第32話 湧き出す魔。

 湧き出す魔。

 それまで、ただの夜空だったそこに醜悪な光景が広がっていく。

 ドロドロとおどろおどろしく周囲に広がるように湧いているその魔は目玉のような丸い泡をいくつもいくつも産み出して。

 そんな気持ちの悪い物が天空を覆おうとしていた。


 その中心にいる影。


 それが声を出す。


「さあ、今からでもいいよ? もう一度ノワールを殺すチャンスをあげる。お前たちにこの魔を授けよう。さあ、ワタシのそばまで来るといいよ」


 そう人の言葉のように聞こえるそんな甲高い声。でも。


「兄さん」


 え?


 ノワール、今なんて?


 超常なそんな宙を見上げノワールが呟くように声を絞り出した。


 って、嘘うそウソ!

 あんなのがノワールの兄王子な訳がないよ!


 だってあれ、レイスからして違うもの。

 人間、じゃ、あり得ない。

 あんな禍々しい氣を撒き散らしている存在が人間であっていいはずがないもの!


 ゲームの中の魔王ですらまだかわいい。

 あれはまだ理解できた。

 うん。ずいぶんと歪んではいたしそういう設定ではあったけど、まだ人知が及ぶ存在だった。

 だって、そう、人によってそうあるように創られたものであったもの。


 だけど、あれは、違う。

 あたし今、ここにきて初めて震えが止まらなくなっている。

 あれは、だめ。

 あれは、怖いものだ。


 だめ、ノワ。


「大丈夫。マキナ。君は俺は守るから」


 震え出したあたしを優しく包み込むように抱きしめてくれるノワール。

 その体温の温かさに、あたしは少し、心が楽になるのを感じて。


「ありがとう、ノワール」


 そう抱きしめてくれている腕に頬を擦り付け、囁いた。

 はう。少し震えが落ち着いてきた?



「ああ、ノワール。お前もずいぶんと獣臭くなったね。いいよ、お前がもしワタシを受け入れるなら、殺すのをやめてあげてもいいかな?」


 おどろおどろしい甲高い声がそう言った。


 ソユーズたちがふらっと立ち上がる。

 ああ、だめ。


 あの魔を受け入れたらみんな人間じゃなくなっちゃう。

 だめだよ、絶対に、だめ。


 兄王子を騙るその魔の言葉を信じちゃったら、だめ。



 声にならないそんな声を心の中で叫ぶあたし。

 でも。


 通じてくれた?

 ううん、彼らにもちゃんとわかってる?


「俺たちは魔にはならない!」

「そうだよ! レヒト殿下のふりをしたって騙されない」

「そんな禍々しい姿で現れてレヒト様を騙るなんて、いい加減にしてほしいわ!」


 ソユーズ、サイレン、ラプラスの三人は、まるでノワールを護ろうとするかのように。

 あたしたちを庇うように前に立った。



「はは、ははははっ。このワタシがレヒトを騙ってるだと? ははっ。馬鹿だなお前たちっ! ワタシはレヒトそのものだよ! と言っても本物のレヒトのレイスはもうとっくの昔に食べちまったけどなっ!」


「なんと!」

「レヒト殿下……」


「このガワはレヒトのもので間違いはないよ。まあ要するに今はワタシがレヒトそのものってことさ。もう何年も前からね!」


 ああ、なんてこと。


 この魔はレヒト殿下を蝕んで、乗っ取ってしまったってこと?


 そもそも魔にこんな意識が存在するの!?

 っていうか、ゲームの設定にあった魔界、あれは設定だけで細かいところはまだマギアクエストのゲーム内では明かされてはいなかった。

 ただ、この世界の裏側にはマナが濃く溜まった魔というものが存在しているという話。


 世界を創っているブレーンの外側に存在するマナ。そして、風船のようなブレーンの内側に溜まっている魔。この内側に魔が溜まった世界のことを、魔界、と呼んでいた。


 そしてたまたまこのブレーンの表面、この世界に滲み出てくる魔から生まれるものが魔獣と呼ばれているって、そんな設定だった、けど。


 ゲームの中のラスボス、魔王というものは、そうした魔が人の心を蝕んで暴走した結果、人が魔人と化した存在だった。


 そう、そもそもノワールだってそう。


 あの漆黒の魔窟の最下層に描かれた魔法陣によって滲み出た召喚された魔によって蝕まれ、朽ちた人の体を魔獣へと置き換える形で転生したのだった。

 あたしが彼の心ごとキュアで浄化していなかったら、ノワールのレイスの奥底に溜まった魔は魔石となり、真っ赤に染まってそのレイスを魔獣そのものに変えてしまっていただろう。


 もともと魔に取り憑かれた人の心はその魔を祓い浄化してやることで魔人とならずに助かることもある。

 そういうシナリオもいくつもあった。

 だから、ノワにもキュアが効いたし、助かるかもって予感もあったのだ。


 でも。


 こいつは違う。

 根本的に違う。


 え? 何? 


 レヒト王子のレイスを食べちゃった?


 なんてこと。

 なんてひどいこと。


 これはもう、魔とだけ呼ぶのも違う気がする。


 マギアクエストの世界では存在しなかった、「悪魔」と呼ぶのに等しい所業だ。



「あなた、何なの!?」


 あたしは思わずそう叫んでた。

 多分その声は涙声になっていたと思う。

 かなり取り乱していたから。


「ふむ。お前こそ、何者だ? どこから来た?」


 そうにやりと気持ちの悪い笑みを浮かべ、そいつははじめてあたしの方を見たのだった。



 ずずっと。

 あたしを庇うように前に出るノワール。


「この子は関係ない。今は俺が相手だろう? 兄さん?」


「はは。お前だけはまだワタシのことを兄さんと呼ぶのだな。まあお前ももう既に純粋な人ではなくなっているからワタシと同類だがな」


「一緒にされても困る。俺は俺だ。身体が変わっても心は何にも変わってないよ」


「はは。ワタシと逆だと言いたいのか? ならば良い。このまま全て、飲み込んでやろう」


 レヒトだったものはそういうと、両手をばっと広げた。


 周囲に浮かぶ気持ちの悪い泡、丸い眼球のようにも見えるそれらから、一斉に魔獣が産まれる。


 ああ。

 あれは魔の塊? ううん、みんな魔でできたレイスだったの?


 その泡の一つ一つが一匹の魔獣となり、空が魔獣で埋め尽くされ。


「すべて滅ぶといい」


 指揮者のように両手を振る。

 それを合図に、空の魔獣が一斉にこちらに向かって押し寄せてきた。



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