、ここが一番、都合がいいように思えた。
捥いでしまわないよう慎重に板戸を開けると、むっとした空気が体を包む。
安酒と煙草と人の匂いに満たされた狭い一室には、続き扉も、レストルームもない。
その代わりに、床一面には上層域に売っていないような代物が所狭しと並べられていて、店主から一番近い位置にある戸棚には、ちゃんと目的のものも収まっていた。
商品らしきガラクタを踏まないよう歩を進めて行くと、部屋の奥でシケモクを吹かしていた髭面が面倒臭そうに一瞥をくれる。
色褪せたカーペットの上に腰を据えたまま頑として立て膝を崩そうとしない店の主は、商いをする気がないのか、一向に声を掛けてこなかった。
真っ向から探りを入れるような視線を受け、磊は仕方なく顔に作り笑いを張りつける。
すると、碧色の双眸は途端に丸くなり――間違いを正すかのように威嚇の色を消した。
「あ、あんた丘登利(くとり)首相のッ」
「お忍びだから静かにしてね、ザルタさん」
慌てて姿勢を正した店主・ザルタに愛想笑いを返して、磊は胸元を探る。
制止を促す代わりに父親の書斎からくすねてきた煙草を渡してやると、ガタイの良い商人は、嗜好品を収めていた場所を流し見てから口を閉じてくれた。
視察を装って辺りを見渡すと、一か所だけ何も物が置かれていない空間に目がいく。
ありあわせの材料で作られた居住区故なのか、ザルタの店の南側の床と壁は他のところよりも明らかに薄く、濃灰色の空が垣間見えてしまうほどに隙間があいていた。
下層域にしか供給されていない乾燥食料と、着古された衣類。
密売品に他ならない散弾銃と――この場所から羽ばたかせてくれる小さな〝翼〟
磊は、早々に購入物の目星をつけてザルタを呼ぶ。
指定する品で目的を悟られることは分かりきっていたが、後々のために、あえて誤魔化しや弁解は入れないことにした。
「そこの袋に、入るだけ食料を詰めて。あと、NB‐51を一丁とバレッタ三つくらい……と、浮遊剤(シルフィ)と翻訳機(ハリバ)をひとつずつ」
注文を告げるのと同時進行で、雑多に畳まれている衣類を適当に拾う。
息が詰まる礼服をその場で脱ぎ捨て、本でしか見たことがない薄手のシャツとテーラードのジャケットを身につけると、予想通り、唖然としている強面が視界に入ってきた。
「……おい。あんたまさか」
「何も知らない、見てないって言い張ればいいから」
色の褪せたジーンズに足を通しつつ、磊は唇に人差し指を宛がう。
鬱陶しいまでに豪奢な飾り留めを外し、高い位置で結われた髪を解いて掻き乱してしまえば、もう上層域に暮らしているような人間には見えない。
湿気散漫な廊下の奥――下層階級の商人たちが根城にしている〝抜け穴〟に足を運ぶこともできるし、上層域のものに見咎められることもない。
この男さえ、黙っていてくれれば。
「支払いはここから。少しくらいハネといてもいいからね」
磊は、何かを言いたそうにしている口の前に磁気カードを突きつける。
すると、忙しなく泳いでいた視線はゆっくりと下降して、一点に定まった。
個人を識別するという名目で各住人に配布されているIDカードには銀行(バンク)の当座番号も登録されていて、磊の場合だと空泊住居(アクラテ)内のどこででも買い物が出来る。
ただ、どのエリアにおいても高い品は引き落としで安い品は現金払い、という共通のルールがあり――ましてや体裁を重視する家柄の者が規定を無視して仰々しいものを出したことの意味を、貪欲な商人はちゃんと察したようだった。
捥ぐようにしてカードを奪い取ったあとで、ザルタは麻袋に簡易食料を詰めはじめる。
見るからに不味そうな缶詰や菓子も放り込まれていたが、磊は見て見ぬ振りをした。
「ほらよ」
数分前とは打って変わった清々しい対応で、ザルタが雑嚢を差し出してくる。
受け取ってみると想像以上に重さがあったが、備えは多い方がいいと自分に言い聞かせて中身を抜くことはやめておいた。
次いで、あまり物品の入っていない棚戸が引かれ、待ちに待った品が出てくる。
他のガラクタたちとは違い、水色の小瓶と片耳に付けるタイプの小型イヤホンは、人の手に渡っていないことを示す光沢を持っていた。
「浮遊剤(シルフィ)は副作用があるからな」
「わかってる」
あまり重要ではない大荷物を床に下ろして、磊は掌を開く。
子供のおもちゃのようにも見える浮遊剤(シルフィ)と翻訳機(ハリバ)、諸々のものを買い占めた釣りを渡して貰いさえすれば、この店にもう用は無かった。
上着の左右についたポケットにIDカードと購入した小物をそれぞれしまい、麻袋を肩に担ぐ。黴臭い服も案外役に立つもので、着慣れてしまえば実に便利で快適だった。
入口付近に立てかけられている銃を拾い、さっさと部屋を後にする。
ほんの少しだけ気になって後方を省みると、置き土産と口止め料がお気に召したのか、ザルタは素知らぬ顔で紫煙を吐いていた。
塞がった両手の代わりに、片足を駆使して扉を閉める。
厚着になったせいか、はたまた気分が高潮してきているせいか、隙間風が吹き荒れる通路に出ても不思議と寒さは感じなかった。
奥に行くにつれ細くなる路地に視線を馳せて、磊は頷きを落とす。
遠近法の原理にも似た路の先には、輝かしい世界が待っている。
鼓動の高鳴りとガシャガシャという重たい音を背負って足を踏み出せば、まるで祝ってくれているかのように頭上で豆電球が点滅した。
刹那、目線がガクンと下がる。
元より重いものを持っていた磊は、突然の揺れに負けて左側の壁に傾れ込んだ。
「……んだよ急に……」
鈍重な衝撃と共に、下方に引き寄せられるような感覚が全身を襲う。
「ライ! 何してルノ!」
追ってやって来た「不意打ち」は――聞き間違いであって欲しいと思わずにはいられない片言混じりの呼び声だった。
つま先に力を込め、転ばないよう壁に手を突きつつ留飲を下す。
恐る恐る振り返ってみれば、嫌な予感は的中していて――透明な強化硝子の向こう側で紅色の癖毛が揺れていた。
「ココ危ないカラ! 帰るヨ!」
「げ……」
認証機材と格闘している青年・蒼倍(そうま)を見るなり、磊は一歩たじろぐ。
幸いにも扉はまだ開く気配がなく、カードが通されたばかりだと考えて二十秒ほどは猶予があった。
一瞬だけ思考をフル回転させ、磊は即座に足の向きを変える。
空泊住居(アクラテ)の抜け穴まで、目測で八〇〇メートル弱。
五〇メートルランで二秒も差をつけられる人物に、加えて体重増しな今、追いつかれて捕まることは目に見えていた。
「……何でアカナイ!? コワれた!?」
「認識中」の文字にやきもきしている蒼倍を一瞥して、磊は路地を引き返す。
足場の揺れは益々酷くなっていたが、もはやふらつく時間も休んでいる余裕もなかった。
半ば突進する形で、ザルタの店の扉を蹴破る。
文字通り飛び込むようにして室内に押し入ると、絨毯の上でくつろいでいた店主の口から吸いかけの煙草がぽろりと落ちた。
「邪魔すんぞ」
声音も語調も素のままに簡単な断りを入れて、磊は肩口に掛けていた散弾銃を構える。
「は? ちょ、ちょっと待て!」
慌てて身を乗り出したザルタの主張は、轟音に掻き消されて最後まで聞こえなかった。
南側の、手抜きが丸分かりの薄壁を一点集中で撃ち続ける。
軍備授業のお陰で銃の扱いには慣れていたものの、流石に片手で支えるのは無理があったのか、グリップを握る指は衝撃に負けて何度も攣ってしまった。
掌の痺れを堪えて弾を使い切ると、外れ飛んだ捩子が足元に転がってくる。
小さな穴が無数に空いた壁は、あと少しで剥がれてくれそうなところまできていた。
「ライ! 何してるノ! テッポウ撃ってる!?」
追い打ちを掛けるように、慌ただしい足音と、耳障りな声が聞こえてくる。
磊は、バレッタを取り変える暇も与えてくれない蒼倍に舌打ちを残して、役に立たなくなった大型銃を投げ捨てた。
遠方射撃に見切りをつけて床を闊歩していくと、不可抗力で売り物を蹴ってしまう。
ふと視線を感じたような気がして首を捻ってみれば、目下に、降参のポーズを取りつつも凄みを利かせているザルタがいた。
タイミング悪く手を突っ込んだポケットの中で、これまた諮ったかのように、固いプラスチック板が指先を掠める。
渋々ながらにIDカードを放ってやると怒りの滾った瞳はさっさと元の様相に戻ったが、それでも漂う雰囲気は不服そうなままで、どうしようもなくなった。
諸々の計算は狂ってしまったものの、食べるものさえ確保出来ていれば死にはしないだろうと、前向きに考えることにする。
けれど、大枚を叩いたにしては気分の晴れない旅立ち方に不快感は募るばかりだった。
穴だらけの壁の前に立ち、磊はポケットから探り出した瓶の蓋を歯で抜き取る。
入れ物を満たしている、見るからに不味そうな紫色の液体は、うしろに蒼倍がいるからこそ躊躇せずに口に運ぶことができた。
強烈な苦みと鼻を刺すような匂いに、自然と顔が歪んでしまう。
吐き戻しそうになるのを我慢して液体を胃に流し込むと、後味として舌にピリピリとした痛みが走った。
「ライ!」
背後で響いた呼びかけを無視して、磊は口元を拭う。
眼前でガタガタと音を鳴らしている壁は、一蹴り入れれば吹き飛んでくれるだろう。
夢にまでみた世界は、一歩先に。
幸か不幸か、たびたびの悪夢に登場する覇王は、一歩後ろにいた。
磊は、皺が寄ってしまった眉根を根性で正して、空の小瓶を掌の中に隠す。
こっそりと息を整えてから社交辞令上等な笑みを持って背後を見やれば、困り果てた顔をした美男子が腕組みをして待っていた。
「蒼倍」
「ハイ?」
「オマエにこのセカイをやる気はねぇ。よーく覚えとけ」
ドスの聞いた声が、静まり返った室内に反響する。
「早く可愛いお嫁さんを見つけてね?」
瞼をパチパチと瞬かせているザルタを尻目に、磊は口調を戻して首を斜にした。
「ソーマのオヨメさまは、ライだけだヨ」
蒼倍は、浮世離れした端正な顔に微笑みを浮かべて首を逆方向に倒してくる。
なんとも胡散臭い笑顔は、幼い頃から見慣れているもの。
「私に触れない人の所になんて、嫁ぐ気は無くって、よ!」
言葉と態度は柔でも、人一倍野心を滾らせている者の顔をしっかりと胸に焼き付けてから、磊は勢いよく後ろ足を蹴りだした。
ハイヒールの踵が壁の側面に当たるや否や、長い腕が伸びてくる。
案の定、引き留めようと肩を掴んだ掌は身体の上をすり抜けていってしまい、磊は面白そうに歯を剥いた。
虚空を切った手に向けて、持っていた小瓶を投げつける。
反射的に身を捻ってくれた蒼倍のお陰で、青い光は狙い通り戸棚の硝子にぶつかり――中に残っていた浮遊剤(シルフィ)の瓶を割り砕いてくれた。
細かい破片が宙に散ると同時に、バカッと何かが外れる音がする。
今までとはまるで違う冷えた風が髪を巻き上げたのと、背中を引っ張られるような感覚がしたのはほんの一瞬のことで――気がついた時には、磊の身体は濁り空の中に吸い込まれていた。
「追いかけてくんなよ!」
ザルタの店に空いた大穴に、声が届いたかどうかはわからない。
ただ、落下してくるガラクタの中に、蒼倍の姿は無かった。
脱ぎ捨ててきた礼服が、あとを追いかけるようにして降ってくる。
薄暗い空をひらひらと舞う朱色のドレスはまるで図鑑に載っていた蝶のようで、身に纏っていた時よりも数段綺麗なものに見えた。
「お。……ラッキー」
浮遊剤(シルフィ)を飲んだことで軽くなっている身体の横を、重力に逆らえない物品たちが通り抜けていく。
中には古い地図や書物もあり、磊はここぞとばかりに使えそうなものをかき集めた。
食料に地図、小洒落たランプと羊皮紙の束。
取り逃したものも、どのみち地上に降り立てば全て自分の所有物になる。
真下を望めば、地面に根を生やしている家々と木々の群れ。
初めての空中散歩も案外心地がよく、胸に篭っていた不快感は徐々に薄れていった。
何ともいえない浮遊間を堪能していると、風に浚われる金色の長い髪が視界に入る。
「……あー……ハサミあったかなぁ……」
磊は、真っ先にやりたいことを頭に思い浮かべて、指先に毛束を絡めた。
人ひとりが落ちたことを気にも止めずに、その場凌ぎの避難所は進んでゆく。
黒い影を落とす巨大建造物の向こうでは、月と太陽の役割を果たしている金色の蕾が、煌々と光を散らせていた。
「痛っ!」
眼下から悲痛な声が聞こえたことで、レトウェズは小袋を漁る手を止める。
口の中に残るものを租借しつつ視線を下げてみると、頭を抱えた状態で悶絶している雲母の姿が目に入ってきた。
地面には、先ほど屋台で購入した肉串と、化粧品の入った巨大な鞄と――何故だか黄色い宝玉のあしらわれた装飾品が落ちている。
「……これ、雲母チャンの?」
焼き立てのパテ肉を口に詰め込んでから、レトウェズは落とし物を拾い上げる。
チェーンが四重に連なった首飾りは、縁の部分こそ色褪せていたものの細工が精微で、よくよく見てみれば嵌めこまれた石はイエローダイヤという恐れ多いものだった。
「……なわけないよねぇ」
自問自答をして頷いていると、のろのろと持ち上がってきた人指し指が空に向く。
促されるままに宙を仰いだレトウェズは――そこにあるものを目に留めるなり雲母の手を引いて駆けだした。
だが、足の向きを変えそびれたせいで二歩も進まないうちに転んでしまう。
もれなく雲母も道連れにしてしまったが、この度は怒られずにすみそうだと――鼻頭を強打した時に確信できた。
地面につっぷすなり、数え切れないほどの擬音が耳に届く。
霰や氷などが可愛いと思えるほどの音と威力を伴って降ってきた雑品たちは、しばらくのあいだ止んでくれなかった。
時たま、太ももや背中に鈍器で殴られたような痛みが走る。
広範囲に渡って飛んでいるらしい誰かの落とし物は、まさに凶器だ。
「い、痛い! ちょっとレト! パパだって言うなら庇うくらいしなさいよ!」
「どう考えても無理! ッて、いたぁあッ!」
一際固いものが、腕に直撃する。
のた打ち回りたくなるような激痛を齎した物品はどうやら古い書物のようで、レトウェズは、これらが一体どこから落ちてきているのか、誰の悪戯なのかという功を成さない考えを巡らせることで脱兎心を紛らわせた。
雲母に頭を庇う体制を取らせ、自分も同じように伏せり、極力動かないようにする。
後はもう、ものが頭上に落ちてこないよう、割れものが遠くに飛んで行くよう祈ることしかできなかった。
数分間、二人して黙しているとふいに音が止む。
恐る恐る片方の瞼を開けてみれば、最後の最後で、頭の上に品物が降ってきた。
視界の先を覆ったのは鮮やかに染まった朱色の布で、レトウェズはほっと息を吐く。
やっと生まれた余裕に乗じて隣を見やると、雲母は心底呆れたような顔をして背中を摩っていた。
「…………だからモテないのよ、アンタ」
痛烈な言葉をお供に、脇腹に蹴りが入る。
レトウェズは、盛大に打ち身だらけになった体を丸めて咳き込んだ。
華奢な体つきのお陰か、雲母に目立った怪我は見受けられない。
代わりに的になったのだから許して欲しいと言いたい口を噤んで身を起こすと、思っていた以上に色々な個所が痛んだ。
濛々と立ち込める砂ぼこりの中には、衣類や日用品、食料まである。
冷静になってみればこれらがどこから落ちてきたのかは明確で――レトウェズは益々、空泊住居(アクラテ)に乗る気が失せた。
落ち着きを取り戻した雲母が、最後に降ってきた布切れを両手で捲くす。
この地域ではあまり目にすることがない真絹とレースを使ったパーティードレスは、イエローダイヤの持ち主のものなのか、これまた高価そうな代物だった。
その時、目線の先に大きな陰りが出来る。
再びやってきた落とし物に、レトウェズは、今日一番の俊敏さをもって対応した。
両腕で後頭部を隠し、砂利に額をつけて目を瞑る。
少し間を置いてから外した左腕で雲母を探してみるも、離れた場所にいるのか、外套の裾すら掴むことが出来なかった。
「…………何やってんだ?」
どうしてか、固形物ではなく、衣擦れの音と人の声が降ってくる。
流暢なアルバニア語を喋る声音は中性的な響きをもっていて、女の子らしい雲母のものとは明らかに違っていた。
痛む腰を庇いつつ上半身を起こすと、茫然とした横顔が視界に入ってくる。
どんなことがあろうとも空を見ようとしなかった青色の瞳は、不思議と真っ直ぐに上を向いていて――その先には、絶世の美女がひとり、ふわふわと浮いていた。
色褪せたジーンズに銀色のハイヒールというちぐはぐな足先が、音も立てずに砂を踏む。
地面に流れた空中華(マシェッド)と同じ色の長髪はイエローダイヤが霞むほどの艶を持っていて、同じく金色の双眸も、人を惹きつけるような何かを孕んでいた。
雲母同様、空泊住居(アクラテ)からの落とし物に目を奪われて、レトウェズは固まる。
「お。アンタ良いもの持ってんじゃん」
地に降り立つなりずかずかと歩み寄ってきた人物は、朱色のドレスを踏み拉いたうえで身を屈めてきた。
後方に置かれた巨大な荷袋。
男物のジャケット。
飄々とした態度。
普段の警戒心があれば気づけただろう違和感を置き去りに、レトウェズは一心に美女を見つめる。雰囲気に気押されるような形で尻の位置をずらすと、陶器のように白い指も迷うことなくついてきて――腰元に携えていた護身用の短剣の柄を、掴んだ。
止める間もなく抜き去られた刃が、金色の髪に宛がわれる。
少しだけならまだしも耳の上辺りから断髪を始めた美女は、顔に似合わない子供っぽい笑みを浮かべて鼻歌を口ずさんでいた。
ぱらぱらと、金色の繊維が地面に落ちていく。
時にはドサッという重い音を持って美女から離れたブロンドは、ほとんどが風に流されてどこかに飛んで行ってしまった。
「あー、スカッとしたぁ」
大きく伸びをして、美女――だった人物がにっと笑う。
「これさぁ、気に入ったからオレにくれねぇ?」
ざっくばらんに切られた髪と諸々のおかしい部分を今更ながらに目に留めたことで〝彼女〟が〝彼〟だとわかったレトウェズは、まず真っ先に――文句を言った。
「あれ落としたのおまえか! 危ないだろ!」
地面に散らばっている物品を指差して怒鳴ると、無駄に整った顔がきょとんとする。
「は? なに怒ってんだ?」
美女を改め美青年は、あっけらかんと言い放って腰に手を当てた。
粗野に見えてどことなく気品のある仕草と、横暴かつ自己中心的な性格からして、目の前にいるものは〝面倒くさい類〟の人間。
見惚れるような髪が失くなったことで少しだけ〝空泊住居(アクラテ)の落とし物〟の正体を掴めてきたレトウェズは、お近づきになってしまう前にずらかろうと、雲母の方を省みた。
「雲母ちゃん。行こう」
下方に垂れたままの細い手首を取ると、ふいに冷やりとした温度が伝わってくる。
どうしてか、いつもなら聞こえてくるはずの罵詈雑言もなく――触れている肌が固くなっているような気もして、レトウェズは顔から血の気を引かせた。
「……雲母ちゃん?」
ずっと空を見据えたままの雲母は、呼びかけても微動だにしない。
脳裏に過る嫌な予感が冷や汗になって額に滲むなり、心音は異常なまでに跳ねあがった。
鱗の浮きあがった頬を両手で挟むと、明らかに体温がないことが分かる。
規準以上の空中華(マシェッド)の花粉を浴びたわけでもないのに起きた事態は、レトウェズから一気に余裕を取り払った。
縺れる指で腰に巻いていたホルターを外し、手当たり次第に中身を取りだす。
ただ、地面に転がるのは錠剤や煎じ薬といった仮死状態の者には使えない薬剤ばかりだったために、思考は余計にこんがらがった。
「なー。これくれ」
空気を察することが出来ないのか、後方にいる青年は暢気に話しかけてくる。
しばらくのあいだは無視を決め込んでいたものの声は止まず、挙句の果てに肩を掴まれたことでレトウェズは勢いよく振り返った。
「邪魔だからどっか行けよ!」
置かれていた手を叩き落とすと、元々大きな瞳が丸くなる。
初めのうちは驚きに満ちていた眼が、二人分の掌を交互に見てゆくうちに嬉しそうに細められたことで、レトウェズは益々焦った。
そんなこともつゆ知らず、青年は思い立ったように上着のポケットを探り、細長い線のようなものを引っ張りだしてくる。
形のよい耳朶に小さな白色のイヤホンが掛けられて初めて、青年がこちらの言語を理解していなかったことを知ったレトウェズは、それならもう一度同じことを言ってやろうと勇んで口を開いた。
「アンタ、面白いな。気に入った」
声を発する前に、嬉々とした発言をされる。
同時に一歩前に抜きん出られたことで、レトウェズは慌てて雲母の方に向き直った。
「このチビ、治して欲しいの?」
心の中を読んだかのような言葉が、やんわりとした声音に乗る。
青年の言動や態度は本当にころころと変わり、感情を逆撫でてくれた。
「出来るわけないだろ。馬鹿にするのも大概に……」
レトウェズは、怒りで震える声を押さえもせずに強張った雲母の肩に手を置く。
すると、青年も同じように掌を乗せて――あろうことか指先を握ってきた。
途端に、周囲にあった風がぴたりと流れを止める。
何かを言ってやろうと背後を振り返ったレトウェズは、薄い唇から洩れる唄のような呪文と、掌に走った妙な違和感によって、否応なく喉を詰まらせた。
自分の掌を通して、青年の体温が雲母の方へと落ちていくような感覚がする。それは、耳元で意味を汲めない言葉が紡がれている間中続き、ある時を境にふっと消えた。
青年が絡めていた指を解くなり、雲母の膝が砂の上に落ちる。
数分間同じ体制のまま止まっていた身体は、傾れるように地面につっぷしたあとで、規則正しい寝息を立てはじめた。
強張っていた頬には僅かに赤みが差し、見開かれていた瞼も閉じている。
レトウェズは、ほんの一瞬の間に何が起こったのかを理解できずに、首を捻った。
「な、何したんだ?」
「オレが来る前の状態に戻しただーけー」
別段得意げになるでもなく、青年は髪を掻き乱しながら言い捨てる。
現状、空(マシ)中華(ェッド)の金粉に汚染された生物を治癒する術は、無いといわれている。
風化までの進行を遅らせることは出来ても回復は不可能だということも、数多の国を渡り、ありとあらゆる治療を試みて望みを絶たれた末に、医者の端くれを名乗る自分自身が認めた事実だった。
「ほんと助かったよ、ありがとう。……それ、持ってっていいから」
半信半疑のままに頭を垂れ、レトウェズはとりあえずの礼をしておく。
「あらら。アンタ、欲ねぇな」
いつの間にか地面に置かれていた自分の短剣を指差すと、青年はいそいそと護身具に手を伸ばしてから、どうしてか苦笑した。
「そーゆうとこも、気に入った」
どことなく嬉しそうに見える顔が、混沌とした空と対峙する。
「アンタさ、オレと一緒に、この世界変えてみる気ねぇ?」
目に痛いまでの金色の化身が振り返りざまにしてきた脈絡のない提案は、正に夢物語。
「変えようが無いよ。ここはもうすぐ、アレに呑まれる」
世間知らずに見える青年に現状を教える意味を込めて、レトウェズは遥か彼方にある巨大な華を指で辿った。
「呑みやしねぇよ」
ついと眼前を横切った指先が、手の甲に触れてくる。
「アンタみたいな人間が増えれば、この世界はちゃんと続くから」
ひやりとした感触と金色の双眸が瞬く様に意識を奪われていると、諮ったかのように傍らで雲母が寝返りを打って、わけもなく肝が冷えた。
「まぁ、まずは自己紹介といこうぜ!」
ふいに明るい声が耳を突き、勝手に握手の態勢を取られる。
「オレは丘登利磊。東南諸国の首相の……まぁ、戸籍上は一人娘」
第一印象で抱いた〝面倒そうだ〟という予感的中な肩書きを冗談のように綺麗な笑顔で言ってのけて、磊と名乗った青年は短剣をくるくると回す。
「ぶっちゃけ性別とやらはねぇんだけど、一応男ってことにしといてくれ」
意図不明な言葉の群れに否応なく思考を停止させられて、レトウェズは眉根を寄せた。
「は? ちょっと」
「で、だ。今その、丘登利首相の後継ぎはとても困ってるわけなんだわ」
軽く片手を上げられて、言わんとしたことを塞き止められる。
「もうすぐ小煩いフィアンセが権力欲しさに追ってくるから、助けてくれませんか?」
続いて聞こえてきた声は、どこからどう出しているのかは分からないものの紛れもない高音で、自然と背中が粟立った。
「………………何で俺なの」
半ば脅迫まがいな願い出に、レトウェズは僅かばかりの抵抗をする。
美麗な顔に子供じみた笑みを浮かべた磊は、手を握る力を込めてから――
「アンタは、オレを受け入れてくれた初めての人間だから」
少し淋しそうに、遠くの宙を仰いだ。
地上に咲く花々が絶えた今。
空に植え付けられたただひとつの蕾が、静かに開花する。
世界の歯車を回す空中華(マシェッド)が望むことは、ただひとつ。
「……誰これ」
「……えっとね……彼は磊くんと言って……」
背中から聞こえてきた起き抜け声に恐る恐るの返答をして、レトウェズは傍らに目をやる。
「そーそー磊くん。これから一緒に逃避行して貰うから、よろしくー」
適当この上ない挨拶と一緒に欠伸を零した空からの落とし物は、冷めた昼食を無断で頬張りつつ、至極楽しそうに笑っていた。
MASEED ぽん @pontanooshiri
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