第87話 進もうとする者の瞳
情報共有と少しの準備を経て、わたしは一昨日ぶりにウルヌス教授──いや、オウガスト・ウルヌスの研究室へと向かっていた。今日を以ってヤツを、カミの片鱗を流通させる実行犯の一人を、捕らえる。
奇しくも同日にイノリとアーシャが見たものには驚かされた。とはいえ現状では、『学院』はカミを『相違次元生命』と呼び、まるで実験動物のように扱っているという事しか分からない。それだけでもイノリにとっては噴飯ものだろうが……その件はひとまずお上とやらの判断を待つ、らしい。
今わたし達にできるのは、別口で実行犯を取り押さえる事だけだ。荷が重いなどとは言ったが、けれどもなんとしてもやり遂げる。
わたしだって怒りが無いわけではないのだ。勿論、手を出してしまった自分の心の弱さが最大の原因だとは思っているが、しかしやはり、最初からあんなものがなければとも考えてしまう。そうすればわたしは……いや、わたしは腐ったままだったろうが、少なくともマニがあのような
……兎に角。わたしにカミの片鱗を送り付けてきたのがオウガスト・ウルヌスなのかハトア・アイスバーンなのか、はたまた更に別の経路からなのかは不明だが、それを知るためにもやはり、オウガスト・ウルヌスを確実に確保しなければ。などと考えているあいだに、気付けばわたしは、件の人物の研究室の前へと辿り着いていた。
「…………」
うなじの辺りにチリチリと、昼下がりの日光を感じる。廊下に並んだ窓の外はまさに真夏日と言った様相で、その日差しのお陰で、緊張で滲む汗も誤魔化す事ができそうだった。
「……よし」
小さく息を吐いてから、研究室をノックする。すぐに扉が開いて白髭白髪の老人──オウガスト・ウルヌスが現れ、あまりにもいつも通りの様子で手招きをした。
「待っておったぞバーナート嬢。さあ」
「はい、失礼します」
こちらも努めていつも通りの、我ながら愛想に欠ける返事をしながら部屋に入る。後ろ手に戸を閉めて、中央に鎮座する長テーブルの奥の方へ。上座に腰掛けた部屋の主の右手側に座り、いつもの構図で顔を突き合わせ、けれどもオウガスト・ウルヌスが吐く言葉は、もう今までのものではない。
「──して、どうじゃ?決心は付いたかの?」
「……正直、迷いはありました」
正直に言おう。この言葉に嘘はない。
わたしは迷っていた。
「うむ。伝えた通り、この手法にはリスクが伴う。思い悩むのも無理はなかろう」
この部屋でカミの片鱗を、あの黒い羽根を差し出されたとき。わたしは思ってしまった。もう一度、あの力が手に入るかもしれないと。
「じゃが、それを押して挑むだけの資質が、君にはある」
何のかんのと言っても結局、目の当たりにしてしまえば理屈なんて無しに欲してしまう。マニを悲しませた事も、力を得てもなおイノリに手も足も出なかった事も頭の隅に追いやられて。あの最中に抱いていた後悔も、
ただ“力”へと、手を伸ばしてしまいたくなった。
「努力と才気、向上心。その全てを兼ね備えておる」
……だが。だがそれは、今に始まった話じゃない。
イノリはわたしの中のカミを全て払う事ができなかった。あの『騒動』の後もわたしの中には、ほんの僅かなカミの残滓が残っていて。無力感に苛まれそれに手を伸ばしてしまいそうになったのも一度ではなかった。
もしも、もう一度わたしが力に溺れてしまったら、イノリは今度こそ失望しわたしを完全に見限るだろう。当初言われていた通り、死ぬまで霊峰とやらに閉じ込められる可能性もある。
そうなれば、マニも。『契約の首輪』によってわたしから離れられないあいつも、同じ末路を辿る事になる。神伐局などという胡乱な組織に入る羽目になった今でも、わたしはマニに、小さな世界で終わって欲しくはないと思っている。あの才能と努力を、無為にはしたくないと。
そう思えばこそ、己の内から湧く誘惑に耐えてこられた。これまでも、先日も、そして今も。
「──バーナート嬢。君は、類稀なる存在なのじゃよ」
「……ありがとう、ございます」
オウガスト・ウルヌスの言葉も最早、わたしをその気にさせる為の御為ごかしにしか聞こえなかった。
だが今は、それに乗ったふりをする。
意を決した風に視線を上げ、目の前の老人と目を合わせる。偉大なる魔法使い。その指導を受けられる事を光栄に思っていたし、それでも伸び悩む自分の不甲斐なさを嘆きもした。いや、不甲斐ないのは今もそうだが……兎に角、もはやオウガスト・ウルヌスに対する尊敬の念は掻き消えた。
皮肉な事に、敬意が消えたからこそ臆する事なく彼を見据えられたし、向こうにはそれが、覚悟を決めたように見えたらしい。
「うむ、良い目じゃ。進もうとする者の瞳。先を見据える者の光が宿っておる」
満足気に頷いたオウガスト・ウルヌスは、先日と同じようにゆっくりとローブのポケットに手を入れた。やはり呼応するように、わたしの中のカミの残滓がざわめく。心臓を裏側から引っ掻かれているような焦燥感。静かに息を吐いて心を落ち着かせ、ただオウガスト・ウルヌスの様子を窺う。
「──わしはこれを、叡智の欠片などと呼んでおる。まあ、正式な呼び方ではないのじゃがの」
ちょっとした秘密を共有するかのようないたずらめいた言い草に寒気が走った。それと同時に、あの黒い羽根が今一度姿を現す。皺の目立つ手の上にそれを乗せ、ゆっくりとこちらへと差し出してきた。
「ほれ、バーナート嬢。君はこれの使い方を分かっておるはずじゃ」
その言葉に目を見開くと同時、扉が勢い良く開け放たれる。
「──なあぁぁぁにが叡智の欠片ですかこの耄碌ジジイが!!」
お前が先陣を切るのか……とは、言わないでおいてやった。
一応、上司という事になっているわけだし。
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